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2018年10月5日金曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第14項:強大な求心力を発揮した父・足利義満政治を否定し、逆に遠心力を生じさせた“足利義持”の政治期

1:足利義満の急死後に足利義持を家督並びに政権の後継者に就けた宿老“斯波義将”

“公武”双方の権力を掌握し、政権の“絶頂期”にあった足利義満は、後継者に就いて言い遺す事無く急死した。

足利義満が指向した政治は“北山殿義満”という新しい日本の政治体制下で“中華世界システムの中の日本“に君臨するという、高邁な“国家観”に基付いたものであった。そうした観点から足利義満が継がせようとした継承者は“椿葉記(伏見宮貞成親王=第102代後花園天皇の父親・生:1372年・没:1456年が著した家譜)“には”世間は足利義嗣と見做していた”と書いている。父・足利義満が存命であれば、その可能性は大であったであろう。

しかし“公武”双方の政治権力を同時に握り“北山殿”として政務を統合する“新しい政務機構”を構築しつつあった足利義満はその継承作法については未だ確立していなかった。従って足利義満の急死時に“武”の政治機構、つまり“室町幕府・第4代将軍”の地位にあった足利義持を後継者選びに際して排除する力が働くには至らなかったと“太平記の時代“の著者”新田一郎“氏は指摘している。

そして、足利義満に只一人、物を言う事の出来た宿老“斯波義将”が主導して足利義持の家督相続、並びに、政権相続が決定したのである。

後継者が決まった状況に就いて“椿葉記 ”には下記の様に書かれている。

さだめなき浮世のならいのうたてさは,いく程なく同五月六日准号薨給ふ。鹿苑院と申。世中は火を消たるやうにて、御跡左衛門督入道(斯波義将)おしはからい申て、嫡子大樹勝定院(足利義持)相続せらる

1-(1):父・足利義満に対する“太上天皇”尊号を辞退させた“斯波義将”

1408年(応永15年)5月9日:

“公”の側、即ち“朝廷”は足利義満の死に対して生前の意向を忖度して“太上天皇”の尊号を贈ろうとした。臨川寺(りんせんじ:創建1335年:開基・夢窓礎石)の位牌には“鹿苑院太上法皇”とあり、又、相国寺の過去帳にも“鹿苑院太上天皇”と記されている事から尊号贈与が史実であった事を裏付けている。

しかし“武”の側、即ち“室町幕府”はこれを“前例が無い”として断っている。主導したのは室町幕府創設の元勲“斯波高経”の4男で斯波氏の最盛期を築き、30年間に亘って幕府重鎮であり続け、義満死後の政治に発言力を増した“斯波義将(しばよしゆき・生:1350年・没:1410年)”であった。

1-(2):足利義持の生い立ちと人物について

1-(2)-①:父・足利義満との不仲

母・藤原慶子(ふじわらのよしこ・生:1358年・没:1399年)は足利義満の侍女として仕え、後に側室と成った人物である。足利義持には1386年(至徳3年)に生まれた異母兄“尊満”が居たが、嫡子として扱われた。

又、同母弟に後に室町幕府・第6代将軍となる“足利義教(生:1394年・没:1441年)”がいる。更に異母弟には足利義満に偏愛された“足利義嗣“がいる事は前項で記述した。足利義嗣とのその後の関係、その他の兄弟に就いては後述する。

父・足利義満は義持の母“藤原慶子”に対して冷淡だった事が伝えられ、それが、父・足利義満との不仲の原因とされる。それを裏付ける話として、足利義満が北山第(邸)に移った時に“藤原慶子”は息子の将軍足利義持と共に“室町御所”に居た事が挙げられる。

慶子は足利義満が絶頂期にあった1399年に41歳で没するが、足利義満は悲しみの態度を見せず、忌中にも拘わらず大酒を飲んでいた事が“迎陽記(こうようき=後円融・後小松天皇に仕えた儒者・公卿東坊城秀長・生:1338年・没:1411年の日記)“に記されている。

前項で記述した様に、足利義満は足利義持を室町幕府第4代将軍にしたものの、政治の実権を与えず、異母弟の足利義嗣を溺愛したとされる。そうした境遇の下で成長した足利義持という人物であるから、父・足利義満の政治を踏襲する姿勢は見られなかった。

1-(2)-②:信心深く、一流文化人という側面を持った“足利義持”

室町幕府第4代将軍としての期間、そして出家後も続いた“足利義持期の政治”は①父・足利義満を反面教師とした政治②衆議を重んじた政治③信仰心に厚かった政治に特徴付けられよう。

足利義持の政治が父・足利義満を反面教師とした政治であった事、そして衆議を重んじた政治であった事に就いては史実を時系列に記述して行く事で明らかにして行きたい。信仰心に厚かった事については、後述する、死に臨んでも将軍後継者を“籤引きに委ねた”という史実が何よりも雄弁に伝えている。

足利義持は一流の文化人であったが、この分野でも父・足利義満への抵抗であろうか、猿楽を好んだ父に対して田楽を好み、神社・仏閣での参籠(一定期間籠って祈願する事)の際に演じさせていた記録が残っている。田楽新座の“増阿弥”を贔屓にした事は前項で記述した通りである。

足利義持は禅文化に心酔した事でも知られる。彼の時代には京都五山の禅僧が参集し、さながら文化サロンが形成され、水墨画が発展した。林芳・明兆・周文等が知られるが、画僧“如拙(生没年不詳)”との密接な関係が有名であり、国宝“瓢鮎図(ひょうねんず)”を紹介する事で述べて置きたい。如拙の画風は“周文”に受け継がれ、更に“雪舟”等に伝えられて行った。

1-(2)-③:国宝“瓢鮎図(ひょうねんず)”観賞記・・2018年7月24日

国宝“瓢鮎図”は“詩画軸”と称され、画面上半が“画賛”と称される漢詩を並べた部分で下半分には“画=水墨画”が描かれるもので、室町時代に盛行した“画態”である。

当時の第一級の知識人でもあった足利義持は、漢詩にも深い理解を示した。国宝“瓢鮎図”は将軍・足利義持が与えた公案(禅問答)“丸くすべすべした瓢箪で、ぬるぬるした水中の鮎(=鯰・ナマズ)を捕る事が出来るか“の問を出し、それを当代一流の画僧・如拙に命じて水墨画に描かせ“五山の名禅僧”達が禅問答に漢詩で答えたものである。

2018年7月24日に京都妙心寺“退蔵院”を訪れ“瓢鮎図”を観賞した。この画は複製であり、実物は京都国立博物館に預けられている。訪問時点で京都国立博物館に展示されておらず、又、撮影は禁止との事であったので、複製ではあるが、妙心寺・退蔵院に“瓢鮎図”の観賞と写真撮影に訪れた。

下記に載せた写真では詳細は読めないが“詩画軸”には、先ず“序”として大岳周崇(たいがくしゅうすう・生:1345年・没:1423年)がこの“詩画軸”製作の意図について書いている。“大相公(足利義持の事)が僧”如拙“に命じた画であり、その趣旨は、将軍足利義持から出された禅問答=瓢箪で鯰(なまず)を抑える事が出来るか?=に答えたもの“との文章が添えられている。

当時製作された多くの“詩画軸”は十数詩であるが“瓢鮎図”には、玉畹梵芳(ぎょくえんぼんぽう・生:1348年・没年不詳)太白真玄(たいはくしんげん・生:1357年・没:1415年)等、当時の京都五山(南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の高名な禅僧31名の手による漢詩が書き並べてあり、その多さの点でも“国宝“たる所以とされる。

ユーモア・機智に富んだ漢詩による答え(賛)の例として“玉畹梵芳”の答を紹介すると、“瓢箪で押さえた鯰でもって吸い物をつくろう。ご飯が無ければ砂でもすくって焚こうではないか“とあり”周宗“の答えは”瓢箪で鯰を押さえつけるとは、なかなかうまいやり方だ。もっと巧くやろうなら、瓢箪に油を塗っておくが良い“とあった。

勿論、瓢箪で鯰(当時はナマズを鮎の字で表したとある)を抑える事など出来る筈は無く、禅問答(公案)を出した足利義持も正しい答えを期待した訳では無い。禅僧達と一緒に考え、笑い転げる事が目的、楽しみとする当時の知的な遊びであった。

“大岳周崇”の序に拠ると“座右之屏(ついたて)の表裏に画と賛(漢詩による答え)が書かれた“とある。今日国宝とされる“瓢鮎図(複製)”は111.5cmx75.8cmの“掛軸装”に改装されている。当初は足利義持の三条坊門邸の“衝立(ついたて)”として作られ、片面が水墨画、他の片面が31人の五山の禅僧の漢詩が並ぶというものであった。

製作年次に就いては“瓢鮎図”の“賛(禅問答に対する回答)”に参加した僧の名前から1413年(応永20年)前後とされる。尚、妙心寺・退蔵院ではこの複製““瓢鮎図”を年中無休、朝9時~17:00迄、観賞可能である。撮影も可能との事であるので美しい庭園観賞も兼ねて訪問される事をお勧めする。



(国宝“瓢鮎図”複製)
(退蔵院にある説明書き)


2:室町幕府第4代将軍“足利義持”の初期の政治期を主導した“斯波義将”

2-(1):斯波義将という人物(生:1350年・没:1410年)

2-(1)-①:足利義満没後、朝廷が“太上法皇(天皇)”尊号を贈るという申し出に対して“足利義持”に辞退する事を勧めた“斯波義将”

足利義満という強大な権力を握った人物の死は大混乱を招くものだが、それを電光石火の如く“足利義持”を後嗣と決め、若く、政治経験の乏しい“足利義持”の政治体制を整え、補佐しながら、政治を主導したのが“斯波義将”であった。

斯波義将は南北朝動乱の中を生き抜いて来た百戦錬磨の闘将である。足利義満と斯波義将は協調と確執の数十年の関係であった。足利義満時代、幕府管領職に在った“細川頼之”を“康暦の政変(1379年)”で追放したが、1391年には足利義満との意思疎通を欠いて越前国に下向、山名氏との“明徳の乱(1391年)”でカムバックした。そして、1393年(明徳4年)に、3度目の幕府管領職に復帰し1398年迄その任に在った。

高潔な人物として知られ、将軍・足利義満が罪人を罰しその上、邸宅まで取り壊そうとした際には、俊寛が罰せられた例を挙げ“俊寛は罰せられたがその邸宅まで取り壊すのは将軍として如何なものか“と諫めた逸話が伝わる。

既述した、足利義満に対して朝廷から“太上法皇”の尊号を贈るとの申し出に対して、将軍足利義持から相談を持ち込まれた際、斯波義将は“将軍家にとって大変名誉な事ではあるが、臣下の身でその様な待遇を得た前例が無いので辞退されるのが宜しいでしょう“と進言している。この判断は、斯波義将が足利義満政治に対して批判的見解を持っていた事を裏付けるものとされる。

2-(2):“公武”双方の実権を握り、空前の権力者となった“北山殿義満”に只一人意見の出来る存在であった“斯波義将”

2-(2)-①:初代幕府管領となった“斯波義将“

復習となるが、室町幕府の行政機関の最高官職は“執事”であった。これは鎌倉時代の“内管領“を先例とした。高師直(在職1336年~1349年)高師世(在職1349年)仁木頼章(在職1351年~1358年)細川清氏(在職1358年~1361年)までは“執事“と呼ばれたが、以後は“管領”と呼ばれる様になる。

細川・斯波・畠山の3家から交代で就任する様に成った為“三管領”と呼ばれる事は既述した通りである。斯波義将は1362年、12歳の時に初代幕府管領職に就いた(在職1362年~1366年)。しかし、1366年8月の“貞治の変”で父・斯波高経が細川頼之・佐々木道誉によって追放された時に、斯波義将も父に連座して越前に逼塞した。

斯波義将が名を挙げたのは父・斯波高経が没した(1367年)後に、足利直義・直冬の強力な与党であった桃井直常・直信兄弟と戦い(1369年~1371年)越中を完全に平定した武功をあげ、室町幕府の勢力下に無かった“越中国”の守護に復帰した時とされる。斯波義将が19歳~21歳の頃の事である。

2-(2)-②:細川頼之と政敵関係にあった斯波義将

“貞治の変(1366年8月)”で父・斯波高経が細川頼之・佐々木道誉に追われた時から両者は政敵関係にあった。そして1379年の“康暦の政変”で反細川頼之派の旗頭として軍事クーデターを起し“花の御所”を包囲し、足利義満に管領・細川頼之の解任を迫った。結果、2度目の幕府管領復帰(在職1379年~1391年)を果たした経緯も既述した通りである。

ところが、自ら政治を主導する様に成った“足利義満”が、解任され、追放された政敵“細川頼之”を1389年に赦免した事で、1391年には、自ら2回目の幕府管領職を辞し、領国・越前国に帰っている。後任には、細川頼之の弟の細川頼元(頼之弟)が幕府管領職に就いた。1392年に政敵“細川頼之”が没すると、斯波義将は再び幕政に戻り、以後1393年6月から3度目の幕府管領職に就くという(在職1393年~1398年)細川頼之との政敵関係の歴史であった。

2-(3):斯波氏の最盛期を迎える

斯波義将が九州探題・今川了俊の解任(1395年8月)にも関与したとされる事は既述した。1395年には、嫡男・斯波義重(母親は吉良満貞の娘・斯波氏6代当主・生:1371年・没:1418年)に、家督を譲っている。1399年の“応永の乱”で子の“斯波義重”と共に軍功を挙げ、足利義満は斯波父子の働きに対して、越前・尾張・遠江・信濃・加賀、五州の守護大名に任じる事で報いている。この時点が“斯波義将”に拠って築かれた“斯波氏の最盛期”とされる。

こうした実績から“斯波義将”は、足利義満に只一人意見が出来る存在であった事から、足利義満急死後の足利義持への幕政移行期に大きな発言力を持ったのである。

2-(4):斯波義将嫡子“斯波義重”

嫡子・斯波義重(1402年に斯波義教に改名・生:1371年・没:1418年)も足利義満からの評価が高く、足利義満の猶子となり、1405年には幕府管領に任じられている(在職1405年~1409年)。彼の実績として知られるのが1405年に尾張守護所“下津城”の別郭として、後世、織田信長がこの城から“桶狭間の戦(1560年)”に出陣した事で知られる“清須城”を築城した事である。

因みに、後に織田信長を出す“尾張織田氏”の祖とされる“織田常昌(おだじょうしょう・生没年不詳)”は“斯波義重”が参拝した織田社の神官の子息であった。斯波義重がその聡 明さを認め、近習として貰い受け、所領を与えたのが始まりである。

1408年、足利義満急死の葬儀の記録に、将軍足利義持、舎弟足利義嗣、日野重光(義満の義弟)と共に当時37歳の斯波義重も“ひきづな”を取ったとある。彼が足利義満に重用された事を裏付ける記録である。

2-(5):斯波義将の最晩年と死

斯波義将は1395年、3度目の幕府管領職(在職1393年~1398年)に在った年に足利義満の出家に追従して出家している。“道将”と称してこの時に家督を嫡子・斯波義重に譲っている。出家した斯波義将が1409年6月(応永16年)に59歳という高齢で、ほんの僅かの期間、4度目の幕府管領に就いているが、この背景には詳細は不明だが、斯波義重(1402年に斯波義教に改名)が将軍・足利義持の怒りに触れ、高野山に出奔したという事情があった。

斯波義将は2カ月間のピンチヒッターの後、1409年(応永16年)8月には斯波義重の嫡男で12歳の斯波義淳(しばよしあつ・生:1397年・没:1434年)に幕府管領職を引き継いでいる。

1410年(応永17年)5月7日:

斯波義将の死は1410年5月に訪れた。60歳で病没したのである。斯波氏の全盛期は彼の死で終わりを告げる。孫の斯波義淳に管領職を継がせ、斯波氏に拠る幕政支配を目指した室町幕府宿老の死で幕府内の力関係は直ぐに変わった。

同年 6月:

13歳だった斯波義淳の幕府・管領職は解かれ、38歳の畠山満家(畠山基国嫡男・生:1372年・没:1433年)が幕府管領職に就いた。4代将軍・足利義持期は以後、畠山満家が1410年~1412年と1421年~1429年の2期間幕府管領職を務め、細川満元(生:1378年・没:1426年)がその間の第11代幕府管領職を務めている(在職1412年~1421年)。

従って斯波氏は“斯波義将”が存命中の最初の2年間だけは“幕府管領職”に就いたが、以後は政務の中心から外されたのである。(斯波義淳は足利義持没後の1429年8月、第6代室町幕府将軍・足利義教に乞われて20年振りに2度目の管領職に復帰する)

3:第4代室町幕府将軍、並びに出家後も含めた“足利義持”政治期の総括

3-(1):“足利義持”の政治期は以下のA~Fに分ける事が出来る

:将軍足利義持としての初期の政治と称光天皇即位に関して起きた“後南朝問題(1410年11月~1459年?)“に関する事項
:明国との冊封解消・国交断絶と“応永の外寇”に見る李氏朝鮮との外交問題(1411年~1420年)に関する事項
:“上杉禅秀の乱(1416年)”を含む“鎌倉公方・足利持氏=鎌倉府”との対立に関する事項
:足利義持が晩年に抱えた2つの心配事について
:死の直前の“赤松持貞”事件に見る、足利義持の“専断政治”に関する事項
:“足利義持”の急死と、籤引きによる後継将軍の決定に関する事項

足利義持は強烈な個性と政治力で“公武双方”の実権を掌握し“グローバルな国家観“の下で日本に君臨しようとした父”足利義満“程の強いリーダーシップを発揮した将軍では無かった。

己を知る足利義持が用いた政治手法は有力大名・幕府重臣・宿老との衆議一致を尊重した政治運営であったとされる。父・足利義満の政治とは対照的な政治手法に拠って、表面上は“平穏な時代”を築いた将軍とも評されるが、反面、強烈な政治力で“公武“双方を押さえつけた父・足利義満期の政治に対する反動が“至尊(天皇家・朝廷・公家層)”勢力、並びに“至強(将軍・室町幕府・守護大名)”勢力の双方に生じた政治期であった。

別の観点からは“足利義満期”に存在感が希薄となり、危機的とも言える状態にあった“至尊(天皇家・朝廷・公家層)”勢力は息を吹き返し、又、朝廷政治の枠組みの中に取り込まれそうな状態にあった“至強(将軍・室町幕府・守護大名)”勢力も、足利義持が有力大名・幕府重臣・宿老達との衆議を重視する政治姿勢であった事で、夫々が発言力を増し、活動を活発化させる事になったのである。

“足利義満”が持っていた強烈な求心力が弱まった事で“公武”双方に対する遠心力が働く様になり、結果として徐々に幕府を中心とした“国家運営”から、各国の守護大名への分離へと変化して行く事になる。そして“応仁の乱(1467年)”の勃発を契機に、戦国時代と呼ばれる“武士層の出現による混乱の500年(1100年~1600年)”を代表する“戦国大名”によって日本が分割統治される期間“遠心力”が最大化された期間が100年以上も続く“序章“となったのが”足利義持の政治期“であったと言えよう。

3-(2): に分けた“足利義持”の政治期の主たる出来事を時系列に総括する

1408年(応永15年)6月:足利義持が家督を継ぎ、北山第を居所とする。

同年12月:足利義持、足利義満の急死を明に通告。明国・永楽帝が義持を日本国王に封ずる。B

1409年(応永16年)6月:管領・斯波義将が足利義満の死と足利義持の将軍襲職を李朝(1392年~1910年)の太宗(在位:1401年~1418年)に通告。倭寇の禁圧を約束する。

同年10月:足利義持、北山第から三条坊門邸に移る。

1410年(応永17年)5月7日:足利義持を支えた斯波義将が歿する。

同年11月27日:後亀山(法皇)が突如嵯峨を出奔し吉野へ潜幸する。理由は生活上の困窮(看聞日記)、南北朝合一条件の不履行(後小松天皇の躬仁親王の即位=称光天皇)を画策していた事への抗議とされる。

1411年(応永18年)9月:幕府・明国の使者“王進”を拒絶し、兵庫から帰国させる。以後国交を断絶し、冊封関係も消滅する。B

1412年(応永19年)8月29日:南北朝合一の際の約束に反して“称光天皇”が践祚する(第101代天皇)。

同年9月:後小松上皇が院政を開始する。以後20余年間、院政を行う。

1416年(応永23年)10月2日:“足利満隆”を大将軍とした“上杉禅秀の乱”が勃発し鎌倉府を襲い“クーデター”が成功する。鎌倉公方・足利持氏は駿河に逃れる。C

同年10月29日:幕府が“鎌倉公方・足利持氏救援”を決め、今川範政・上杉房方に軍の派遣を命ずる。C

同年10月30日:異母弟“足利義嗣”が京から出奔し、将軍・足利義持が仰天する。C

同年11月2日~9日:“足利義嗣”が京に戻され(2日)、仁和寺興徳庵に移され、更に相国寺林光院にて厳重な監視体制下に置かれる(9日)。C

1417年(応永24年)11月:足利義持の近臣“富樫満成”が“足利義嗣逐電”騒動に関する事情聴取を行い、その“報告書”を提出。“足利義嗣出奔”に多くの有力守護大名が関わったとの内容に幕府内部が疑心暗鬼状態に陥る。C

1418年(応永25年)1月24日:将軍・足利義持が近臣・富樫満成に密かに命じて“足利義嗣”を殺害する。C

1418年(応永25年)2月~1419年(応永26年)3月:鎌倉公方が甲斐守護・武田信満をを自害に追い込む。幕府は対抗上弟の“武田信元”を任じ送り込むが鎌倉府は“逸見有直”を推し、入国を阻む。C

1419年(応永26年)6月:李氏朝鮮国が対馬に来襲する。宗貞盛等“対馬”側が応戦し、“糠岳”の戦いでは朝鮮側に勝利する(応永の外寇)。B

同年7月3日:和睦交渉が成り、李氏朝鮮軍が引き揚げる。B

同年11月:“応永の外寇“に対する”李氏朝鮮国の意図“を探る為”日本国王使“を派遣する。B

1420年(応永27年)2月~6月16日:李氏朝鮮から回礼使“宋希璟”が来日し“応永の外寇”に対する朝鮮国への足利義持(室町幕府)の疑いを晴らす。B

1421年(応永28年)4月~1422年(応永29年)12月:常陸国守護に幕府は“佐竹与義(山入)”を任ずるが、鎌倉公方・足利持氏が一族と共に誅殺する。C

1423年(応永30年)3月:足利義持が征夷大将軍を辞し“足利義量”が第5代室町幕府将軍に就く。C

同年8月:鎌倉公方・足利持氏の反幕的強硬姿勢が続き、足利義持が評定の結果“追討令”を出す事を決定する。C

1424年(応永31年)2月:幕府の強硬姿勢に鎌倉公方・足利持氏が“和睦懇請の起請文”を出し、足利義持はこれを受け入れる。不明瞭な部分を残した鎌倉府との和睦が成る。衆議重視の足利義持政治の姿勢はこの後も鎌倉公方・足利持氏に抵抗を続けさせる結果と成り“永享の乱(1438年)“へと繋がる。C

1425年(応永32年)2月27日:第5代将軍・足利義量が18歳で急死する。義量には嗣子が居らず、又、足利義持にも他に男子が居なかった為、以後、将軍空位のまゝ、足利義持に拠る従来通りの政務が続けられる。D

1426年(応永33年):足利義持が“粉河観音“に男子誕生祈願(願文)をする。F

1427年(応永34年)10月26日~11月13日:足利義持が近習“赤松持貞”に播磨国を預け置いた事で赤松満佑が反発。討伐問題に発展する。しかし“赤松持貞”の悪事が露見するという逆転の展開となり“赤松持貞”が自害に追い込まれる。E

1428年(応永35年・4月から正長元年)1月7日:足利義持、風呂で尻の出来物を掻き破り、発熱する。F

同年1月17日:病状重篤と成り、長老達が“後継将軍”について足利義持の考えを求めるが“自分からは決定しない”との答えであった。しかし宿老・諸大名の求めに最後に折れ、兄弟四人の中から籤引きで決める事に同意した。しかし、足利義持の死去後に神前で開封する事を条件とした。F

同年1月18日:足利義持午前10時頃死去(42歳)。F

:将軍“足利義持”初期の政治と“称光天皇”践祚(即位)によって起きた“後南朝問題”

-1:斯波義将と共に“公武関係”の再構築に動いた将軍“足利義持”初期の政治期

“北山殿義満”の政治機構は“武家”が“公家”社会の周縁部に取り込まれた形であった事から、武士層には不満が蓄積していた。斯波義将の主導で“足利義嗣“では無く”足利義持“が政権の後継者と成った。”至強(将軍・室町幕府・守護大名)“勢力としては”公武関係“の再構築が先ず初めに取り掛かる課題であった。

“足利義持政治期”の具体的な内政・外交に就いては以下に記述して行くが、父・足利義満期の“将軍専制”の“一極集中体制”から“衆議重視”の政治体制に大きく変化して行く。その結果“足利義持政治期”の権力拠点は“武”の政治拠点が①幕府(室町殿)と②鎌倉府(鎌倉公方)に、そして“公”の政治拠点が③内裏(朝廷)と④仙洞(院・治天)という具合で四ケ所に拠点が分散した。

父・足利義満の時代に構築された“至尊(天皇家・朝廷・公家層)“勢力と”至強(将軍・幕府・守護大名)“勢力の一体化路線は解かれ、夫々に遠心力が働き始める事に成る。

-1-(1):父・足利義満への“太上法皇称号”贈与をあっさりと拒否した事に象徴された“足利義持”の朝廷に対する姿勢の父との相違

足利義持の“朝廷”に対する姿勢は父・足利義満への“太上法皇称号贈与”をあっさりと拒否した事に表れている。足利義持自身、1409年(応永16年)3月23日に“内大臣の宣下”を受け、右大将・征夷大将軍に任じられたが、これ以降、上位の官職・位階への昇進を望んでいない。更に1419年(応永26年)8月29日にはその内大臣を辞任している。この様な父・足利義満との大きな相違は単純に父・足利義満政治の全面否定という姿勢からでは無く、足利義持自身の考えに拠るものである。

朝廷政治に関する足利義持の姿勢は、父・足利義満の様に自ら公家政治に参加する事はせず、武家は公家政治の表舞台に出るべきでは無いとの考えから裏方に徹して“至尊(天皇家・朝廷・公家層)”勢力を支えるものであった。

朝廷儀式に対する考えも父・足利義満とは全く異なっていた。“源氏の棟梁”という立場で“朝廷儀式”に参加する事には積極的だったのである。具体的事例として、称光天皇の即位式(践祚から2年後の1414年12月19日)に、関白“一条経嗣”が病気で不参だった為、内大臣であった足利義持が自らの強い希望で“蔵人頭”を差し置いて“関白代行”を務めた記録(伏見宮御記録)が残っている。又、1415年(応永22年)に行われた”大嘗会(天皇即位後の最初の祭事)“にも関白”一条経嗣“と同格の扱いで役割を勤めている。

こうした事を表面的に捉えて“公卿としての役割”を務めた父“足利義満”の行動を基本的に踏襲していたとする説もあるが、足利義持は“源氏の棟梁”という立場で臨んだ点が父・足利義満の朝廷に対する“姿勢・意識”と全く異なっていたのである。

具体的事例として“石清水八幡宮の放生会”が挙げられる。この儀式に於いて、父・足利義満が武家としては初めて“上郷”と称される役職を務め、足利義持も同じ役職を務めている。しかし、父・足利義満が“左右近衛府の官人”を従えたのに対し、足利義持は“近習武士団”を従えて参向したのである。

“足利義持”の著者“伊藤喜良”氏は“足利義持の心根は、自分は征夷大将軍であるから、関白と同格であり、関白と武門の棟梁の二つの権門が朝廷を支えている”というものであったとその相違を説明している。

A-1-(2):北山第(邸)の解体

後嗣となった足利義持は当初は“北山第(邸)”に移り住んだが、ほゞ1年後の1409年(応永16年)10月には祖父足利義詮の旧邸“三条坊門第”に移った。首都であった“北山”は、政務の中心としての位置づけを同時に喪失して行った。

足利義持が上京にある“花の御所”では無く、下京の“三条坊門第”に拠点を移した事は、公家社会との距離の取り方が父・足利義満とは違う事を意識したものとされる。

北山殿義満の後継者と世間が噂した異母弟“足利義嗣”の運命も一気に暗転する。足利義嗣は1409年末には北山第(邸)を離れ、北山第(邸)には北山院(足利義満の妻・日野康子・生:1369年・没:1419年)だけが残った。彼女は1419年11月に50歳で没する迄、北山第(邸)に住んでいた。彼女が没した1カ月後に“北山第(邸)”は解体され、所領も後小松上皇(1412年に称光天皇に譲位して上皇となり、院政を開始)に返還されたと記録されている。

解体された北山第(邸)の建物は①等持寺②建仁寺③南禅寺などに分けて移築された。

A-1-(3):足利義持の政治運営方法と姿勢

父・足利義満が強大な権力を掌握して“将軍専制”政治姿勢であったのとは対照的に、足利義持は有力守護大名との連合的な政治姿勢、衆議を重んじた政治姿勢を執った。その姿勢を裏付けるものとして父・足利義満は臣下を自分の処に呼び出して命令を下す事で権威を示すという姿勢だったが、足利義持は自らが家臣の屋敷に出掛ける(御成り)行動をとった事が知られる。

こうした足利義持の政治姿勢の背景には、家督継承の過程で“斯波義将”を中心とする諸大名、幕府重臣・宿老達に担がれて漸く家督を継ぐ事が出来たという“負い目”が大きく影響しているとされる。

又“後小松上皇“への院参もかなりの回数を重ねた事が確認されている。足利義持は、朝廷との緊密な政治関係を築く姿勢であった。

こうした政治姿勢の足利義持であったが、近習や異母弟・足利義嗣に対する処断は一転、全く異なり、一切、幕府宿老達にも相談をせず“専断”するケースが殆どであった。こうした近習や異母弟“足利義嗣”に対しての政治姿勢に就いては後述する。

A-2:表面化した“後南朝”の動き

後南朝(ごなんちょう)とは1392年(明徳3年)閏10月に足利義満の主導に拠って行なわれた“南北朝合一”の際の“両統迭立の約束”が破られた事で“南朝の再建”を目指す旧南朝の皇統の子孫や遺臣が“大覚寺統”の皇胤を奉じて“南朝の再興”を図った運動である。“後南朝”という名称は、江戸時代末期に朱子学者“斎藤拙堂(生:1797年・没:1865年)”に拠って付けられたとされる。“旧南朝”の影は“南北朝合一”後の日本の歴史展開に影響を及ぼし続けるのである。

”徳川光圀“の命に拠って編纂された”大日本史“では“南朝“を”正統“と結論付けた。この流れは明治期迄持ち込まれ、明治44年(1911年)に明治天皇の“勅定“という形で“南朝を正統とする”事が結論付けられ決着した事は前項で記述した通りである。

しかし、大日本帝国憲法下の日本では政治的背景からも議論される機会も無かったが、太平洋戦争後に公に議論する事が可能となり、知られるようになった新しい歴史認識である。

-2-(1):後亀山法皇(南朝最後の第4代天皇・歴代第99代天皇・生:1350年・崩御:1424年)が突如“吉野”に出奔する

1410年(応永17年)11月27日:

足利義満の“南北朝合一(1392年閏10月)”交渉に応じた“後亀山天皇(当時42歳)”は大覚寺を仙洞(上皇・法皇の御所)とした為“大覚寺殿”と称されたが、阿野実為(南朝方公卿・生年不詳・没:1399年)公為父子、並びに六条時煕(南朝方公卿)等、僅かな公家が側近として仕えるという待遇であった。

後亀山上皇は、1397年以降に出家するが、隠遁生活者状態であったと伝わる。その“後亀山上皇(法皇)”が突如、嵯峨を出奔し、吉野へ潜幸するという騒動が起きた。出奔の理由は“看聞日記(かんもんにっき=伏見宮貞成親王・生:1372年・没:1456年)には“生活上の困窮“と記述されている。

しかし、幕府が”南北朝合一“の講和条件(明徳の和約)の一つである“両統迭立”を破り“後小松天皇”の皇子“躬仁親王”(みひとしんのう=後の称光天皇)の即位の動きを始めていた事に抗議する為の行動であった。

-2-(2):“南北朝合一”(明徳の和約)の不備

1392年に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で和議が成り、皇位継承について“両統迭立“の約束がされたとするが、前項で記した様に“足利義満(室町幕府)”と“南朝”方だけで行った交渉であった。

従って“北朝”方にその内容は知らされず、当事者として約束、合意したものでは無かったとされる。合一後に“護国の儀”や“両統迭立”などの内容が明らかになると“北朝”方は反発し、北朝の“後小松天皇”は南朝の“後亀山天皇”との会見を拒絶したという。スタート時点から波乱含みだったのである。

-2-(3):後亀山法皇の出奔を契機に“旧南朝勢力”が蜂起する

1411年(応永18年)7月:

飛騨国司“姉小路尹綱(あねのこうじただつな・生年不詳・没:1411年)”が“南朝方”として兵を挙げ、飛騨国守護“佐々木高光”等に討たれるという事態が発生した。

こうした“後南朝”の動きが次第に拡大して行く最中の1412年(応永19年)10月5日に“明徳の和約(南北朝合一)”の“両統迭立”の約束不履行を明確にする“持明院統・後小松天皇”の皇子“躬仁親王(生:1401年・崩御:1428年)”の第101代“称光天皇践祚”が行われた。大覚寺統の“後亀山法皇”が吉野に出奔中で、京に不在という状況下での“南北朝合一”の約束反故だとして“後南朝”の抵抗運動に火を付けたのである。

1414年(応永21年)~1415年4月:

旧南朝側の理解は、南北朝合一の際、北朝側(実際は足利義満が)は、後亀山上皇の皇子“小倉宮恒敦(おぐらのみやつねあつ・生年不詳・没:1422年)”を後小松天皇の“皇太子”とする約束であった。旧南朝方の伊勢国司“北畠満雅(生年不詳・没:1429年)”が室町幕府に“南北朝合一”に際しての“明徳の和約”履行を迫って後亀山上皇(法皇)とその皇子“小倉宮恒敦”を支持して伊勢で挙兵するという動きが起こった。

これに呼応して大和宇陀郡の沢氏・秋山氏等の国人達も味方し、坂内城を攻め落とす等、戦闘は拡大した。将軍足利義持は翌1415年4月に、美濃国守護大名“土岐持益(生:1406年・没:1474年)”を大将として伊勢に侵攻させたが、攻め落す事が出来ず、同年8月に“後亀山法皇”の仲介で和睦に至ったのである。

-2-(4):“後亀山法皇”の所領回復を約束し、京への帰還を要請した室町幕府

1416年(応永23年)9月:

“北畠満雅”等の挙兵を1415年8月に“後亀山法皇”の仲介で和睦に持ち込んだ室町幕府は、後亀山法皇に所領回復を約束し、京への帰還を要請した。幕府の説得を受け入れ、後亀山法皇は6年間の吉野山での逼塞生活から帰京した。これを以て“旧南朝方”の反乱自体は一端は沈静化した様に見えたが、この後も“後南朝”勢力の“反幕活動”は拡大して行き、足利義持没後にも大いに室町幕府を悩ます事になるが、詳細は次項で記述する。

B:明国との“冊封関係解消(国交断絶)”と李氏朝鮮国からの“応永の外寇”への対応に見る足利義持の外交姿勢

B-1:明国との冊封関係の解消

B-1-(1):斯波義将の存命中は仕方なく明国との冊封関係を継続した足利義持

“足利義持”は家督を相続した後、外交政策の大きな転換を図る。明国には、父・足利義満の急死を7カ月後の1408年12月に通知している。これに対して明国の永楽帝は“足利義持”を継嗣と認め“日本国王“に封じた。

22歳と未だ若かった将軍・足利義持の政治を補佐し、主導した“斯波義将”自身は、足利義満が明国から”日本国王”に任じられた事に批判的だった。しかし“朝貢貿易”から得られる利益は重視した。その為、明国と通交する事には積極的だったのである。従って“足利義持”も“斯波義将”存命中は“冊封関係“を即座に断絶する事はしなかった。

B-1-(2):斯波義将の死後、明国との“冊封関係解消”に動いた足利義持

足利義満が歿して2年後の1410年6月に“斯波義将”が歿した。24歳に達していた足利義持にとって“重石”が外れた事を意味し、以後、明国との冊封関係解消の動きを加速させて行く。

B-1-(3):父・足利義満の死を慰問した“永楽帝”に対し、暫くは“冊封関係”を続けた足利義持

明の“永楽帝(廟号は太宗であったが嘉靖帝の時に成祖と改称)”は足利義満の死を悼んで、喪主“足利義持”に1408年12月21日付で絹500匹、麻布500匹の贈り物を添えて慰問している。これに対し1410年4月に足利義持が明使者“周全”帰国時に天龍寺の“堅中圭密”を同行させ“表(臣下から皇帝に上申する文書)”を献じた事が“明太宗実録”に記録されている。

この時点までは将軍・足利義持が明国との“冊封関係”を続けていた事を裏付けているが、この1ケ月後に“斯波義将”が歿し、状況は大きく変わって行く。

B-1-(4):“斯波義将”が没し、対明政策を変え、冊封関係の解消に動いた足利義持

1410年6月に斯波義将が死去する。足利義持は対明政策を変える。1411年2月23日の記録から“永楽帝”の使者“王進”に対して態度を一変させた事が分かる。永楽帝からの勅書を携えた“王進”に対して、京に入る事を拒否して接見せず、兵庫から追い返したのである。この時点で明国との冊封関係の断絶に踏み切ったとされる。

B-1-(4)-①:冊封関係解消の動きを裏付ける史料

“李朝実録”の1413年(応永20年)3月の記述に“斯波義将”没後に対明姿勢を変えた将軍・足利義持に対して“永楽帝”が怒り、朝鮮に“朕は兵船を数万発して日本を撃とうと思う”と語ったとの記述があり“明太宗実録”にある同様の記述を裏付けている。

又“世宗実録”の1419年12月17日条にも“足利義持の父親・道義(=足利義満)は王に封じられたが、義持はこの命を用いずに征夷大将軍と称し、彼の書にはただ日本国源義持とあるが、王の字は無い“とある事が記されている。足利義持が“日本国王”の称号を拒否し“冊封関係解消”に動いていた事を裏付ける史料である。

こうした足利義持の断固たる姿勢にも拘わらず、明国の永楽帝(在位1402年~1424年)は尚も日本への使節派遣を続け、冊封関係継続を求めて来る。こうした“永楽帝”の動きは、1417年秋、1418年春、並びに1419年7月23日迄記録されている。

B-1-(4)-②:日明関係が完全に断絶した日に関する議論

明国との外交関係が完全に絶たれた時期については下記3回永楽帝の使者として遣わされた“呂淵”が携えた国書(勅書)に日本征伐を匂わす文言に加えて“朝鮮国と共に”との表現がある事から“応永の外寇(1419年6月20日~7月3日)”との絡みで議論される。

第1回目:

先ず、1417年(応永24年)秋に“永楽帝”が使者“呂淵”に勅書を持たせ来日させた記録がある。勅書の内容は“(足利)義持を批判して(明)兵を派遣すべきという意見も(明国に)存在するが、父(足利)義満に免じて実行しない。(足利)義持は悔いてその姿勢を改め、来貢せよ“と高飛車なものであった。“呂淵”は当然の事乍ら追い返されている。

第2回目:

“康富記(室町時代の外記局官人・中原康富の日記)”の1418年7月4日条に1418年(応永25年)春に永楽帝が再び“呂淵”を遣わしたとある。”応永の外寇“の直前の事である。記述には ”去月、唐船都に入るべからず、武庫(神戸)よりすなわち帰るべきの由、武家より、等持寺長老古幢(ことう)和尚御使に立てられると云々“とある。

”明国の船で(呂淵が)来たが京に入る事を許されず、神戸から帰された事を等持寺の和尚を使いに立てて(朝廷に)知らせて来た“という事である。足利義持の明国拒絶の態度が変わらなかった事を記述している。

安田次郎氏はその著“南北朝・室町時代”の中でこの時“赦免された倭寇十数人を返還して”呂淵“が来日した。一行は兵庫津迄来たが、止められ、帰国する様命ぜられた。この時”呂淵”は永楽帝の言葉として”汝の父・及び朝鮮国王は皆、我に仕えた。汝一人が仕えない。予は将兵を派遣して朝鮮と共に日本を攻撃するであろう。汝は城を高くし、池(堀)を深くして待て“と伝えたとし”足利義持はこれに激怒し、海賊に命じて帰国する呂淵を殺害しようとしたが、呂淵は順風に恵まれて無事に帰国した“と記している。

第3回目:

“足利義持”の著者“伊藤喜良”氏は内閣文庫所蔵の“修史為徴“の記録を挙げ“応永の外寇”直後にも“呂淵”が勅書を携えて兵庫に来航、足利義持の使者“元容周頌(げんようしゅうじゅ)”に会ったと記述している。“元容周頌”が写した勅書の内容も1418年春のものと変わらないものであり、これを読んだ足利義持が“文言およそ存外”とし“呂淵”の入国を拒否した。この勅書の日付が1419年(応永26年)11月1日だった事から、この日を“明国との外交関係が完全に断絶した日”とする説がある。

B-2:足利義持が明国との通交を嫌った理由

足利義持が明国との冊封関係を嫌い、断絶した理由は、明国皇帝の“外臣”と成って“日本国王”の称号を与えられるという冊封関係は“天皇を戴く”室町幕府将軍としての伝統、そして、誇りという観点からも屈辱的であり、納得出来なかったからだとの説がある。父・足利義満が求めた“朝貢貿易に拠る莫大な利益”について、足利義持は“朝鮮・琉球との通交確保が出来れば、日明間の朝貢貿易を絶っても、その肩代わりは充分に可能と考え、”李氏朝鮮“との通交は明国に代わるものとして重要視したとしている。

又、足利義持の政治に大きく影響した彼の“信心深さ”がその理由であるとして、伊藤喜郎氏はその著書“足利義持“の中で以下の様に記している。

足利義持は“隣国との交易は望む処であるが、父・足利義満が病気になり、急死したのは神々の祟りである。それは外邦(明)に対して臣と称し、明の大統暦や日本国王印を受けた事である。自身はその様な行為を止める事を神々に誓い、子孫に戒めとしてこの事を固く守る様、遺言した。又、こうした考えは当時の公家層、並びに足利義持が深く帰依していた五山の禅僧達にも共通したものであった。

足利義持の信心深さについては後述する“後継将軍の籤引き”問題にも決定的に反映されるのであるが“日明関係の断絶”も“神々との関わり重視”の姿勢が反映した可能性があるとしている。

B-3:足利義持期の“琉球”との関係

B-3-(1):明国との国交は断絶するが、諸外国との交易に拠る実利は求めた足利義持

足利義持の政治期は、東南アジアからオホーツク海まで、人、物、銭が激しく動いた時代に突入していた。日本にも南北の産物が続々と流入し、父・足利義満が没して1カ月後の1408年(応永15年)の6月22日の記録に“南蛮船”が若狭小浜(福井県)に到着し“亜烈進卿(アラジン卿=現在のマレーシア系の首長)”から、生きた象、孔雀、オウムが贈られたとある

東アジア世界の政治、経済が激しく動くこの時期に、将軍・足利義持(室町幕府)は上記した理由から、明国との国交を断絶した。明らかに国策としては父・足利義満の“世界観”に基づいた政治との優劣が議論される処であろう。しかしその代わりとして、足利義持は、琉球、朝鮮国等との交易には前向きに対応したのである。

B-3-(2):琉球王国との交易

足利義持の時代、琉球王国と国家関係を持っていた事が知られる。

琉球王朝を興し、貿易大国の礎を築いたのは“尚巴志(しょうはし・生:1372年・没:1439年・在位1422年~1439年)”である。現在の沖縄は部族ごとの小国家に分かれており、その中でも①北山②中山③南山の三勢力(三山)は明王朝に夫々が朝貢し、明王朝から“国王”の承認を得て冊封関係を結ぶ独立した国家であり、互いに覇権を競っていた。

南山王国に生まれた“尚巴志”が先ず1406年に“中山王”の“武寧”を攻撃し、滅亡させ、父“尚思紹”を中山王とした。この時“首里(現在の那覇市)”に首都を移し“第一尚氏王統”を興した。琉球史では1406年~1429年の期間を指し、丁度将軍・足利義持期と重なる。

更に、1416年に“北山王”の攀安知(はんあんち)を討伐、此の地には次男の“尚忠”を置いた。1421年に父・尚思紹が没し“尚巴志”自らが“中山王”に即位した。尚巴志はこの後、1429年に南山王“他魯毎(たるみい)“を滅ぼす。ここに”三山統一“が成され”琉球王国“が誕生した。”尚巴志“57歳の時であった。琉球王国の統一が成る1年前に足利義持は没している。

“尚巴志”は明国との朝貢貿易に力を入れ、琉球王国の安定に務め、又、三線(さんしん)・紅型(びんがた)・泡盛(あわもり)等、琉球文化の基礎作りを行った人物だが、三山統一後も各地には有力な按司(あじ、あんじ=琉球諸島に存在した王族の称号又は位階で“王子の次に位置する)が居り、政権は決して安定したものでは無かった。

しかし、琉球の船はスマトラ島、ジャワ島、インドシナ半島等に航行し、貿易を行った。那覇は東南アジア諸国の中継ぎ貿易港として、重要な交易市場と成り、各国から特産品がもたらされ、琉球王国は繁栄したのである。

“尚巴志”は足利義持が歿した11年後の1439年に没し、以後は王位継承の争い、財政破綻で“第一尚氏王統”は弱体化して行く。しかし、30年後から再び盛り返し“第二尚氏王統(1470年~1879年)へと引き継がれるのである。

薩摩藩との歴史展開はここでは割愛するが、1879年3月の“明治政府”の武力に拠る威圧に屈し“首里城”を明け渡す。更に廃藩置県が布達され“沖縄県”となる歴史を辿る。

B-4:“応永の外寇”と“李氏朝鮮”との外交問題

B-4-(1):“対馬”の置かれた地理的条件について

2016年の8月5日~7日の3日間“対馬”を訪ねた。全島の史跡訪問並びに”対馬歴史民俗資料館“等で郷土の歴史を伺った。地図でも良く分かる様に対馬の北端に在る“韓国展望所”から朝鮮半島までの距離は僅か50㎞程しか無く、天気の良い日には“釜山”の街が見える。韓国をイメージして造られた“展望所”では、多くの韓国人旅行者に会った。まるで韓国に居る様な錯覚を覚えた。

対馬へは我々は“博多港”から高速船を利用し、2時間15分程で“厳原港(いずはらこう)”に着いた。距離にして凡そ120㎞程との事であり、対馬の人々にとっては明らかに釜山の方が近いのである。

対馬が“邪馬台国”の時代から日本の一部である事は“魏志倭人伝”で認められるが、山岳地帯が90%と多く、農耕に適さない事は現地を訪問すると実感出来る。漁業活動の消費市場は、日本本土も重要であったであろうが、地理的に、より至近距離にある“朝鮮南部沿岸方面”の市場が、より重要であった事が実感出来る。

古来、島民にとって“交易活動”が重要な生活の糧であった。室町幕府は対馬国・守護職を置いていたが、島の有力者は貿易と海賊を一族の生業とする“早田氏”であった。この一族は“倭寇の棟梁“でもあった。対馬という島が置かれた地理的条件からすると、こうした一族が島の最有力の豪族として出現する素地が古来からあったのである。

B-4-(2):対馬の実質的支配者

島のパンフレットに拠ると、宗家第7代“宗貞茂(生年不詳・没:1418年)”並びに第8代宗貞盛(生:1385年・没:1452年)そして第9代宗成就(そうしげもと・生没年不詳)の三代が峰町佐賀(対馬半島東側中央部佐賀湾近く)に60年間“府”を置き、朝鮮との外交・貿易関係を確立し、島を繁栄させた時期だとしてこの期間を“佐賀三代“と呼んでいる。

又、倭寇の首領とも伝わる“早田氏”について、対馬国と朝鮮国との交易拡大に貢献した一族として“長節子”氏はその著“中世日朝関係と対馬”の中で詳しく“早田氏”の出自、同氏の歴史、並びに“早田氏と対馬守護との関係”等について紹介している。対馬の守護大名には“少弐氏”が長い間就いていたが、後述する様に“宗氏”が守護となった。そして後述する様に、一時的に“早田氏”が実質的支配者になった時期もあったのである。

B-4-(3):対馬と“倭寇”

90%以上が山岳という地形の離島で、自給自足が困難な“対馬”での生活を支える為に島民は、鎌倉時代に入った頃から海賊行為(倭寇)に走った。その一因として“元寇”に拠って島が荒れ果てた事が挙げられる。“元寇”が終息した鎌倉時代後期になると、我先に“倭寇”に走ったとされ、その結果“対馬”は“壱岐・五島列島・北九州”等“倭寇“の拠点の中でも、最大規模の基地となったとされる。

B-4-(4):倭寇と朝鮮半島の歴史

B-4-(4)-①:高麗期にもあった“倭寇”討伐の為の“康応の外寇”

1389年(康応元年)2月:

“倭寇“の活動は”元寇“以前にもあったとされるが”高麗史“には”1350年2月に慶尚道の固城、竹林、巨済を襲い、倭寇の侵、此に始まる”と記している。特に1375年(永和元年)から活発化し、倭寇の侵攻で高麗の沿岸には人が住まなくなった程との記録があり、この年の記録に高麗使として“羅興儒”が日本に来て“倭寇”の禁圧を求めている。尚、彼が日本への初めての“通信使”として正式に“室町幕府”に派遣された人物とされている。

1389年2月には“倭寇”に手を焼く高麗政府が、軍船100隻を対馬に派遣し、対馬側の船300艘と海岸の家屋を焼き、俘虜100余人を奪還した。この事件は“康応の外寇“と呼ばれている。

それでも治まらない“倭寇”の活動に対して“高麗政府”は、対馬島主の“宗貞茂”に特権を与え、日本から朝鮮に渡航する者を統制させた。将軍“足利義満”が対明貿易を重視し”倭寇禁圧“を強化し、対馬守護“宗貞茂”もそれに準じた為、この両者が存命中は“倭寇“の活動はかなり沈静化した。

B-4-(4)-②:将軍“足利義満”没後に再び活発化した“倭寇”

倭寇の取り締まりを“明王朝”に約束し“対明貿易”を重視した足利義満の時代には“倭寇”の活動は記録上も沈静化している。倭寇の本拠地である対馬・島主の“宗貞茂”も禁圧に力を入れた事と相俟って、倭寇禁圧の効果が上がったのである。

しかし、足利義満が没し、政権を引き継いだ“足利義持”が“明国”との通交を事実上断絶する政策をとった為、その余波は対馬の“貿易商人”に直ぐに及んだ。明国に対する“倭寇禁圧”の約束履行の力が弱まった事もあって、行き場の無く成った島人は再び海賊行為(倭寇)に戻ったとされる。

父・足利義満没後の1409年(応永16年)6月18日付けで“斯波義将”の名で“朝鮮国議政府左右丞相両相公閣下”宛ての書状が送られている。新主(足利義持)は喪に服して居り、政務が滞っている事を詫びると共に、継嗣の“足利義持”は朝鮮との友好関係を足利義満時代と変わらずに続ける、と伝え、更に倭寇の取り締まりも約束している。

朝鮮半島では1392年に“李氏朝鮮国”が“高麗”に代わって成立しているが、国王にとっての大きな悩みが“倭寇”である事に変わりは無かった。しかし“斯波義将”が李氏朝鮮に書面で約束した“倭寇禁圧”は進まないばかりか、むしろ、14世紀末∼15世紀初めにかけて沈静化していた倭寇の活動が再び活発化するという事態と成った。こうした状況に李氏朝鮮側は不満を募らせて行くのである。

B-4-(4)-③:対馬島主“宗貞茂”の死

こうした状況下“対朝鮮貿易”拡大の為に朝鮮国から要請された“倭寇禁圧”を積極的に行った対馬守護(島主)の“宗貞茂(宗氏第7代当主・生年不詳・没:1418年)が1418年に病没したのである。

息子の“宗都都熊丸(後の宗氏第8代当主・宗貞盛・生年不詳・没1452年)”が跡を継いだが、幼少であった事もあり、対馬での内政が混乱し、沈静化していた“倭寇”の活動が再び活発化したと伝わる。対馬の有力者で“倭寇”の棟梁とされる“早田左衛門太郎(そうださえもんたろう)”が貿易活動も含めた利益を蓄え、財力だけでなく、政治力でも“宗都都熊丸(後の宗貞茂)“を継いだ“宗貞盛”を凌いだとされる。“早田左衛門太郎”が率先して“倭寇”活動を活発化させたとも伝えられる。

B-4-(5):“早田左衛門太郎”という人物について

“早田左衛門太郎(生:1361年・没:1428年?)”は1361年に対馬の土寄浦で生まれている。水軍(倭寇)の大将早田三郎左衛門(生:1336年・没:1405年)の次男として生れると書いてあるところからも彼が成人し“倭寇”の首領と成る事に不思議は無い。

祖父“早田次郎左衛門(生:1307年・没:1373年)”が17歳の時(1324年)倭寇として“高麗”を襲撃して、穀類と人を奪った事も記録にある。祖父の代から倭寇だったのである。祖父の代から琉球に行き“鮫皮”商売の基礎を作り、その人生を通して琉球と共に高麗への倭寇活動を行なった事も伝えられている。対馬の有力者“早田氏”のベースはこの祖父の時代に築かれたとされる。

早田左衛門太郎の父“早田三郎左衛門”も同じ様に、琉球との商売に従事している。又、1354年の記録に、祖父・早田次郎左衛門と父・早田三郎左衛門が“倭寇”として高麗と戦い、全羅道の漕船40余艭を略奪したとある。1350年頃から”倭寇“が活発化したとされるが”早田左衛門太郎”の祖父、並びに、父親がそれらに深く関わっていたのである。

B-4-(5)-①:李氏朝鮮国が用いた“倭寇懐柔策”と“早田左衛門太郎”

“倭寇”対策は李氏朝鮮にとって最重要政治課題の一つであった。何としても倭寇の被害を減じたい李氏朝鮮国は“倭寇懐柔策”を用いた。その一つが“告身(中国で官吏に授けられた辞令)”つまり“倭寇の首領”を李氏朝鮮国の官職に任命し、
彼等に対馬から朝鮮に自由に貿易船を出す権利を与えるという優遇措置であった。

“早田左衛門太郎”は1397年4月、36歳の頃、李氏朝鮮国“太祖(李成桂・初代国王・在位1392年8月5日~1398年10月14日・生:1335年・没:1408年)”に兵船24艘を率いて投降し、その見返りとして配下の80人と共に優遇され“宜略将軍”に任じられたと記録されている。彼の配下も同様に授職された事も記録されている。

“足利義満”の政治の絶頂期に“倭寇が一時的に沈静化”した裏には島の有力者“早田左衛門太郎”が朝鮮国の“倭寇懐柔策”に乗せられ、貿易に拠る莫大な利益を挙げ、対馬の守護大名“宗都都熊丸(宗貞盛)”を凌駕する実力者となるベースがあったのである。

B-4-(6):対馬守護職“宗家”の家督争い

宗氏の出自については長節子氏の”中世日朝関係と対馬“に詳しいので参照されたい。

“対馬”と宗氏の関係は、平安時代以来、大宰府の官人であった“惟宗氏”の後裔の“惟宗重尚“が”阿比留氏“を滅ぼし”少弐氏”の守護領国であった“対馬”の守護代になったという歴史からとされる。史料上では“宗盛国”の名が“対馬守護代”として初めて認められるが“惟宗氏盛国”が武士活動を行なう時には“宗盛国”の名を用いたとの事である。

宗氏系譜で“宗盛国”は宗家歴代第3代で、第4代“宗経茂(そうつねしげ・生年不詳・没:1370又は1372年)は、筑前の守護代並びに対馬の地頭代を務めたとある。

この宗家歴代第4代“宗経茂”の時代に変化が起る。

主家である“少弐頼尚(生:1294年・没:1372年)”が1336年の筑前国“多々良浜の戦い”で戦功を挙げ、筑前・豊前・肥後・そして“対馬国”の守護職に任じられた。その後、日本三大合戦の一つとされる“筑後川の戦い(1359年8月)で”菊池武光“に大敗した為、勢力が衰え、守護職の座には在ったものの“宗経茂”が“地頭代”として主家“少弐氏”に代わって対馬の実質的支配権を確立したとある。

この時“宗経茂”が弟の“宗頼次(法名宗香)”を自分の代わりに対馬に派遣して治めさせた。“宗氏歴史年表”に“宗経茂の弟、頼次、代官と成り、仁位中村の地に役所を開き宗香と号す”とあり、この話を裏付けている。

宗氏が守護職に昇格したのは“少弐頼尚”が没した1372年以降、1378年(永和4年㋃29日)以前の時期であろうとされる。ここで、当時九州探題だった“今川了俊”が弟“宗頼次”の系統の“仁位宗家”を“対馬守護”職に任じた為、1384年~1398年の間は“仁位宗家”が本家に取って代わった形と成ったのである。

今川了俊が1395年8月に九州探題の職を解かれると“対馬守護職”を巡って本来守護職であった“本宗家”と“仁位宗家”との間で争いが起き、宗家(=本宗家)第7代当主“宗貞茂(筑前守護代・生年不詳・没:1418年)が1398年、筑前の兵を率いて対馬に渡り”仁位(宗)頼茂“から家督を奪回したのである。これに対して1401年に”仁位宗頼次(法名・宗香)“の子息の”仁位賀茂(にいかも)“が反乱を起こすが、1402年に宗貞茂に討たれ、以後”本宗家“と”仁位宗家“とが和解し”本宗家“が守護職を”仁位宗家“が守護代と成る事で“宗家”の家督争いは収束したのである。



韓国展望台:釜山は僅か50㎞程の距離であり、天気が良ければ釜山市が望める・・2016年8月6日訪問
2017年秋に“朝鮮通信使”は日韓の平和構築の歴史遺産としてユネスコの世界遺産に日韓共同登録された。毎年8月第1日曜に通信使のパレード、日韓両市(対馬市・釜山市)に拠る式典が行われる・・2016年8月7日訪問



B-5:“応永の外寇(朝鮮側=己亥東征・きがいとうせい)“の切っ掛けと成った”倭寇
“活動

B-5-(1):朝鮮半島沿岸部が数千名の“倭寇”に襲われる・・1419年5月7日

斯波義将が1409年(応永16年)6月に足利義満の死と足利義持が将軍を継いだ事を朝鮮国に通報した際に倭寇の禁圧を約束した。ところが倭寇禁圧は進まず寧ろ沈静化していた“倭寇”の活動は益々活発化する状況と成り、朝鮮側は大いに不満を募らせていた事は既述した。

凡そ10年間、倭寇の被害が無かった朝鮮半島沿岸部が1419年(応永26年)5月7日に数千名の倭寇に襲われるという事件が勃発した。

倭寇一団は“明国”へ向かう途中で朝鮮の“庇仁県”を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、城を陥落させ、民家を略奪し、更に“海州”へ侵攻し、朝鮮軍兵士300人を殺害・捕虜と
したのである。

B-5-(2):“上王・太宗”主導の下で李氏朝鮮は対馬へ“倭寇”討伐軍の派遣を決断する

B-5-(2)-①:李氏朝鮮第3代国王“太宗”という人物について

李氏朝鮮・第3代国王“太宗(李芳遠=イ・バンウオン・在位1400年11月~1418年9月生:1367年・没:1422年)”は、李氏朝鮮の初代国王・李成桂(太祖・生:1335年・没:1408年)の5男として生れた。

次兄(李芳果)が第2代国王“定宗”に就いたが、政治の実権は弟の“李芳遠”が早い時期から握っていたと伝わるから相当に“やり手”の人物だったのであろう。そして1400年に第3代国王に就く。即位直後から、私兵の廃止を行い、国王の権力を高める諸政策を推し進め、官僚制中央集権国家を確立し、朝鮮王朝の基礎を固め、明国から冊封国として認めらるまでに国威を上げた人物である。

息子の“世宗(太宗の第3王子・第4代李氏朝鮮国王・在位1418年~1450年・生:1397年・没:1450年)は、後世、李氏朝鮮王朝きっての英王と評される人物だが、父親存命中は王位には就いたものの、その治世の初期は父親が“上王太宗”として尚も王権の基盤と言うべき“軍事権”を掌握し続けたのである。

“上王太宗”の軍事・外交政策は“対日強硬姿勢”であった。こうした状況下で、上記した1419年(応永26年)5月7日の“倭寇”に拠る朝鮮半島沿岸部への襲撃事件が起こった。元々一向に収まらない“倭寇”に不満を募らせていた“上王太宗”はこの襲撃事件で“倭寇“を壊滅すべく、その本拠地と見做した対馬へ“李従茂”を総指揮官とした討伐軍の派遣を決断したのである。

“倭寇討伐目的”を名目に掲げた軍船227隻、兵員17285名の大規模の軍勢が釜山から僅か50㎞しか離れていない小さな“対馬島”を攻撃するという軍事行動は“朝鮮”側では“己亥東征(きがいとうせい)”と呼び、日本史上では“応永の外寇”と呼ばれる。尚、対馬では“糠岳合戦”と呼んでいる。

B-6:“応永の外寇”の戦況記録

 “応永の外寇”の戦況記録としては“己亥東征(きがいとうせい)”として“朝鮮王朝実録”に詳しく記されている。一方日本側の当時の記録としては室町幕府宛の“少弐満貞”(少弐氏11代当主・生:1394年・没:1433年)の”注進状“と”看聞日記“(伏見貞成親王)の記述程度である。

日本側の記録からは、共に“元寇の再来”と捉えていた様子が伝わる事と、情報が錯綜していた中で、室町幕府が騒然とした事が分かる程度で、後述する様に“応永の外寇”の詳細は“老松堂日本行録”等、全て朝鮮側の史料に頼らねばならない程に日本側の記録は乏しい。

この事件から丁度300年後の1719年に書かれた“宗氏家譜”にこの戦闘の記載があるが、少数の“対馬側”が圧倒的多数の朝鮮軍と戦い、善戦し、和睦に持ち込む程に“朝鮮軍”を翻弄したという“対馬側の戦功”に力点が置かれた記述と成っている。

従って、日本側の乏しい史料と朝鮮側の史料の記述内容とは全体として整合性を欠くが、それでも“応永の外寇”の理解には役立つ。夫々の史料の記述内容を紹介し乍ら、日本の“離島”そして“中国・朝鮮半島”との接点としての地理的条件に置かれた“対馬”が経験した当時の重大な外交問題、政治問題を詳しく紹介して置きたい。

具体的には当時の“対馬”が置かれた状況と“対馬と朝鮮との関係”並びに“離島”に起きた外交問題に室町幕府(将軍・足利義持)が、どの様に対応したかについて記述して行く。これ等の観点から“応永の外寇”は多くの興味ある情報を提供してくれる“事件”である事が分かる。

B-6-(1):朝鮮側の記録に基づいた“応永の外寇(己亥東征)”の経緯

朝鮮沿岸は足利義満時代、10年間“倭寇”の被害を受けていなかったが、上記した1419年(応永26年)5月7日に数千名の倭寇が朝鮮の“庇仁県”を襲い、兵船を焼き払い、城を陥落させ、民家略奪等を行った事で、李氏朝鮮の第3代国王“上王太宗”に対馬遠征を決断させた。

当時、既に国王の座は譲っていたが、既述した様に、軍事の実権を握っていた彼は、息子の第4代国王“世宗(在位:1418年~1450年・生:1397年・没:1450年)”に出征を命じたとある。

以下に“朝鮮王朝記録”を軸に“世宗実録”そして“老松堂日本行録(後述する回礼使・宋希環の記録)“等、朝鮮側の史料を元に、時系列に“応永の外寇(己亥東征)”の経緯について記述する。

B-6-(1)-①:時系列に並べた“応永の外寇“戦闘状況

1419年(応永26年)5月7日:数千名の“倭寇”が朝鮮の“庇仁県”を襲い、兵船を焼き払い、城を陥落させ、民家略奪等を行った

同年5月12日:“倭寇”は朝鮮の海州へ侵略し300人の軍人を殺害・捕虜とした。

同年5月14日:朝鮮国“太宗”が対馬遠征を決断し“世宗”に出征を命ずる。尚、その指示内容は“ただ、賊(倭寇)のみを討て,対馬守護の宗貞盛(宗都都熊丸)には手を出さず、九州(領地)は安堵せよ“と命じた事が”老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく=戦後回礼使として日本に遣わされた宋希環の記録)に書かれている。

同年5月23日:“九州探題の使節に朝鮮側から対馬攻撃について予告した”とある。(後述するが、日本側には同日付けの“看聞日記”にこの事を匂わす記述があり、史実の可能性が高い)

同年5月29日:更に朝鮮側からは、対馬守護“宗貞盛(宗都都熊丸)”に、対馬攻撃を書状で事前通告し“倭寇の賊退治が目的であり、対馬を占領する意図は無い“と伝えたとの記録がある。(この情報が対馬側に伝わったかを裏付ける日本側の記録は無い)。

注記:対馬に侵攻する朝鮮軍は右軍・中軍・左軍の三軍で編成され、軍船227隻、兵員17、285名の規模であった。65日分の食料を準備し、指揮官は“李従茂”であったと記されている。尚、こうした長期を覚悟した準備状況から、朝鮮側の“倭寇討伐“は名目上であり、本音は”対馬島の占領作戦“であったとする説がある

同年6月19日:6月17日に“巨済島(釜山の南西)”を出航した朝鮮軍は逆風の為、一度引き返し、改めて2日後に“巨済島”を再出航した。

同年6月20日:昼頃、対馬の西側の海岸(尾崎浦)に到着(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)。対馬(倭寇)側と戦闘が開始された。対馬側は朝鮮軍の大軍に追われ逃げ出した。上陸した朝鮮軍は逃げる日本側の船129隻を焼き払い、20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、島民104人(朝鮮王朝実録には114人)を斬首、21人を捕虜とする一方“倭寇”に捕らわれていた“明国人”131人を救出したとある。一方、朝鮮側は使者に今回の出兵理由を書いた文書を持たせ、守護“宗貞盛”に送ったが、返答が無かったと記述している。

同年6月29日:“朴実”率いる“朝鮮左軍”が“糠岳”で対馬側の伏兵との戦闘と成り、激戦の結果、朝鮮側は4人の将校を含め、100数十人が戦死したと書かれている(世宗実録)。その後“朝鮮右軍”が援軍として加わった為、対馬軍は退いた。

B-6-(2):日本側の史料に基づいた “応永の外寇”

B-6-(2)-①:筑前国守護“少弐満貞”の注進状

“応永の外寇”すなわち李氏朝鮮軍に拠る対馬侵攻が行われたのは、室町幕府と明国との関係が完全に断絶しつつあった時期であった。守護大名の“連合体的政治”とされる将軍“足利義持”期の室町幕府は、京都と遠く離れた九州、それも“離島”の対馬で起こっている事件に対して“元寇”の再来と構えていた事が分かる。

離島“対馬”に対する室町幕府の統治体制は、13世紀半ばには“少弐氏”が対馬の守護・地頭職を兼帯し、宗氏は対馬の“地頭代”であった。“少弐氏”は大宰府に居住しており“宗氏”が対馬を実質的に統治していた。

宗氏の主家に当る筑前国(福岡県西部)守護の“少弐満貞(少弐氏第11代当主・生:1394年・没:1433年)”と1395年以後、新たに九州探題となった“渋川満頼(在職1396年~1419年・生:1372年・没:1446年)”とは政敵関係であり、幾度も戦っている。

その“少弐満貞“が書き送った”注進状“について”満済准后日記“の1419年(応永26年)8月7日条の記録がある。朝鮮側の記録との整合性を欠く記述が多いが、他の情報が無い状況下、室町幕府は”少弐満貞“の注進状を其の侭信じて朝鮮軍撃退の軍功に対して褒美を与えたとされる。

1419年8月7日付“少弐満貞の注進状”
蒙古船の先陣500余艘が対馬沖に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下700余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日迄終日戦い、異国の者共は全て敗れ、その場で大半は討ち死、或は、召し捕えられた。異国大将2名を生け捕りにし、その白状から今回襲来した500余艘は全て高麗国(朝鮮)の軍勢である事、唐船2万余艘が6月6日に日本に到着する予定であったが、大風の為に唐船は悉く逃げ帰り、その過半が沈没した。捕虜にした高麗の大将も白状した事も注進する。合戦中に奇瑞(きずい=吉兆)が起こり、又、安楽寺(大宰府天満宮)でも怪異・奇瑞が起こった。

=少弐満貞の注進状に書かれた内容と史実との検証=

戦闘の日付はほゞ朝鮮側の史料と合致する。しかし、対馬(少弐満貞の代官)側が勇敢に戦って圧勝したかの様な報告内容、並びに敵の大将から“唐船2万余艘が合流する予定であったが、大風で到達しなかったと白状させた”との部分等、朝鮮側の史料とは異なり、又、史実で無い記述がある。しかし、他の情報が無い将軍・足利義持、室町幕府は、この離島の事件に対する“注進状”を信じ、これに基付いて“少弐満貞”に褒美を与える一方で、対馬攻撃に出た李氏朝鮮に対し大いに怒ったとされる。

又、少弐満貞の代官“宗右衛門”以下700余騎が参陣したとあるが、宗家は既述の様に、歴史的に“少弐氏”の対馬に於ける“地頭代”であったから、宗貞盛(朝鮮側では幼名の宗都都熊丸で記述している)が軍を率いて戦ったと言う事を記述しているのであろう。

歴史学研究会編の“日本史年表”の記述には“九州探題渋川義俊(生:1400年:没:1434年)・少弐満貞(生:1394年・没:1433年)等これを破る”とある。“渋川義俊”に就いては“応永外寇”が起きた1419年に父・渋川満頼から九州探題職を譲り受けたばかりであり、彼の名は朝鮮国側の戦記に現われない。しかし、父の“渋川満頼(生:1372年・没:1446年)”は李氏朝鮮と積極的に交易を行った九州探題であり、朝鮮国王から貿易を許可する印である“図書”を得た“受図書人”であった事から“応永の外寇”に何らかの関与をした可能性があるが、それを裏付ける史料は無い。

B-6-(2)-②:“看聞日記“(伏見貞成親王の日記)の記述

 “看聞日記(かんもんにっき)“は第102代後花園天皇(在位1428年譲位1464年・生:1419年・崩御:1471年)の実父である”伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう・生:1372年・没:1456年)の日記である。朝鮮側からは“対馬攻撃を予告した”とあった事は紹介したが“看聞日記”の1419年(応永26年)5月23日条にも、当時情報が錯綜していた室町幕府に、事前に朝鮮国からその情報が入っていた事を匂わす以下の記述がある。

ただ今聞く、大唐国・南蛮・高麗・等、日本に攻め来るべしと云々高麗(朝鮮)より告げ申すと云々。室町殿(足利義持)仰天・・(以下略)

又、日本史年表(歴史学研究会編)の1419年5月の記述にも“朝鮮よりの使者、明南蛮の来襲を伝える”とあり、朝鮮側から日本に事前通告があった説を裏付けている。

1419年(応永26年)8月13日の条には“ 6月20日、蒙古・高麗一同に引き合て、軍勢五百余艘対馬島に押寄せ、彼の島を討ち取る”と書いている。対馬を攻撃したのが明と朝鮮の連合軍であると記している。その背景には140年前の2回に及んだ“元寇”の記憶が日本側には蘇(よみがえ)り、恐怖感を抱いた様子を伝えていると共に、日本側の情報が錯綜していた事を裏付けている。

B-6-(2)-③:“宗氏家譜記録”に見られる“応永の外寇”の記録

この史料は上記2点の史料とは異なり“応永の外寇”から300年も経った1719年、江戸時代(享保4年第8代将軍・徳川吉宗時代)に書かれた“宗家”の記録なので、宗家の“戦功”を讃(たた)え、誇張もあるものと思われる。

この記録に拠れば、対馬側は当初は劣勢であったが“糠岳の戦い”で朝鮮軍に大反撃を加え“朝鮮左軍”を大敗させたとある。大敗を喫した“李氏朝鮮”側が“宗貞盛”側からの和睦提案を受け容れ、7月3日に急遽、全軍を引き挙げたとしている。

この記述に大きな間違いは無いが、後述する“老松堂日本行録”等から読み取れる当時の対馬側の地政学的な位置条件から来る“思惑(対馬側としては占領は困るが朝鮮との通交は何としても続けたかった)”に関しては全く触れていない。“宗氏家譜記録”も当時の徳川幕府側が見る可能性のある記録である事からそうした記事を残さなかったのは当然の事であろう。

そうした恣意性のある記録ではあるが“応永の外寇”の際に“糠岳の戦い”で対馬側が善戦した事を記録した日本側の史料として、朝鮮側の戦闘記録を裏付ける史料となっている。

B-7:“応永の外寇”勝敗の帰趨について

“応永の外寇”の戦闘の勝敗の帰趨については、そもそも“対馬を拠点とする倭寇の討伐”を主たる目的“とした朝鮮側の記述に対して“元寇の再来”と捉えた日本側の記述とではトーンの違いがある事が明らかである。

朝鮮側は戦闘開始後の優勢な進軍で当初の目的を果たしたと考えたのか、6月29日の“糠岳の戦い”で思わぬ反撃に会った事を正直に記述しているが、台風期の接近もあり、和睦交渉を受け容れて早々と全軍を引き挙げたという記述になっている。“朝鮮王朝実録“等、朝鮮側の記録にはその経緯についても書かれている。

B-7-(1):“朝鮮王朝実録“等、朝鮮側の記録から見る”朝鮮軍撤退(引き揚げ)“に至る経緯

予想外の“糠岳の戦い”に於ける自軍の損害に驚いた李氏朝鮮軍の指揮官“李従茂”は尾崎浦(対馬の南西)迄撤退した事が書かれている。戦況がこうした状況に変化する中で対馬の“宗貞盛”が“7月が来ると対馬には台風が襲来する。大軍が留まる事は危険であるから引き挙げた方が宜しかろう“と朝鮮軍に撤退を勧告したとある。

勧告する一方で“宗貞盛”は“我々は貴国との修好は今後も願っている“と和睦と停戦修好を申し入れた事が書かれており、それを朝鮮側が受け容れて7月3日に全軍を引き挙げたという経緯である。

こうした朝鮮側の記録に対して“朝鮮側は大軍を送ったにも拘わらず対馬側に思わぬ苦戦を強いられ、全軍引き挙げの結論に至ったのだ“と“朝鮮側の敗戦に拠る撤退”を主張する説が日本側には多い。

しかし、朝鮮側の記録には“上王太宗”の使者“崔歧”が“7月は暴風が多い為、長く対馬に留まるな“との”上王太宗“からの指示が指揮官”李従茂“にあったとし“上王太宗”の使者“崔歧”がこの旨を対馬の“宗貞盛にも伝える事を”李従茂“に伝言した事も書かれている。

以上の朝鮮側の記録からは、対馬の朝鮮軍は“上王太宗”の命令、指示があった処に、対馬の“宗貞盛”側からも“和睦提案”として“全軍を引き揚げ”の提案があった事で朝鮮側全軍を7月3日に引き挙げたという経緯を記述している。従って“朝鮮”側は“敗退”に拠る“全軍引き揚げ”とはしていない。

B-7-(1)-①:“応永の外寇”の戦闘に於ける“朝鮮軍の被害”について過少に記録している朝鮮側の史料

“応永の外寇“の戦闘に於ける死者等の被害報告については、朝鮮側だけで無く、日本側にも記録が残っている。どちらの記述が正しいかに付いての裏付けは不可能だが、大軍で襲来した朝鮮側の被害報告が余りにも軽微であり、日本側の記録数字と大きく乖離がある。過少報告しているのであろう。

朝鮮軍兵士死者:朝鮮側記述(朝鮮王朝実録・世宗実録共に)・・百数十人
:日本側記述・・2500人以上

対馬軍兵士死者:朝鮮側記述(1419年8月5日記録)・・100余名
:日本側記述・・凡そ20名

注目すべきは、戦死者数について、自軍の被害を過少に記述していると思われる朝鮮側の記録でも、対馬軍よりも自軍の死者数を同等、乃至はやや多い事を認めている点である。

B-7-(1)-②:“応永の外寇”の戦闘の中で“糠岳の戦い”を“敗戦”と明記している朝鮮側の記録

上記した様に、朝鮮軍は6月20日の戦い迄は勝利を重ね“倭寇”に捕らわれていた“明国人”131人を救出した事を記している。しかし6月26日の“糟岳の戦い”で朝鮮軍は大敗を喫する。この時、6月20日の戦いで救出した131人の“明国人”がその敗戦の目撃証人となった事で“朝鮮軍”の敗戦を隠す事が出来なくなった事を記述している。又“糠岳の戦い”の敗戦の責任を指揮官に課したとの記述からも“糠岳の戦い”での朝鮮側の敗戦が史実であった事が分かる。

裏付け史料①:

救出した131人の“明国人”を中国に返還するか否かの議論が起きた。対馬“糠岳の戦い”で敗れた事を詳細に見た“明国人”を中国に返還する事は出来ない“と、左議政”朴訔“が主張した事に対して、右議政”李原“が”事大の礼を尽くして送り返すべき“と反論した記録が残っている。この記事も“糠岳の戦い”で”朝鮮軍“が大敗を喫した事を裏付けるものである。

裏付け史料②:

対馬の”糠岳の戦い“で“朴実”率いる“朝鮮左軍”が対馬側の伏兵との戦闘で敗北した責任を問われ“朴実”が投獄された事が朝鮮国の史料に残されている。総指揮官だった“李従茂”も帰国後、罪を問われたが、彼の場合は、国民への影響を考慮し、免罪としたとある。こうした朝鮮側の記録も“応永の外寇”の“糠岳の戦い”で李氏朝鮮軍が大敗を喫した事を裏付けている。

B-8:対馬側と和睦が成り、朝鮮軍が引き挙げた事に関する、朝鮮側並びに対馬側の思惑

伊藤喜良氏の“足利義持”の記述には、朝鮮側は“船227艘、兵17000余りをもって対馬を攻め、倭寇に打撃を与えた後、7月3日には朝鮮に引き上げた”とし、更に“太宗が対馬に対して征討を企てたのは倭寇問題だけで無く、対馬が朝鮮の領土であるとする意識も強く存在していた”とある。

又、“中世日朝関係と対馬”の著者“長節子”氏も“対馬での作戦を終えた遠征軍は翌7月初めに帰国した”と記述し、朝鮮側は目的を果たしたとする書き方である。

そもそも“応永の外寇“は対馬を拠点とする倭寇の討伐を目的とした李氏朝鮮の”上王太宗”が実行した軍事行動であったが、そこには、朝鮮との通交を生きる糧とする“対馬国”の事情も絡んでおり、又、室町幕府(足利義持)には明国との国交断絶に対する“永楽帝”からの恫喝を受けている最中だった事で“元寇の再来”の先鋒だと頭から信じる状況下にあった。

李氏朝鮮、対馬(宗貞盛・早田左衛門太郎)そして室町幕府(将軍・足利義持)夫々に夫々の背景を抱えていた“応永の外寇”は、後述する足利義持の“日本国王使”の派遣と、朝鮮国が回礼使とした“宋希璟”の巧みな外交のお蔭で収拾するが、内実は更なる両国間の抗争へと展開する危険を孕(はら)んでいたのである。

幸いにして“李氏朝鮮軍”が早々と7月3日に引き挙げた事で“応永の外寇”は戦闘面では短期で終わった。和睦並びに停戦修好交渉の結果とされるが、朝鮮側が引き揚げた後に、対馬を本来、朝鮮国の領土であるとの意識を持つ“上王太宗”から対馬国守護の“宗貞盛”に対して、朝鮮軍に拠る占領、つまり全島民が対馬から去る、という“空島化の要請”が戦後の交渉オプションとして持ち込まれていたと、長節子氏は“中世日朝関係と対馬”の中で述べている。

対日強硬派の”上王太宗“からの”空島化“の要請、つまり”占領“を一番危惧した対馬守護“宗貞盛”は“7月は台風が対馬を襲う事が多い、従って艦隊は早く引き揚げた方が良い”と申し入れ、一方で“今後共、朝鮮国との修好を願う事に変わりが無い“と付け加える事で”上王太宗“の要請を逸らしたとしている。

対馬の置かれた地理的条件を考えれば、朝鮮国と決定的な決裂を避け、通交を今後共、続ける状況を残したいとする“宗貞盛”のこうした対応姿勢があったとしても不思議では無い。

朝鮮側としても、思わぬ対馬での苦戦を強いられた事、そして“倭寇討伐”という目的を一応は果たせたとの理解から“元寇”で蒙古・高麗の大船隊が“台風”によって壊滅的打撃を受けた轍を踏まぬ様、対馬側からの和睦提案は“渡りに船“と受け容れた面もあろう。結果、僅か2週間の大艦隊遠征を一先ず7月3日に引き揚げたとしている。

B-9:“対馬空島化”の 要請を迫った“上王太宗”が“慶尚道への属州化”への要請に切り替える

B-9-(1):当初、宗貞盛に“島民もろとも島を空にして朝鮮へ来降(巻土来降)”する事を要請した“上王太宗”

“中世日朝関係と対馬”の中で著者“長節子”氏は“己亥東征(応永の外寇)”後の朝鮮と対馬の間に以下の要請交渉があった事を記している。

①:対馬での作戦を終えた朝鮮軍が7月初めに全軍を引き挙げた直後に“上王太宗“は宗貞盛(宗都都熊丸)に書を送り”朝鮮へ島民もろとも島を空にして来降する様命じる。嫌ならば島民全部を連れて日本本土へ帰れ、もしその両方を拒否し、対馬に留まるというのであれば、70万余の軍を送って対馬を全滅させる“と通告したとの“世相実録”の記述を紹介している。

②:この通告に対して“宗貞盛(宗都都熊丸)”からは“島民もろとも島を空にして来降する事”への明言を避け、降伏の意を示し“自分に印信を賜りたい”とだけの曖昧な態度で対応したとしている。宗貞盛としては“島民もろとも島を空にして来降する命令”に屈する事だけは避け、在島のまゝで、尚且つ、朝鮮から“印信”だけは賜りたいと返答したとしている。

③:強硬な“上王太宗”はあくまでも”島民もろとも島を空にして来降する事“を強く主張、期限を1419年12月とし、この命に従えば、宗貞盛に印信を授け、高い官職、高禄,田宅を与えるとの優遇条件を並び立てた

④:こうした優遇条件の提示にも拘わらず、曖昧な態度を崩さない対馬の宗貞盛(宗都都熊丸)に対して“上王太宗”は一転して妥協案を提示した。対馬を“慶尚道”の属州にする事にし、宗貞盛には“宗氏都都熊瓦”と刻した印を送る事に同意したのである(世宗実録)。この時点で朝鮮側は“島民もろとも島を空にして来降する事(=巻土来降)”という“実“を捨て“慶尚道への属州化”という名を取ったとしている。この朝鮮側の変化は武力的強迫の限界が見えて来た為であろうと“長節子”氏は指摘している。

⑤:実際に朝鮮では対馬国への再征の準備を始めた記録がある。しかし、再征への動員を恐れて逃亡する者が続出するなど、事実上、再征が困難との判断から“慶尚道への属州化”の提案となったと長節子氏は結論づけている(中世日朝関係と対馬)。

B-9-(2):朝鮮側が一方的に対馬を“慶尚道への属州化”とする動きを進めた背景
         
対馬を“慶尚道の属州化”とする動きが朝鮮国側からあった事、そしてその顛末に就いては“応永の外寇”後に朝鮮側の真意を探る為の使節を足利義持が派遣し、その回礼使として来日した“宋希環”が“松老堂日本行録”で詳細に綴ったお蔭で明らかになった。彼の記述は信憑性が高いとされ、日本側の記述には無い対馬の“慶尚道への属州化”の顛末に詳しい。従ってこの件についての記述は“松老堂日本行録”からの情報が中心となる。

“対馬の島民”にとって朝鮮との交易が生命線だと言う事は述べた。従って“応永の外寇“の結果、朝鮮との友好関係が棄損された事は事実であり、これを一日でも早く修復したいと考えるのは当然の事であった。島人の中には”倭寇“として朝鮮国を侵略する者も居れば、同時に”交易者“として利益を得る者も居た。日本に属しながらも”応永の外寇“の様な状況が起きると、日本を捨てて朝鮮に帰属を求める事で生き残りを図る方を選択する島民も居たと考えられる。

“宗貞盛”の父“宗貞茂”が対馬を治めていた時期迄はそうした“倭寇活動”は抑えられていたが、1418年に彼が没した後の対馬は“宗貞盛”の力は弱く、倭寇の首領でもあった“早田左衛門太郎“が島の実権を次第に握って行った時期があった事は既述の通りである。

対馬の置かれた地理的条件からすれば、島民にとって重要な事は、目の前の日々の生活であって“国境”等は如何でも良いという考えがあった。そうした考えに基づく動きが“応永の外寇”後の対馬としての一つの生き方、つまり、対馬を朝鮮国の“慶尚道の属州”とする朝鮮国王の策に生きる道を求め、受け容れる事であったのである。

B-9-(3):偽りの対馬からの使者“時応界都=辛戒道“が”慶尚道への属州化“の話を具体化すべく動いた事を記す“世宗実録“

1420年(応永27年)閏1月10日:

“世宗実録”には“時応界都(=辛戒道)”と名乗る人物が“宗貞盛”の使者と名乗って朝鮮国に渡り“宗貞盛”の意向として、対馬を朝鮮の“慶尚道の属州”として欲しいと伝えたとある。その理由は“対馬は土地が痩せていて生活が困難”とし“対馬島民を加羅山(巨済島)等の島へ移して海防に当たらせ、対馬を貴国(朝鮮)国内の州郡の例に倣って州名を定め、都都熊丸(宗貞盛)に州の長官の印章を賜われば、直ちに臣下の礼をとり、御命令に従いましょう”と提案したとある。

それを受けて“上王太宗”が “宗貞盛(都都熊丸)”に印章を贈る措置を採る迄に話が進んだとしているのである。

B-9-(4):対馬を“慶尚道の属州化”とする朝鮮国側の動きを“拒絶”した“宗貞盛”

対馬を“慶尚道の属州化”とする動きについては、全て朝鮮側の史料に拠る事に成るが、この動きを主導したのは“対日強硬派”の“上王太宗(生:1367年・没:1422年5月)”であった。

しかし“宗貞盛”は朝鮮側に“再征”を行う軍事的余力が無い事を掴んでいたのであろうか、1421年4月には遣使をして書を送り“属州化拒否”を通告している。そればかりか、この書類に朝鮮国から与えられた“宗氏都都熊丸”の印を信符として押した”宗貞盛“の態度に朝鮮側は態度を硬化させ、彼を朝鮮との通交から締め出したと伝えている。

この為、1420年~1422年の期間は、交易が許され力を持った“早田左衛門太郎”が“対馬”に於ける統治実権を握ったとされる。

B-10:“応永の外寇”後に朝鮮国の真意を探る行動に出た“足利義持”

1419年(応永26年)11月:

明国“永楽帝”の遣使“呂淵”が何度も“朝鮮と共に日本を攻撃する”と恫喝する勅書を携えて神戸に来航した事から、室町幕府(足利義持)は李氏朝鮮に拠る“応永の外寇”を“三回目の元寇(明国からの日本侵攻)”の先鋒と身構えた。しかし、朝鮮と対馬の“宗貞盛”との間に和睦が成り“李氏朝鮮”側が短期で引き揚げた事で一応の収束となり、その後の再来襲も無く、又、一番危惧した“明国軍”の来襲も無い状況に安堵した足利義持であったが、李氏朝鮮の真の意図を計りかねていた。

そこで“元“から亡命し、日本に帰化し、将軍側近として外交使節の接待役を務めていた中国人の子“陣外郎”の助言も得て、朝鮮側の真意を探る為に“大蔵経(だいぞうきょう=経・律・論の三蔵を中心とした仏教聖典の叢書(ぞうしょ=多くの書物を集めてまとめたもの=群書類従の類・一切経とも称される)”を求める名目で、臨済宗大応派の博多妙楽寺の僧“無涯亮倪(むがいりょうげい)”を正使、陣外郎の子(孫との説もある)で博多商人の“平方吉久(ひらかたよしひさ)”を副使とする一行を“日本国王使”として李氏朝鮮に遣わしたのである。

当時の日本外交の舞台で、帰化人、貿易商、禅僧などが大きな役割を果していた事が分かる。

1420年(応永27年)正月6日:

12月に“無涯亮倪”一行は李王朝の“上王太宗”の息子の“世宗(在位1418年~1450年)に謁見した。”世宗”は朝鮮国と日本の永久の通交を諭(さと)し、併せて対馬征討の理由を告げ、大蔵経が与えられた事が確認されている。朝鮮側は日本側を快く受け容れたという事である。

この時通訳を務めたのが“尹仁甫(いんじんほ)であった。この後彼は1430年頃までしばしば来日し、当時の日本の国内事情、室町幕府の実体を見事に把握し書き著した。彼の記録は朝鮮が日本に対する政策を決める場合に大きな影響力を持ったとされる。

B-10-(1):”老松堂日本行録“

足利義持が遣わした”日本国王使“に対し、朝鮮国からは”回礼使“として、李氏朝鮮の官僚”宋希璟(そうきけい・生:1376年・没:1446年・号は老松堂である)“が日本に遣わされた。

“宋希璟”は回礼使として日本を旅する間に、朝鮮側・対馬側、そして幕府(足利義持)側、夫々の思惑の違いによる情報の錯綜がある事を掴み、それらに的確に対応しながら、日本のトップである将軍・足利義持の誤解を巧妙な外交手腕に拠って見事に解く事に成功する。。この間の“外交の旅”の記録が“老松堂日本行録”である。

朝鮮側、対馬、そして室町幕府の夫々の思惑が絡んだ複雑な外交問題であった“応永の外寇”に関する日本側の史料は、情報も錯綜していたという事情もあり、信憑性に欠けるものであった。そうした中で“宋希璟”の“老松堂日本行録”は“応永の外寇”理解の為に極めて信憑性の高い有効な史料とされる。

B-10-(2):足利義持が真相解明に動いた背景

足利義持は明国との冊封関係断絶の姿勢を1411年2月に明使“王進”を追い返した時点から一貫して継続している。

しかし、明国の第3代皇帝・永楽帝(在位:1402年~1424年・生:1360年・没:1424年)は、日本の冊封関係打ち切りに不快を示し、諦めずにその後も使者を送り込んで来た事は既述の通りである。“応永の外寇“の1年前の1418年(応永25年)春に”呂淵“を遣わし、勅書の内容が討伐をちらつかせた恫喝的であった事も既述の通りである。それにも態度を変えようとしなかった足利義持に対して尚も1419年に11月1日付の勅書が寄せられた記録が残っている。

この記録を最後に日明関係が完全に断絶したとされる事も紹介したが、この様に明国との関係が最悪と言える状況下で起こった“応永の外寇”であり、足利義持(室町幕府)が“明国の先鋒”となった李氏朝鮮の軍事行動と疑うのも当然と言える程の悪いタイミングであった。

“少弐満貞の注進状”が幕府に届く前、つまり1419年5月の時点で朝鮮国側から“対馬の倭寇拠点討伐”について、事前通告をしたとの記録が朝鮮側にはある。又、それを匂わす記述が“看聞日記”にもあった事から“応永の外寇”について幕府が事前に情報を得ていた可能性がある。しかし、頭から“元寇の再来”と信じる将軍“足利義持”が朝鮮側の通告を信じなかった可能性は高い。

しかし“応永の外寇”は短期で朝鮮軍が引き揚げ、和睦という形に至り、しかも明国軍の来襲も無かった。頭から“元寇の再来“と信じて疑わなかった室町幕府(足利義持)にとって、肩透かしを喰った状況だったと言えよう。情報が錯綜し、又、思惑が外れ、事態だけが収まった事に対し“李氏朝鮮”側の一連の行動の真意を見極める為に“足利義持”は1419年11月に“日本国王使”を送ったのである。

B-11:回礼使“宋希璟”が将軍・足利義持の疑念を晴らした外交術

対馬の“早田左衛門太郎”の動きを明らかにし、将軍・足利義持の疑念を晴らした粘り強い外交術が“宋希璟”が残した“老松堂日本行録”に書かれている。以下の記述は“史料”としても信憑性が高いとされる“老松堂日本行録”に負った部分が多い。

B-11-(1):“対馬を慶尚道の属州化とする考えは朝鮮側には無い“と、咄嗟(とっさ)の外交判断で断言した回礼使“宋希璟”

B-11-(1)-①:先ず“対馬”に立ち寄り“早田左衛門太郎”と会った“宋希璟”

1420年(応永27年)2月17日:

回礼使の旅程で“宋希璟”は先ず“対馬”に立ち寄った。前対馬国守護の“宗貞茂”が1418年に没してからは、対馬守護は若い“宗都都熊丸(後の宗貞盛)”に代替わりした。彼の立場は未だ弱く、主家とする九州の“少弐満貞”の処に居り、対馬を留守にする状況であったと伝わる。

上述した様に“宗貞盛”が朝鮮との通交から締め出されたという事もあって、当時の島の実権は“早田左衛門太郎”が握っていた。更に朝鮮側は“早田左衛門太郎”に“万戸”という数千の兵士を束ねる“官職”を与え、彼を“懐柔”していたのである。

“宋希璟”の記録にも“早田左衛門太郎”について触れて居り“今事勢を観るに、対馬は凡そ事、皆此の人より出づるに似たり”と書いている。己亥東征(応永の外寇)の切っ掛けと成った“倭寇”に拠る朝鮮攻撃は勿論の事“応永の外寇”の後に“宗貞盛”の使者と偽った“時応界都(=辛戒道)”なる人物を朝鮮国へ派遣した行動も全て“早田左衛門太郎”が独断で仕掛けた動きであろうとされる。当時対馬に於いてそれ程の強い支配力を持っていた人物であった。

B-11-(1)-②:“早田左衛門太郎”が対馬の“慶尚道の属州化”について “宋希璟”の意見を問う

折良く朝鮮へ派遣されていた“時応界都(=辛戒道)”一行が “世宗”の書を携えて対馬に帰島した。そこで“早田左衛門太郎”が“宋希璟”に朝鮮国の意向を確かめた事が記されている。“朝鮮国は昨年対馬を攻撃し、今般、対馬を慶尚道に帰属させようとの意向を示している。対馬は(宗貞盛の主家である)少弐氏が守護として、代々受け継いで来た島であり、もし、この事を少弐殿が聞けば、命掛けで戦を挑むであろう。この(世宗からの)書を少弐殿に送るべきか、それとも知らせずに置くか貴方に判断して頂きたい“と“宋希璟”に投げ掛け、朝鮮国の考えを確認したのである。

既に朝鮮側は“宗氏都都熊丸”の印を贈る等、対馬の“慶尚道への属州化”の動きが具体化していた事を、これから回礼使として将軍・足利義持に会見する“宋希璟”を前にして“早田左衛門太郎”も流石に慎重に成らざるを得なかったという事であろう。

B-11-(1)-③:“慶尚道の属州化”の動きは“早田左衛門太郎”の独断である事を見抜き、室町幕府が認める事はあり得ないであろうとの見解を示した“宋希璟”

対馬の島民としては、朝鮮国への帰属を望む事もあり得るという現実面を理解しながらも、“宋希璟”は、対馬訪問に拠って、早田左衛門太郎、対馬守護・宗貞盛、その主家である少弐満貞、九州探題・渋川満頼、そして日本のトップ室町幕府将軍・足利義持に至る夫々の段階で思惑が異なり、対馬問題が全く統一した見解に至っていない事を掴んだ。

対馬の住人であり、倭寇の首領であり、更には朝鮮国から“宣略将軍”に任じられている“早田左衛門太郎”が主導している“慶尚道への帰属化”の動きは彼の思惑に基づく独断行動であり、室町幕府将軍・足利義持には全く受け容れられない動きであると咄嗟に判断した“宋希璟”は“早田左衛門太郎”に以下の見解を伝えたのである。


=早田左衛門太郎に示した“宋希璟”の見解=

対馬は例え朝鮮国に帰属させても、朝鮮の人々を住まわせる処では無い。又、対馬の人々を朝鮮に帰属させても用いる所が無い。上(世宗)が対馬を“慶尚道”に属させると決めたのは対馬の人々の願いを聞き入れない事は“仁”では無いと判断したからである。今日聞いた様な(対馬の)実情を(世宗)が知れば、対馬を(慶尚道に)帰属させようとはされないであろう。私から“上(世宗)”に申し上げよう

 以上を“早田左衛門太郎”に即答したのである。

“宋希璟”はこの段階で日本のトップ・将軍足利義持が抱いているであろう“疑念・誤解”を晴らす事が今回の回礼使としての最重要外交マターだと確信し、対馬の“慶尚道への帰属”問題をバッサリと切捨てた事になる。

離島“対馬”と室町幕府(足利義持)の間に生じていた大きなギャップを回礼使の旅程の中で掴み、臨機応変に朝鮮国としての立ち位置を変えるという外交を、勇気と智慧を以て見事に果たした“宋希璟”の外交手腕は今日でも評価される。

B-11-(1)-④:対馬の“慶尚道への帰属”の動きを諦めた“早田左衛門太郎”

“宋希璟”から朝鮮国側の考えを明言された“早田左衛門太郎”は“時応界都(=辛戒道)”が持ち帰った“世宗”からの対馬の“慶尚道に帰属化”に関する書を“少弐殿”には知らせず“早田左衛門太郎”の一存で握り潰す事にしたとされる(この件に関しては日本の歴史には殆ど伝えられていない)。

又“時応界都(=辛戒道)”なる人物を誰が、何の目的で朝鮮に派遣したかも、日本の歴史の中では殆ど触れられていない。しかし“老松堂日本行録”や“長節子”氏の研究からは当時の状況からして“早田左衛門太郎”の独断による動きだとする説が主流となっている。

尚、早田左衛門太郎(生:1361年・没年不詳)の没年については、彼が朝鮮国と1427年迄通交していた記録が残る事から、66歳迄は存命であったとされる。その後は子息の“早田六郎次郎”が同じく“朝鮮通交者”として1432年迄活躍していた記録が残る。1434年4月に“宗貞盛”が“遣使以外の朝鮮への通交を制限する”との文書を発布しているが、この頃迄には対馬に於ける支配権は早田氏が後退し、再び対馬国守護の宗家が奪還していた事は明白である。

B-11-(1)-⑤:対馬の“慶尚道への帰属化”問題を独断で反故にした“宋希璟”の外交を一切咎めなかった“上王太宗”並びに“世宗”

朝鮮側の史料では“宗貞盛”の使者とされる(実は早田左衛門太郎が独断で遣わした)“時応界都(=辛戒道)”が国王の手紙と“宗氏都都熊丸(=宗貞盛)”の印章を持ち帰った事が明記されている。この動きは“宋希璟”の“老松堂日本行録”の記述とも整合する事から史実と思われる。

しかし、上記した様に“宋希璟”は“太宗が下した判断は両国の思惑違いであったのだから訂正させる“と、大胆な結論を当時の実質的な”対馬トップ“であった”早田左衛門太郎“に伝えた。

“宋希璟”は若し、対馬の“慶尚道“への帰属問題を“宗貞盛”が主家と仰ぐ“少弐氏”に伝えれば、朝鮮国との対立は必至である事を含め、日本側の情報を総合的に判断した結果、対馬の“慶尚道への帰属化”問題は無かった事として自身が握り潰し、室町幕府将軍・足利義持に“世宗“の勅書を届けるという回礼使としての使命を果たすべきとの外交判断を下したのである。

将軍・足利義持が“応永の外寇”に不信感と不快感を抱いている事を日本を旅する中で掴んだ“宋希璟”は“慶尚道への属州化”問題を大胆にも“大事の前の小事”と判断し、切り捨て、京に向かうのである。

尚、後日“宋希璟”が朝鮮に帰還して全てを報告した際に“上王太宗”並びに“世宗”は一切彼を咎めなかった。それ程までに全幅の信頼を得ての外交であった。

B-11-(2):将軍・足利義持との対面がなかなか叶わず、改めて厳しい室町幕府(足利義持)側の“応永の外寇”に対する感情を知った“宋希璟”の更なる対応

B-11-(2)-①:海賊が跋扈する瀬戸内海を“無涯亮倪”と“宗金”の船に護衛され、兵庫の港に着いた“宋希璟”

1420年(応永27年)4月16日:

“宋希璟”一行は博多に入り大歓迎を受けた。情報収集は外交交渉のベースとなる重要な作業であり、積極的に、僧、文人を含め多くの人々と交流をした様子が書かれている。特に対外貿易や外交に携わっていた“宗金”並びに“陳外郎”の息子・博多商人で、幕府使節として博多・妙楽寺の僧“無涯亮倪(むがいりょうげい)”の副使を務めた“平方吉久(ひらかたよしひさ)”とは頻繁に会い、情報を交換している。“宗金“は僧侶の商人として知られ、後に”図書倭人“の地位を朝鮮国から与えられ”早田左衛門太郎“と共に朝鮮貿易で活躍した人物である。

“宋希璟”は“対馬”を巡る外交テーマは“対馬・九州・本土”夫々の異なったルールに拠って支配されているが、最終的には幕府将軍“足利義持”が決定権を持っ事を掴み “対馬”では“離島対馬と中央の幕府との思惑の違いを正す”外交判断を下し、九州に渡ってからは“九州探題”等の意向に注意深く対応し、回礼使としての最終目的である室町幕府将軍・足利義持との会見を果たし、勅書を渡すべく準備を重ねて行ったのである。

何度も遣明使を務め、修羅場を潜った経験を持つ“宋希璟”ならではの外交手腕と評される所以である。

海賊船が跋扈する瀬戸内海の危険水域では海賊船が近づいた事を記している。その時には“無涯亮倪”と“宗金”の船2艘が直ぐに駆けつけ無事だった。一行は尾道、牛窓、室津などを経由して各地の寺を訪れ乍ら1420年4月16日に兵庫の港に着いた。

B-11-(2)-②:足利義持との対面が叶わず、冷遇された滞在期間(50日)の中にも、幕府(足利義持)の誤解を解く努力を傾注した“宋希璟”

1420年(応永27年)4月21日:

京に入った“宋希璟”は中国人“魏通事天”の家に宿泊する。この間、日本を観察し、又魏通事天、陣外郎からの情報収集に努めた。ここで“宋希璟”は日本では将軍はじめ管領、そして守護大名達が大きな土地を分け合って領有し、各地に代官を派遣して領民を支配し、税を私し、そしてそれを子孫に受け継いでいるという、中国や朝鮮との土地領有の在り方との違い、税制の違いを記述している。

又、対馬の痩せた海岸地帯では見られなかった三毛作(大小麦ー稲ー蕎麦)や、技術的に
も優れ、創意工夫に満ちた豊かな農業地帯についても記述している。“農民は年貢を納める
のに汲々とし米だけを作っていた“と現代の我々は理解しがちだが“宋希璟”の“老松堂
日本行録“からは違う姿が見えて来る。

B-11-(2)-③:将軍足利義持に延々と待たされ、しかも冷遇される理由を“陣外郎”並びに“魏通事天”から知り、足利義持の誤解を解く策を練った“宋希璟”

宿舎の“深修庵”で延々と待たされ、一向に将軍足利義持との会見日取りの連絡も無い状態に流石の“宋希璟”も腹を立て“私は朝鮮国王の書簡を奉じて京を訪れたのに未だ将軍・足利義持の面会も書簡を奉る事も出来ない、これは礼儀に反する“と抗議に及んだ。その時に”陳外郎“と”魏通事天“が室町幕府(足利義持)周辺の状況を以下の様に伝えた事が“老松堂日本行録”に記されている。


“明使・呂淵”が1418年(応永25年)春に兵庫に来て明国皇帝の勅書を伝え、その内容が恫喝する内容であり、怒った足利義持は謁見を許さず、追い返したばかりか“呂淵“を討とうとした。それから1年も経たない1419年の6月に“応永の外寇“が起こった、従って室町幕府将軍・足利義持はじめ、日本の多くの関係者が先の明使“呂淵”の来航と併せてこれは“元寇の再来”と受け取った。

B-11-(3):先ずは将軍・足利義持の側近から誤解解消に務めた“宋希璟”

タイムリーに動く事が外交交渉の要諦である事を熟知する“宋希璟”は“陣外郎と魏通事天”から上記情報を得て、将軍足利義持(室町幕府)はじめ日本側が朝鮮国の意図を誤解している事を知り、即座に朝鮮国側の真意を伝えるべく、敢然と下記を伝えた事が記されている。

①:“宗貞茂”時代迄は対馬は朝鮮国王に対して礼を尽くして来た。国王はその誠心を知って米や布、時には酒や肉までを与えた

②:対馬もこの恩に感じ、20年余りは一家の様な付き合いであった

③:1418年に宗貞茂が亡くなると、昨年の春(1419年)から対馬の賊共(倭寇)が朝鮮の周辺を侵し、人民を殺し、拉致し、兵船を盗み取った。

④:朝鮮国王はこれに激怒し(朝鮮の)将軍達に命じて追討軍を対馬に送った(応永の外寇)

⑤:しかし、追討に当たっては“ただ賊(倭寇・海賊)のみを討て”宗貞盛“には手を出さず九州は安堵せよ”と将軍達に命じている。朝鮮国の兵士が対馬を占領し、日本本土まで侵攻する等の考えは全く無かった。

⑥:もし、朝鮮国王が貴国に対して侵攻する考えを持っていたならば、過日、日本国王(将軍・足利義持)が本国(朝鮮国)に大蔵経を願った事に対して、下されたが、あの様な対応をした筈が無い。(足利義持が1419年11月に使節を派遣する際に名目上、大蔵経を求めた事を指している)又、土産の品を用意し、回礼使の私を遣わす筈がない。これらの事をもって(朝鮮)国王の意図を知るべきである。

⑦:今回の己亥東征(応永の外寇)に関して、朝鮮国王は、大臣や六層を召して“対馬は日本と朝鮮の間に在る。いつも密かに攻めて来て盗みを働く、日本国王(将軍・足利義持)の命にも従わない。今、私がこれを(倭寇・海賊)討って日本国王がこれを聞けば、きっと喜ぶに違いない“と言っての派兵であった。

⑧:(こうした事からも)“朝鮮”が“明”と心を一つにして日本国を討とうとした事はあり得ない。荒唐無稽で取るに足らない話だ。

B-11-(4):“宋希璟”の説得が奏功し“陣外郎”等が“足利義持”の誤解を解く

“宋希璟”の話には説得力があった。又、彼の真摯な人柄が日本側を信用させた。見事な外交力を発揮したのである。日本側にとって“宋希璟”の話は初耳の事が多く“陣外郎”が将軍“足利義持”へ報告をした。その間も日本の禅僧達と“宋希璟”の間では朝鮮からの勅書に書かれた文書の中味について問題指摘が続いた。

中でも“永楽”の年号を朝鮮側が用いている事が、明国嫌いの足利義持への勅書としては拙いと“幕府”側が指摘し“竜集”に書き改める様迫った。しかし、自らを“明“の朝貢国と位置づけ、明から“暦”を授かる立場の朝鮮国にとって“永楽”の年号を用いる事は当然の事であり“我々は死を以てしても国王の御書を改竄するという姑息な事は出来ない“と、断固拒否したのである。公文書改竄問題で国会を揺るがせた今日の日本の役人達は“宋希璟”の毅然たる姿勢、この“史実”をどの様に受け取るのであろうか。

この他にも将軍・足利義持との面談が許されるまでにはいくつものハードルがあったが、遂に6月16日、恵珙、周頌の二人が“将軍足利義持の疑いが晴れた”事を告げに訪れ、漸く面会の運びと成ったのである。

B-11-(5):足利義持を歓喜させた“宋希璟”の駄目押し外交術

京都に入ってから面会が許されるまでの50余日の間に“宋希璟”は体調を崩した。面会を許した足利義持からは“無涯亮倪”を通じて“宋希璟”の病床を見舞わせ、食事を用意させている。ここで“宋希璟”は駄目押しとも言える外交術を発揮する。

足利義持が父・足利義満の13回忌の喪に服しているとの情報を得た“宋希璟”は、自らも殺生を絶ち、魚を食べるのを止めたのである。3日後に“無涯亮倪”が訪れ“(宋希璟が)魚を絶った事を聞き、足利義持が歓喜した”事を告げた。

こうして足利義持は朝鮮国王の“応永の外寇”に対する真意を理解し、誤解を解いたのである。“宋希璟”に対する待遇は目に見えて変わり、会見の日を迎える。

B-11-(6):足利義持との会見成る

1420年(応永27年)6月16日:

会見は春屋妙葩を開山とする“宝幢寺”で行われた。“宋希璟”の行列等に就いても記録が残るが、華やかなものであった。足利義持との会見は回礼使から朝鮮国王の国書を受け取る事で日本と朝鮮国との友好の保証とする儀式であり、極めて形式的なものであったと記している。ただ、足利義持が国書を受け取った後に“これからはあちこちの寺を遊覧するように”と、労いの言葉を掛けた事を伝えている。

足利義持からの返書を待つ期間は10日程あった。この間“宋希璟”は西方寺や仁和寺を訪れ、僧達と詩文を交わし友好を深めた事も記されている。“宋希璟”が朝鮮国に帰還したのは1420年9月30日であった。

その後“世宗”に同年10月25日“上王太宗”には翌日の10月26日に拝謁したとある。
“世宗実録“によれば“宋希璟”は労を報われて”繕工監正“という地位に出世している。

B-12:対日強硬派“上王太宗”と交代した“世宗”の“対日穏便外交”への路線変更に合わせて、李氏朝鮮国との関係を重視した“将軍・足利義持”

“応永の外寇”の際に李氏朝鮮は、表向きは“倭寇の拠点である対馬を攻撃し討伐する”としたが、17,285人の大軍を派遣し、対馬半島の中央部に位置する浅茅湾の奥まった入り江の“船越”に迄進軍している。冊を設置して島の交通の要所であるこの場を遮断した行動からは、対馬を占領する構えだったとする説もある。

対日強硬派とされる“上王太宗”の事であるから“糠岳”の大敗北が無かったならば、占領という展開もあり得た可能性を否定出来ない。

一方、第4代国王に既に即位はしていたが、父親・太宗(生:1367年・没:1422年)存命中は政治の実権を持たされていなかった“世宗(太宗の第3王子・在位1418年~1450年・生:1397年・没:1450年)”は父親の武断政治とは異なり、穏便な文治主義の政治姿勢であった。儒教を振興し、朝鮮文化を発展させ、何と言っても有名な政策が、文字の読めなかった国民の為に“ハングル”を創製した事である。

これらの多大な功績から、今日では朝鮮王国に於ける最高の“聖君”と評価され、朝鮮史では“世宗大王”と称され、子供から老人まで、幅広い層に尊敬される“国民的英雄”である。従って最晩年を迎えていた“上王太宗”よりも“応永の外寇”の収束には息子“世宗”の穏便な意見が強く反映し、和睦に至ったとの説もある。

“応永の外寇(1419年)“の3年後の1422年に”上王太宗“が歿し”世宗“は日本との外交関係に重きを置いた政策を採る。穏便な文治主義の政治姿勢を反映して、在位中の1428年・1439年・1443年に”通信使“を派遣し、室町幕府との修好に務め”倭寇禁圧“にも対処した。一方の足利義持も”明国“以外の諸外国との外交姿勢は温和であった。朝鮮に対しても国内の世論を刺激する事を避ける外交姿勢で応じたとされる。

両国共に穏健なトップが外交を担った事で結果的に”応永の外寇“が日本に及ぼした損害は少なく、寧ろその後の両国の関係修復を通じて室町幕府は大きな果実を得るのである。

C:足利義持が家督相続をした後の“室町幕府”と“鎌倉府”との抗争

足利義持の家督相続が“斯波義将”主導で成った事は既述した。室町幕府第4代将軍には就いていたが、父・足利義満没後に漸く政治の実権を得た時には22歳に達していた。“足利義持”の政治手法は、既述した背景から、剛腕を振るった父・足利義満とは真逆とも言えるもので“調整役的将軍”と称される。

それを裏付けるものとして“所領安堵”政策が挙げられる。足利義満没後の1408年(応永15年)から1413年(応永20年)迄の5年間に行った所領安堵の件数を見ると、他の将軍の時期に比べると可成り多い事が確認されている。

足利義持が有力守護大名や側近の屋敷に出向いた“御成”が可成りの数に上っている事は、先ずはお互いの信頼関係を築き、緊張関係を緩和する事を重視する“有力守護大名との連合制”とも言うべき政治姿勢であった事の裏付けだとされる。父・足利義満の“将軍専制”とは真に対照的な政治手法であった。足利義持の人柄に拠るものもあるが、既述した家督相続に於ける基盤の弱さを反映したものである。

室町幕府期は結果として237年(自1336年至1573年説)~250年(自1338年至1588年説)続いた訳であるが“公武”双方に及んだ“中央集権”的政治権力を握った“足利義満時代”をピークに“将軍・足利義持期”は “公”の部分の政治機能を“朝廷”に戻し“武”の面でも徐々に守護大名に機能が分散する“将軍統治力”としては遠心力が働く起点と成った政治期であったと言えよう。

この歴史ブログの“中巻”の共通テーマは“武士層の出現によって始まった混乱と闘争の500年の歴史”である。足利義持の政治期は、その象徴的期間と言うべき“戦国時代”へ突入する入り口と成った“政治期”であった。

“室町幕府237年間”全体も初代将軍・足利尊氏から第2代将軍・足利義詮期までは“南北朝時代”という日本が二つの朝廷に拠って二分され“混乱と闘争”そのものの期間であった。第3代将軍足利義満の政治期が、彼の強烈な個性と政治力に拠って“公武”双方を束ね、日本に君臨する政治期を迎えたものの、彼の急逝に拠って突然途絶えた。

そして迎えた“室町幕府第4代将軍・足利義持政治期”は“戦国時代”へ突入する入り口となるが、彼の政治期自体は、後の混乱の種を多く撒いたものの、丁度“台風の目”の中に入った“嵐の前の静けさ“状態の政治期であり、最も安定した政治期”であったと評する学者もいる。

C-1:室町幕府第4代将軍“足利義持”と第4代鎌倉公方“足利持氏”

第3代鎌倉公方“足利満兼”(在職1398年~1409年・生:1378年・没:1409年7月)が足利義満の死去から1年2カ月後に没し、11歳の足利持氏(幼名:幸王丸・在職1409年~1439年・生:1398年・没:1439年)が家督を継いだ。

将軍・足利義持は鎌倉公方就任を賀して、使者を鎌倉に送り、翌1410年12月の元服時に“幸王丸”に“持”の字を与えている。鎌倉公方・足利持氏の年齢は将軍足利義持より12歳下であった。

鎌倉公方の補佐役たる“関東管領”には、前代と同じ“上杉憲定(在職1405年~1411年・生:1375年・没:1413年)が就いた。この様に表面上は室町幕府と鎌倉府(鎌倉公方)との関係は平穏に見えるが、内実は第3代将軍・足利義満の時代の第2代鎌倉公方・足利氏満(在職1367年~1398年・生:1359年・没:1398年)との間に存在した対立関係はそのまま続いていたのである。

C-2:“足利義満”時代にも抱えていた不安定な奥州地区の状況

C-2-(1):奥州に生じた“四管領時代”という大混乱

“奥州”とは一般的に陸奥(青森・岩手・宮城・福島)を指し、出羽(秋田、山形)は羽州と呼ばれた。両方を纏めて指す場合は“奥羽”と呼ぶのが通常である。奥州には守護職が置かれておらず、室町時代の地方官制としては“奥州管領”が置かれていた。“奥州管領”は建武政権が創設した“陸奥将軍府”に対抗する為に設置された“奥州総大将“が前身であり、畠山国氏(生年不詳・没:1351年)と吉良貞家(生年不詳・没:1353年・東条吉良家3代当主)の二人が共同で統治するという方式であった。

当時“畠山国氏”は足利尊氏・高師直派で東条吉良家当主の“吉良貞家”は足利直義派であった。尚300年程後の“忠臣蔵”で有名な“吉良上野介(生:1641年・没:1702年12月)”は西条吉良家の17代目当主でありこの系統とは異なる。

6-12項で記した“観応の擾乱(1349年~1352年)”の最後で足利尊氏と足利直義兄弟の直接対決と成った事でこの戦いは“奥州管領”にも飛び火し、畠山国氏と吉良貞家が戦い、結果は足利直義派の“吉良貞家”が“畠山国氏”を敗死させた。しかし奥州管領職を巡る混乱は次代に引き継がれる。

吉良貞家も1353年に没し、子の吉良満家(生没年不詳)が世襲するが、討たれた畠山国氏の子で二本松氏の祖と成る“二本松国詮”も奥州管領を自称したばかりか、先の奥州総大将“石塔義房”の子の“石塔義憲”も奥州管領職を自称する状況と成った。こうした状況に、幕府からは“斯波家兼”(生:1308年・没:1356年)が1354年に奥州管領として任命され、下向した事で“四管領時代”という大混乱状態と成ったのである。

4人の“奥州管領”夫々が、各地で有力国人の支持を取り付ける必要から“群地頭”に検断権(警察権・沙汰権)並びに使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん)を認める様になった事で“奥州地区”の混乱は益々拡大したのである。

尚これらの権限は現地に使節(遵行使)を派遣して幕府裁許の結果を実行する権限である事から、これを与えられた各有力国人は、強力な支配権を持つ様に成り“分郡”と呼ばれる支配領域を持つ様になる。この様に中央から離れた奥州に於ける幕府の統治力は弱く、この地域の“国人”が自治権を拡大して行き、後の“戦国大名”へと発展して行くのである。

C-2-(2):奥州管領職が廃止され“鎌倉府”管轄下に組み入れられた陸奥並びに出羽の国人

1392年:足利義満が奥州管領職を廃止し、奥羽を“鎌倉府”の管轄下に組み入れる

足利義満は“康暦の政変(1379年)“で対立した第2代鎌倉公方“足利氏満”が“小山氏の乱(1380年~1397年)”で北関東有数の名門“小山氏嫡流”を滅ぼした事を賞し、以後、陸奥・出羽両国(=奥羽)を鎌倉府の管国に加える裁定を下した。これに伴なって“奥州管領職”は廃止され、陸奥・出羽の国人も以後“鎌倉府”への伺候を義務付けられる様になった。

1399年春:

第3代鎌倉公方に就いた“足利満兼(在職1398年~1409年・生:1378年・没:1409年)“は、弟2人を篠川公方(福島県郡山市安績町)並びに稲村公方(福島県須賀川市)として派遣した。この人事の目的は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった“反鎌倉府勢力”に対抗する為であった。

しかしこの人事に拠って“鎌倉府”の室町幕府への対抗姿勢が明確に成った他、奥州の豪族(国人)達の反感を買う事にも繋がったのである。

C-3:足利義満没(1408年5月)後、奥州の不安定さが顕在化し“京都扶持衆”の“伊達持宗”が“篠川公方”と“稲村公方”を襲撃する

“京都扶持衆”とは、鎌倉府(鎌倉公方)管轄国内の武士ではあるが、立場は室町幕府将軍と直接主従関係を結んだ関東地方、東北地方の武士達である。彼等は鎌倉府への出仕義務も無く、鎌倉公方の指揮も受けず、室町幕府将軍の直接指揮下に入り、その役割は真に“鎌倉公方の牽制“であった。

第4代将軍・足利義持の時代には十数家あったとされ、上記した立場、役割から、彼等は必然的に“鎌倉府”との対立抗争を重ねた。室町幕府と鎌倉府との対立は激しさを増して行くが“京都扶持衆”がその先鋒的役割を担って行く。

1413年(応永20年):

強大なリーダーシップで“公武”双方の権力を掌握し“求心力”を働かせた“足利義満”の死は室町幕府の統治力に次第に”遠心力“を生じさせて行く。先ずそれは国人に拠る自治権拡大の動きが強かった”奥州地区“で現われた。

伊達持宗(奥州伊達氏第11代当主・生:1393年・没:1469年)は伊達氏第11代当主として、此の地の“地頭職”として勢力を拡大していた“国人”であり“京都扶持衆”でもあった。彼は鎌倉府から派遣された“篠川公方”足利満直(第2代鎌倉公方・足利氏満次男・生年不詳・没:1440年)並びに“稲村公方”足利満貞(足利氏満4男・生年不詳・没:1439年)に反発して、襲撃事件を起こしたのである。

この事件に怒った第4代鎌倉公方・足利持氏(在職1409年~1439年・生:1398年・没:1439年)は畠山氏(二本松氏)に“伊達持宗討伐”を命ずるが、後述する“上杉氏憲(禅秀)の乱“と重なった為、完全に討伐するに至らなかった。

尚“伊達持宗”は後に室町幕府に帰順する。彼の子孫が、後の戦国大名で仙台藩初代藩主と成る“伊達正宗”(第17代当主・生:1567年・没:1636年)である。

C-4:鎌倉府に対するクーデター“上杉氏憲(禅秀)の乱”が勃発する・・1416年~1417年
C-4-(1):上杉氏憲(禅秀)について

上杉氏憲(うじのり・生年不詳・没年:1417年)は“犬懸上杉家”の上杉朝宗(犬懸上杉家3代当主・上総・武蔵国守護・関東管領・在職1395年~1405年・生:1337年・没:1414年)の子である。

犬懸家の上杉朝宗に就いては6-13項でも紹介したが1399年の“応永の乱”で第3代鎌倉公方・足利満兼が大内義弘に呼応して挙兵しようとした際に諫めたとの説がある人物である。(尚、既述の様に田辺久子氏は諌止したのは対抗関係にある山内上杉家の上杉憲定=山内上杉家第6代当主・生年不詳・没:1417年=だとの説を展開している)

父親・上杉朝宗が長寿(77歳)であり、漸く1409年、72歳の時に隠退した為、上杉氏憲(禅秀)が犬懸(いぬかけ)上杉家の4代目当主を継いだのは40歳代とされる。

彼は上総(千葉県)武蔵国の守護職を継ぎ、加えて未だ11歳の若さで第3代鎌倉公方に就いた足利持氏(在職・1409年~1439年・生:1398年・没:1439年)の補佐役の任に当たった。その後、後述する“足利満隆”の謀叛騒動から、山内上杉家の“上杉憲定”の後任として1411年に関東管領職に就く事になる。後に出家して名乗った法名が“禅秀”である。

父・上杉朝宗、その跡を継いだ上杉氏憲(禅秀)期の“犬懸上杉家”は急激に勢力を拡大し、対抗関係に在った山内上杉家(初代関東管領職に就いた上杉家4代当主・上杉憲顕・生:1306年・没:1368年、に始まる家で、戦国武将として有名な上杉謙信は山内上杉家の16代当主である)を脅かす迄に至った。

C-4-(1)-①:“山内上杉家”と“犬懸上杉家”について

上杉憲方(生:1335年・没:1394年)は、山内上杉家5代当主で、第2代鎌倉公方・足利氏満(在職:1367年~1398年・生:1359年・没:1398年)時代に関東管領の職に在り、既述した小山氏の乱(1380年~1382年、1386年~1397年)の功績で上野・武蔵・伊豆・安房・下野の守護職を務めた人物である。

その子の“上杉憲定(在職1405年~1411年・生:1375年・没:1413年)”が1399年の“応永の乱“の時に、大内義弘に呼応し、挙兵に及んだ第3代鎌倉公方・足利満兼(在職:1398年~1409年・生:1378年・没:1409年)を諌止した人物だと“田辺久子゛氏は論じている(当時関東管領職にあった上杉朝宗だとする説も紹介した)。その後1405年、30歳の時に関東管領職に就いている。

その後、第4代鎌倉公方・足利持氏(在職:1409年~1439年・生:1398年・没:1439年)に代替りしたが、引き続き幼少の鎌倉公方の関東管領職に在った。

しかし1410年に“足利満隆(第2代鎌倉公方・足利氏満の3男。生年不詳・没:1417年)“が鎌倉公方に対する謀叛疑惑事件が起こり、その煽りを喰って1411年、36歳の時に関東管領職を対立関係にあった犬懸上杉家の当主・上杉氏憲(うじのり・生年不詳・没年:1417年・出家して禅秀)に譲る事になった。

C-4-(2):上杉氏憲(禅秀)の乱の前兆・・足利満隆の謀叛騒動:1410年

C-4-(2)-①:足利満隆について

足利満隆(生年不詳・没年:1417年)は歴代鎌倉公方の中で最長の在職期間を務めた第2代鎌倉公方・足利氏満の3男である。

室町幕府と鎌倉府の関係は、建前上は鎌倉府は関東の政務を統括する出先機関という立場であったが、関東八カ国について“守護職補任”等の権限以外はほゞ全権を鎌倉府が掌握していた。こうした立場から、歴代鎌倉公方は、機会あらば室町幕府将軍に取って代わろうとする野望を抱く傾向があった上に、鎌倉公方と室町幕府将軍との関係は円滑さを欠くものであったとされる。

“足利満隆“の長兄の第3代鎌倉公方・足利満兼が1409年に31歳で没した為、彼の嫡子の足利持氏(生:1398年・没:1439年)が11歳で第4代・鎌倉公方に就いた(在職:1409年~1439年)。“足利満隆“は叔父であり、少年鎌倉公方を補佐する立場に成ったのである。

C-4-(2)-②:“足利持氏”襲撃の噂が立つ

1410年(応永17年)8月15日:

“足利満隆”が1409年に鎌倉公方に就いたばかりで、未だ元服前の“幸王丸”(この襲撃騒動後の1410年12月に元服し、足利持氏を名乗る)を襲撃するとの噂が流れ“幸王丸”(足利持氏)は関東管領“上杉憲定”邸に逃げ込むという事件が起きた。この事件が下記“上杉禅秀の乱“の引き金と成る。

“上杉禅秀の乱”を記した歴史書としては下記が挙げられる。

 鎌倉大日記:南北朝末期に成立し、以後書き継がれた足利氏を中心とした年代記。生田本は1180年から1439年迄を記述、彰考館本は1180年から1539年迄を記述している。2系統共に作者不詳

 喜連川判鑑(きつれがわはんがん):水戸藩の彰考館に保管された歴代関東公方、古河公方、下野喜連川藩、喜連川氏の系図などを記載した続群書類従・巻112系に収録された書物で、江戸時代中期に成立

 鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし):室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。戦国初期の作品と推定され、1380年~1479年の100年間の歴史を記している。

C-4-(3):“足利満隆”が謝罪し、関東管領“上杉憲定”が騒動の責任をとる形で辞職し、一応の終息となる

足利満隆が鎌倉公方“幸王丸(足利持氏)”を襲撃するとの騒動は、関東管領・上杉憲定が仲介し、足利満隆が謝罪をし、満隆の長兄(第3代鎌倉公方・足利満兼)の子、つまり幸王丸(足利持氏)にとっては異母弟の“乙若丸”を足利満隆の養子とする事で和解し、この騒動は表面上の決着を見た。

そして1410年12月に共に元服式を挙げ、“幸王丸”は第4代鎌倉公方・足利持氏を名乗り“乙若丸”は”足利持仲“を名乗ったのである。

C-4-(3)ー①:上杉氏憲(禅秀)が関東管領職に就く

1411年(応永18年):2月9日:

上記事件は足利満隆と反・上杉憲定派が結託して起こした騒動とされるが、責任を執る形で“上杉憲定”は“関東管領職”を辞した。そして後任の関東管領職には山内上杉家と対立する犬懸上杉家の上杉氏憲(うじのり=禅宗・生年不詳・没:1417年)が就いたのである。(在職1411年~1415年)

C-4-(4):鎌倉府の実権を握った“足利満隆”

“足利満隆”にとって“鎌倉公方・足利持氏襲撃”騒動は、結果的に関東管領“上杉憲定”を辞任に追い込み、その後任に犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)が就いた事で、政治抗争に勝利した形と成った。甥で12歳の少年鎌倉公方を補佐する立場を担い、その上“上杉憲定”が辞職し、上杉氏憲(禅秀)が関東管領職に就いた事で、鎌倉府の政治実権を掌握する形となったからである。

足利満隆が1412年(応永19年)に自らの邸宅“新御堂御所”を完成させ、その権威を誇ったとの記録がこれを裏付けている。

C-4-(5):上杉氏憲(禅秀)が関東管領職を辞任する

1415年(応永22年)4月25日~5月2日:

鎌倉府・政所の評定で、犬懸上杉家の家人で常陸国・国人“越幡六郎(おばたろくろう・こしはろくろう)に科があったという理由で彼の所領が没収された(鎌倉大日記・禅秀記)。関東管領・上杉氏憲(禅秀)はこの評定で鎌倉公方・足利持氏(当時17歳)と対立し、5月2日に関東管領職を辞任した。鎌倉公方・足利持氏に拠って更迭されたとの説もある。

C-4-(6):後任の関東管領職に就いたのは政敵“上杉憲定”の遺児“上杉憲基”であった

1415年(応永22年)5月18日:

鎌倉公方・足利持氏は後任に(上杉禅秀の犬懸上杉家とは対抗関係にある)山内上杉家の“上杉憲基”(うえすぎのりもと・生:1392年・没:1418年)“を任命した。彼は先の“鎌倉公方・足利持氏襲撃”騒動で煽りを喰った形で失脚した“上杉憲定”の子であり、1412年に父の死により家督を継いでいた。

野に下った上杉氏憲(禅秀)は以後“反鎌倉公方・足利持氏“並びに“反・山内上杉家・関東管領上杉憲基”の動きを公然化する。

C-4-(7):鎌倉公方・足利持氏に対する“反抗勢力”の結集に動いた“上杉氏憲(禅秀)”

C-4-(7)-①:“足利満隆”と結ぶ

足利満隆は上杉氏憲(禅秀)が関東管領に就き、鎌倉公方・足利持氏が少年であった間は鎌倉府の政治の実権を握っていた。しかし、鎌倉公方・足利持氏も18歳に成り、自ら政務を執る様になった上に“関東管領・上杉禅秀”が辞任に追い込まれた事で、急速に立場を失っていた。この“足利満隆”に目を付け、上杉氏憲(禅秀)は、反乱の同志として結んだのである。

C-4-(7)-②:足利満隆・上杉氏憲(禅秀)の下に結集した“反鎌倉公方派”の武将達

下記が“反・鎌倉公方・足利持氏“勢力として結集した主な武将達である。

①岩松満純(いわまつみつずみ):妻が“上杉氏憲(禅秀)”の娘。上野新田荘の国人領主・生年不詳・没:1417年5月13日

②那須資之(なすすけゆき):下野那須氏12代当主。“上杉氏憲(禅秀)”の養子。生年不詳・没:1423年8月8日

③千葉兼胤(ちばかねたね):千葉氏15代当主。妻が上杉氏憲(禅秀)の娘・生:1392年・没:1430年

④長尾氏春:武蔵国守護代・生年不詳・没:1416年

⑤大掾満幹:(だいじょうみつもと):上杉禅秀の子“教朝”を養子に迎えていた。常陸国・水戸城主・生年不詳・没:1430年

⑥佐竹与義:(さたけともよし=山入与義の名でも知られる):常陸守護佐竹氏一族の庶流・生年不詳・没:1422年。

⑦小田持家:常陸小田氏当主・生:1402年・没:1481年

⑧三浦高明:相模国守護職・生没年不詳

⑨武田信満:甲斐武田氏13代当主・娘が上杉禅秀の室。上杉憲宗の攻撃を受け自害・武田信玄(19代)勝頼(20代)は子孫となる。生年不詳・没:1417年2月6日

⑩結城満朝:(ゆうきみつとも):白河“結城”氏の養子に入る・生没年不詳

⑪蘆名盛政:(あしなもりまさ):蘆名氏第9代当主であり京都扶持衆とされる。生:1386年・没:1434年

⑫地方国人:信濃・上野・下野・武蔵・常陸・相模・伊豆等の国人達

C-4-(8):戦闘に突入し、クーデターが成功する

“看聞日記“の1416年(応永23年)10月13日条に

今月二日、前関東管領・上杉金吾(=上杉氏憲)謀叛を発す。故満氏(氏満)末子(満隆)当代(足利)持氏舅、大将軍と成り数千騎鎌倉へ俄かに寄せ来る。左兵衛督持氏(鎌倉公方・足利持氏)用意無きの上、諸大名敵方へ余力の間馳せず。管領(関東管領・上杉憲基)上杉房州子息御方としてわずか七百余騎、無勢の間、合戦に及ばず退き駿河国堺へ落ちられおわんぬ。同四日左兵衛督持氏館以下鎌倉中焼き払われおわんぬ

との注進状が来た事を伝えている。

1416年(応永23年)10月2日~10月4日:

“鎌倉大草子“には足利満隆側(クーデター側)の情報として、彼自らの邸宅である“新御堂御所”近くの“宝寿院”で挙兵、上杉氏憲(禅秀)と合流して鎌倉公方“足利持氏”と関東管領職“上杉憲基(うえすぎのりもと・生:1392年・没:1418年)を襲った事を記している。

事件の注進を受けた室町幕府は、将軍・足利義持が評定を行い、鎌倉公方・足利持氏を先ず幕府管轄地である駿河国へ鎌倉から退かせる事を決めた。鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲基は鎌倉を脱出し、足利持氏は駿河国の今川範政(生:1364年・没:1433年・駿河・今川氏の第4代当主)に保護された(彼の4代後の子孫が1560年に桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元である)。

関東管領・上杉憲基は伯父で越後守護の上杉房方(うえすぎふさかた・生:1367年・没:1421年)を頼って落ち延びた。

この時点で、足利満隆・上杉氏憲(禅秀)のクーデターは成功し、上記、呼応した武将共々、鎌倉府を制圧下に置いた。クーデターが一時的にであれ、成功した背景には、普段は鎌倉府に出仕している関東の有力諸将が、必要に応じて領国に戻って統治に当たる為に、丁度留守にしていた隙を突いた為だとされる。

クーデターに成功し、鎌倉府を抑えた“足利満隆”は自らを“鎌倉公方”と称したが、将軍・足利義持は認めなかった。

C-4-(9):誤報に混乱した室町幕府

“看聞日記”の1416年(応永23年)10月16日条に、10月15日に飛脚が到来し“上杉禅秀(クーデター方)”方と鎌倉公方“足利持氏”方が10月7日に三島で合戦となり、8日に鎌倉公方側が敗北し、足利持氏、並びに関東管領・上杉憲基以下25人が切腹したとの注進が幕府管領“細川満元”に入り、これを知った将軍・足利義持が激怒したと記されている。

これは誤報であったが、同様の事が“満済准后日記”にもあり、京都中にこの誤報が広まっていた事が分かる。

C-4-(10):鎌倉公方・足利持氏の切腹が誤報である事を掴んだ室町幕府側が“鎌倉府救援”を決定する

1416年(応永23年)10月29日:

鎌倉公方・足利持氏が駿河国で幕府の支援を求めている事に対し、室町幕府は漸く10月29日の評定で鎌倉公方救援を決定したのである。

何かと対立して来た室町幕府と鎌倉府との関係ではあったが、将軍足利義持の叔父で、諸大名からも敬愛されたと伝わる“足利満詮(あしかがみつあきら・足利義詮の4男で、足利義満の同母弟・生:1364年・没:1418年)“の進言に動かされて鎌倉公方・足利持氏救援に乗り出す事を決めた事を“看聞日記“の記述からも確認する事が出来る。

C-4-(11):鎌倉公方救援の為の援軍派兵で“上杉禅秀の乱“が収束する

C-4-(11)-①:クーデター勃発から対策を怠っていた幕府が動いた背景について

幕府は今川範政、上杉房方(生:1367年・没:1421年・上杉憲方の子・越後守護・越後上杉家2代当主)、小笠原政康(信濃守護・生:1376年・没:1442年)に命じて足利満隆・上杉氏憲(禅秀)のクーデター軍討伐に向わせた。更に、佐竹氏・宇都宮氏も加わったとある。

鎌倉で“上杉禅秀”等が反乱を起こしたのが1416年(応永23年)の10月2日~4日であったから、幕府の動きはいかにも遅かった。クーデターに関する誤報があった事もあるが、所詮、遠い東国の紛争位に考えていた事がある。

将軍足利義持の叔父・足利満詮が“敵方は既に鎌倉を制圧している、彼等が京への謀叛を企てる事もあり得る“と進言した事で幕府に緊張感が伝わり、鎌倉府救援を決断させたとされるが、更にクーデター軍の討伐を決めた1416年10月29日の翌日に、突如、将軍・足利義持の異母弟”足利義嗣“が京から出奔し、高尾に遁世(俗世の煩わしさを避けて静かな生活に入ること)した事に仰天した“将軍・足利義持”が討伐軍の動きを加速させたとされる。

”足利義嗣出奔“事件、そしてその顛末に付いては後述する。

C-4-(11)-②:クーデター側の動揺

1416年(応永23年)12月23日:鎌倉公方・足利持氏が駿府を出て反撃を開始

室町幕府が鎌倉公方・足利持氏救援を決定した事で、クーデター側(足利満隆・足利持仲・上杉禅秀)に与した武将達の中から幕府方に寝返る者が続出した。この機に乗じて越後の上杉勢も上野方面から武蔵国に軍を進めた。鎌倉公方・足利持氏は駿河を発ち、伊豆三島に陣を敷き箱根をうかがった。

C-4-(11)-③:クーデター軍の巻き返し

1417年(応永24年)元旦

幕府軍の上杉房方、並びに、小笠原政康軍が八王子方面から鎌倉に迫りクーデター軍に加わった江戸氏・豊島氏ら武蔵の武士団との間で“世谷原の合戦(現在の横浜市瀬谷区瀬谷市民の森一帯)となった。この戦いではクーデター側の上杉氏憲(禅秀)軍が勝利し、態勢を巻き返したかに見えたが、幕府方、鎌倉公方側への寝返りは跡を絶たなかった。

C-4-(11)-④:クーデターの終息・・上杉氏憲(禅秀)軍が敗れ、足利満隆・足利持仲と共に自害する

1417年(応永24年)1月10日:

幕府方の今川範政・上杉憲基軍が“世谷原の戦い”の間隙を突いて箱根峠を越え、国府津(こうづ=小田原市東部地区)に迄進軍した。これを知った上杉氏憲(禅秀)軍は急ぎ鎌倉に戻ったが、援軍を得られず“相模川の戦い”で幕府軍に敗れた。

上杉氏憲(禅秀)は一族郎党と共に、そして足利満隆・足利持仲父子も鎌倉“雪の下(鶴岡八幡宮別当房)”で自害して果て“上杉禅秀の乱”は終息したのである。

上杉氏憲(禅秀)が討たれた為、犬懸上杉家は滅亡し、クーデター側に加担した諸将の中、武田信満は自領の甲斐まで追い詰められて自害(1417年2月6日)し、上野国の岩松満純は捕えられ斬首(1417年5月13日)された。千葉兼胤(ちばかねたね)は乱の途中で鎌倉公方・足利持氏に降伏している。

C-5:“上杉禅秀の乱”と連動した“足利義嗣”出奔事件

C-5-(1):将軍足利義持と異母弟“足利義嗣”

“足利義嗣”については前項でも記述したが、室町幕府第4代将軍・足利義持の異母弟であり、父・足利義満に偏愛され“北山殿義満”の後継者と世間が噂した程の立場に居た人物である。しかし1408年5月に足利義満が急死し、父親“北山殿義満”の政治の殆んどを否定した異母兄“足利義持”が政治の実権を握った事で彼の立場・運命は一気に暗転した。

足利義嗣は1409年末には住んでいた北山第(邸)を離れ、彼の生母である“春日局”も北山第(邸)から追われるように去った。北山第には足利義満の妻“北山院=日野康子”だけが歿する迄(1419年11月)残った事も既述の通りである。

将軍・足利義持と父親・足利義満との関係は極めて冷淡なものであった事から、異母弟・足利義嗣に対する足利義持の感情も、当然の事として良く無かったと伝わる。しかし“調整型”の将軍“足利義持”だけに“足利義嗣”に対しての対応は、足利義満没後の1414年1月に正二位に叙した史実が示す様に、それなりの気配りをしている。

しかし事態は1416年(応永23年)10月2日の“上杉氏憲(禅秀)の乱”勃発との関連から急変する。

C-5-(2):幕府がクーデター軍討伐を決めた翌日に“足利義嗣”は出奔する。しかし直ぐに連れ戻される

1416年(応永23年)10月30日の“看聞日記”には下記の様に明記されている。

押小路大納言義嗣卿(足利義嗣)室町殿舎弟,号新御所、今暁逐電せらる。室町殿(足利義持)仰天。京中騒動す。追手を懸け尋らるるの間、高尾(山城高雄)に隠居遁世と云々


又、1416年(応永23年)11月2日条には、将軍足利義持が足利義嗣のもとに幕府管領“細川満元“と近臣の”富樫満成(加賀南半国守護・生年不詳・没:1419年2月4日)“を派遣して京への帰還を促した事が書かれている。足利義嗣は出家を望んだとされるが、許されず、同、11月5日に“仁和寺興徳庵”に移され、侍所別当の一色義範(後に義貫に改名・丹後,若狭、三河、山城国の守護・四職の一人として幕政に参与・生:1400年・没:1440年)の厳重な監視下に置かれたとある。

足利義嗣近臣の山科教高(やましなのりたか・公家・生年不詳・没:1418年2月13日)、山科嗣教(やましなつぐのり・山科教高の親族・公家・生:1393年・没:1418年?)等は富樫満成(富樫氏14代当主・生年不詳・没:1419年2月4日)並びに富樫満春(富樫氏13代当主・生年不詳・没:1427年6月9日)に預けられ、1416年11月9日に“足利義嗣”が“相国寺林光院”に移されたと記している。

C-5-(2)-①:足利義嗣の側室が“上杉禅秀の娘”であった事と結び付け、彼の出奔した日を1417年1月20とする説も存在する

異母弟・足利義嗣が将軍足利義持にとって邪魔な存在であった事は間違いないが、既述の様に足利義持は政治の実権掌握と共に彼を誅殺するという行動は執っていない。むしろ気遣いしながら隔離状態に置いていたのである。

“上杉禅秀の乱”が勃発し、室町幕府として“クーデター側の討伐”を決めた翌日に足利義嗣が出奔したとする1416年10月30日の“看聞日記”の記事は、後述する“富樫満成”失脚という史実展開との整合性からも信憑性が高く、史実と考えられる。

一方で、足利義嗣の側室が“上杉禅秀の娘”であった事との関連から“上杉禅秀”が上述した幕府方の討伐軍に敗れ、1417年(応永24年)1月10日に自害し、それを知った“足利義嗣“が自分の身に迫る危険を感じて、10日後の1417年1月20日に出奔したとする説もある。しかし乍ら、この説は裏付けに乏しい上に、後の史実展開との整合性を欠き、信憑性に欠けるとされる。

C-5-(2)ー②:足利義嗣の出奔理由を“上杉禅秀の乱”との連携だと変化させた“看聞日記“の記述

足利義嗣の出奔は“将軍足利義持”はじめ幕府首脳達にとって寝耳に水の事態であった。“看聞日記”にも当初は“義嗣の所領が少ないのでこの事を将軍足利義持に訴えたが、取り合って貰えなかった事を恨んでの事“との風聞を記し、更に、足利義持が出奔した足利義嗣を管領“細川満元”と近臣“富樫満成(とがしみつなり・加賀南半国守護・生年不詳・没:1419年2月)に命じて探させ、帰宅を促した、と、穏便な表現で記している。

しかし“八幡宮愛染王法雑記”には“富樫・大館両人軍勢を率いてかの在所に向いこれを守護し奉る“と、軍勢を率いて”高雄“に行ったと記している。将軍足利義持が、周囲が捉えている以上に、個人的に足利義嗣の出奔を重大視していた様子を伝えているのである。

その後、当初、楽観的に捉えていた“看聞日記”の記述も1416年12月16日条になるとこの事件に就いての捉え方を大きく変化させた書き方になっている。つまり“足利義嗣”が厳しい監視下に置かれ、尋問を受けた結果、判明した“真相”として“押小路亜相(足利義嗣)叛逆の企露見、関東謀叛かの亜相(足利義嗣)所為と云々(以下略)“と記述している。足利義嗣の行動は単なる出奔では無く関東の”上杉禅秀”方と連携した叛逆であると当初とは大きく変化しているのである。

尚“足利義嗣”の側室が“上杉禅秀”の娘であった事と“上杉禅秀の乱”との関係に就いては一切触れていない事からも、上述した“1417年1月出奔説”は此処でも信憑性に欠ける事が分かる。

C-5-(3):足利義嗣出奔を重大視した将軍足利義持が近臣“富樫満成”に関係者の尋問をさせる

足利義持は近臣“富樫満成”に命じて、異母弟“足利義嗣”並びにその近臣達に対する尋問をさせている。“富樫満成”は、足利義持が幼少の頃から仕え、義持が将軍になった後も近臣として寵愛を受けた人物である。

そしてその後、尋問に当たった富樫満成の報告書が出され、それが大きな波紋を呼び“足利義嗣”の処刑へと繋がる。“看聞日記”にも、将軍足利義持はもとより、幕府首脳部の最大の懸念事項が“諸大名の足利義嗣への加担“の有無にあった事が記されている。

C-5-(4):将軍足利義持と守護大名との不安定な関係を透かして見せた“報告書”

“看聞日記“には1417年(応永24年)11月に提出された富樫満成に拠る”報告書“には、現職の幕府管領初め、多くの守護大名、公卿達の名前が“足利義嗣”に与して“将軍足利義持打倒“を計画したとしてその名前が挙げられた事を記している。

=“足利義嗣”派として報告書に名前が挙がった人々=

①細川満元:現職室町幕府管領(第11代管領・在職1412年~1421年・生:1378年・没:1426年)

②斯波義重(=義教):元・室町幕府第7代管領”(在職1405年~1409年・生:1371年・没:1418年)尾張守護として“清須城”を築城した人物

③畠山満慶:畠山満家の弟・能登畠山氏初代当主・生年不詳・没:1432年

④赤松義則:南朝方として挙兵した叔父・赤松氏範討伐の武功を挙げ1388年“侍所所司”に任じられ、四職家の一つとして幕政に参加。赤松三尺入道と呼ばれ、身長が120cm程であった。生:1358年・没:1427年

⑤土岐康政:土岐氏の乱(1390年)を起こした土岐康行の子。応永の乱(1399年)でも反幕府側に与したが、足利義満に許され、1411年に伊勢国守護に復帰する。世保(よやす)氏を称した。生年不詳・没:1418年

⑦山名時熈(やまなときひろ):応永の乱(1399年)での武功等から相伴衆(しょうばんしゅう=将軍が殿中に於ける宴席や他家訪問の際に随従、相伴する幕府の役職。管領に次ぐ席次を与えられる)として幕政にも参加した人物。京都から出奔した足利義嗣と共に上杉氏憲(禅秀)との内通疑惑を持たれた。生:1367年・没:1435年。

⑧山科教高:(やましなのりたか):公家・山科教遠の子。“足利義嗣”派として加賀(石川県)に流され、足利義嗣が殺害された(1418年1月24日)直後の1418年2月13日に殺害された。

⑨日野持光:公家。配流となる。生没年不詳

“看聞日記“の記述の全てが真実と断定は出来ないが、幕府を構成する有力守護大名の名がこれ程多く挙がる事自体が、当時の将軍足利義持と諸大名との緊張関係、不安定さを裏付けるものとされる。将軍足利義持と諸大名との関係が、父・足利義満時代の求心力の効いた状況とは異なり、逆に遠心力が働いた下での“不安定さの中の平穏状態”であった事を物語っている。

C-5-(4)-①:“看聞日記“に裏付けられる“土岐康政”と“山名時熈”への処分と諸大名への動揺の広がり

富樫満成の“報告書”が出てから半年以上経った“看聞日記“の1418年6月6日条に、名前の挙がった“土岐康政”と“山名時熈”が処罰された事が書かれている。

土岐康政(=興康・生年不詳・没:1418年6月6日以前説、同9月14日説あり)が死去した為、処罰が子息の“土岐持頼(生年不詳・没:1440年6月15日)に及び、伊勢守護職を解かれ、所領数か所を召し上げられたとあり、又“山名時熈(やまなときひろ・生:1367年・没:1435年)”も富樫氏に拠って出仕を止められたとある。

“報告書”に名前を挙げられた諸大名は“足利義嗣に与した”とのレッテルを張られる事を恐れ、不安と動揺が広がった。同時に足利義持側近の“富樫氏”に対する反発が高まって行ったのである。

C-5-(5):富樫満成に命じて密かに“足利義嗣”を殺害させた将軍“足利義持”

“富樫満成”の報告書(1417年11月)は将軍足利義持に大きな衝撃を与えた事は疑いない。出奔事件の真相究明を進める事は、守護大名と将軍近習間の政争へと繋がり、衆議を重んじる政治スタイルの将軍・足利義持として最早、異母弟“足利義嗣”の存在そのものが更なる混乱を招く事との危惧を深めたのである。

1418年(応永25年)1月24日:

足利義持は“富樫満成”に命じて秘かに異母弟・足利義嗣(満24歳)を殺害させた。北山殿義満が溺愛し、異例の昇進をさせ、北山第に住まわせた事で、世間は足利義嗣こそが足利義満の後継者だと噂した時期もあった。又、容姿端麗で才気があり、笙の演奏では天才的だったと伝わる足利義嗣の短い人生はかくして閉じられた。“上杉禅秀の乱”に関わる一つの戦後処理であった。

C-5-(5)-①:富樫満成の失脚と死

足利義持の家督相続時に貢献し、近臣として諸大名も一目置く存在に迄、力を持つ様になった“富樫満成“は“足利義嗣出奔事件”に深く関わった。足利義嗣を出奔先から連れ戻し、彼が誰かに奪われない様、厳重な監視下に置き、又、彼の近臣も預かる等に加えて、上述した取り調べを行った。その結果提出された“報告書”に基づいて有力守護大名に処罰が及び、周囲の諸大名と将軍足利義持との間に疑心暗鬼を生む事になった。

守護大名と将軍近習者の間の政争の懸念と併せ、足利義持は事態悪化を避ける為“足利義嗣殺害”を決断したのである。こうした展開になる程、近習“富樫満成”の影響力、権勢は大きなものとなっていたのである。

“看聞日記“には、公卿の”田向経良“(生:1369年・没:1453年)から聞いた話として“足利義持が富樫満成に密かに命じて殺害させた”と記している。足利義持が幕府管領初め、他の諸大名にも全く知らせずに独断で実行した事を裏付ける記述である。

当時、諸大名の“足利義嗣”の処置に関する意見は分かれていた。従って、個人的に異母弟“足利義嗣”の存在に“危機感”を強めていた“足利義持”としては、幕府重鎮、諸大名の衆議に諮らずに“富樫満成”に命じて“足利義嗣殺害”を断行したのである。

この挙に対する諸大名達の批判は大きく、それが全て側近“富樫満成”に向けられたのである。そして“富樫満成”の失脚と死は早く訪れた。

1419年(応永26年)2月4日:

  ”富樫満成“が幽閉状態の“足利義嗣”に将軍“足利義持”への謀反を促し、それが露見しそうになった為“足利義嗣の誅殺を進言した“という嫌疑が捏造された。別の説として、将軍・足利義持の妻妾・林歌局(りんかのつぼね)との密通の疑いが掛けられたとの説もある。いずれにしても“富樫満成”が諸大名に行なって来た謀略が己に跳ね返って来た形で、これ迄痛めつけられて来た勢力がこれ等の風説を流したとされる。

”富樫満成“は追放され高野山に逃れるが、幕府管領を務めた畠山満家(第10代・第12代幕府管領・在職:1410年~1412年・1421年~1429年・河内・紀伊・越中・伊勢・山城国守護・生:1372年・没1433年)に拠って殺害されたのである。

“足利義嗣”を殺害した事に対する当時の批判は多く、衆議を重んじ、調整型の政治スタイルをとる将軍・足利義持としては“富樫満成”に罪を被せる事でバランスを取った処置と考えられている。

C-6:将軍“足利義持”と鎌倉公方“足利持氏”の対立が顕在化する

関東に支配権を延ばそうとする室町幕府将軍と、足利尊氏が四男足利基氏(在職1349年~1367年)を初代鎌倉府の長官・鎌倉公方という職を設けて、関東十カ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)を統治させ、以後、足利基氏の子孫に世襲させた事で、両組織が衝突する様になる展開は言わば宿命的と言えよう。

鎌倉公方は将軍が任命する幕府の正式な役職では無く、鎌倉を留守にしている将軍の代理という位置付けであったが、次第に中央の幕府権力と対峙する“関東勢力”になって行ったのである。

既述した様に、室町幕府と鎌倉府の関係は、第2代鎌倉公方・足利氏満の時代から抗争含みであった。今回の“上杉禅秀の乱“では幕府側が鎌倉公方・足利持氏救援に回ったが、それは”幕府“として筋目を通す上でそうせざるを得なかったからであり、決して相互協力の関係からのものでは無い。

以下に歴代の鎌倉公方と幕府との対立関係を改めて整理して置く。

C-6-(1):2代目鎌倉公方“足利氏満(在職1367年~1398年)”期:

1379年の“康暦の政変“の際、鎌倉公方・足利氏満は室町幕府第3代将軍”足利義満“に対し挙兵している。しかし、当時の関東管領・上杉憲春(うえすぎのりはる・山内上杉家の祖の上杉憲顕の子・生年不詳・没:1379年3月7日)が自刃して諫めた為に京都へ攻め入る計画を断念した。

以後、足利義満は足利氏満への圧迫を強める一方で、既述した様に、当時の奥州管領が充分に統治機能を発揮出来なかった事から、足利氏満に“陸奥・出羽”の統治を任せる事で、鎌倉府が中央から離反する防止策としている。

C-6-(2):3代目鎌倉公方“足利満兼(在職1398年~1409年)”期

1399年の“応永の乱“に際して、3代目鎌倉公方”足利満兼“は将軍・足利義満に抵抗して挙兵した“大内義弘”に呼応して挙兵し、武蔵府中まで進軍したが、この時“上杉憲定(うえすぎのりさだ・山内上杉家の上杉憲方の子・後に関東管領に就く・在職1405年~1411年・生:1375年・没:1413年)“に諌止されている(時の関東管領であった犬懸家の上杉朝宗だとの説もある事は述べた)。

第2代・第3代の鎌倉公方が共に室町幕府・将軍(足利義満)に対して挙兵し、2ケース共諌止された(上杉朝宗説を採れば共に当時の関東管領に諌止された事になる)歴史を繰り返す対立関係にあったのである。

C-6-(3):第4代鎌倉公方“足利持氏(在職1409年~1439年)”期:

鎌倉公方と室町幕府将軍の歴史的な対立構図は第4代鎌倉公方“足利持氏”の代にも引き継がれた。

“公武”双方の強大な権力を握った足利義満存命中は“鎌倉公方”は常に足利義満の力の前に屈服させられて来た。しかし足利義満が急死(1408年5月)し、更にその1年後の1409年に第3代鎌倉公方・足利満兼(生:1378年・没:1409年)も31歳の若さで没すると、新将軍“足利義持”と新鎌倉公方“足利持氏”との間に対立構図が復活した。

父・足利義満の様な、強力な将軍としての求心力を持たない将軍・足利義持の鎌倉公方に対する“牽制”力は弱かった為、沈静化していた幕府と鎌倉府との対立構図が再び顕在化し、そして武力抗争へと進んで行く。その“引き金”と成ったのが“上杉氏憲(禅秀)”の乱(1416年10月2日)後の鎌倉公方が行なった戦後処理を巡ってのものであった。

C-6-(3)-①:鎌倉公方・足利持氏の“上杉禅秀の乱”後の厳しい処分が、関東各国の国人達との間に大きな溝を作る

鎌倉公方・足利持氏は“上杉禅秀”方に与した上野国新田荘の国人“岩松満純(妻が上杉禅秀の娘・生年不詳・没:1417年閏5月13日)”を処刑し、甲斐国守護“武田信満(甲斐武田氏の第13代当主・生年不詳・没:1417年2月6日)“を自害させた。

足利持氏の戦後処理はかなり厳しかった上に専制的に兵を動かした事で、関東各国の国人等との間に溝を生じさせたばかりか、幕府との間にも深い溝を生じさせた。幕府は鎌倉府を牽制する策として“上杉氏憲(禅秀)”討伐に加わった“京都扶持衆”で、下野国の“宇都宮持綱(うつのみやもちつな・13代当主・上総国守護・生:1396年・没:1423年)“を乱後に上総国守護に任じ、更に足利氏ゆかりの“足利荘”を鎌倉府の管理から室町幕府の直接管理に移行する等の策を講じたのである。

C-6-(3)-②:“甲斐国守護”補任の件で幕府と鎌倉府が対立する

“上杉禅秀“に与した甲斐の守護”武田信満“が自害に追い込まれた事で、後任の守護補任を巡って幕府(足利義持)と鎌倉府が対立した。鎌倉公方“足利持氏”は国人の逸見有直(へんみありなお)の起用を望んだが、幕府は武田信満の弟“武田信元”(生年不詳・病没:1420年)を還俗させ、守護補任とした。

1418年(応永25年)2月、幕府は武田信元に甲斐国への下向を命じ、信濃国守護の“小笠原政康”に支援を命じた。しかし、国人の逸見有直・穴山氏が抵抗し“武田信元”の入国を拒んだのである。1年後の1419年(応永26年)3月14日付で“武田信元”支援の御内書が出ているが、逸見、穴山氏の抵抗は依然頑強で入国は阻止されたまゝであった。そうする中に“武田信元”は1421年(応永28年)に没したのである。

室町幕府は武田信元の甥(武田信満の嫡子)の“武田信重(甲斐武田氏第14代当主・生:1386年・没:1450年・武田信玄は第19代当主である)“を守護に任命する旨を1421年に鎌倉府に伝えたが、鎌倉公方“足利持氏”は尚もこれに抵抗した為“武田信重”も“武田信元”同様、甲斐国への入国を阻止され、在京のまゝの甲斐守護職であったと記録されている。

しかし、武田信重の甲斐国への入国拒否の本当の理由は国人“逸見氏・穴山氏”の妨害よりも“在倉制”にあったとされる。

“在倉制“とは鎌倉府管轄下の諸国の守護大名は鎌倉に出仕し、鎌倉公方に奉仕する義務を負うという制度である。この制度がある限り、鎌倉公方が、自分に敵対する可能性のある守護を粛清する事が容易に出来たのである。実際に、幽閉・殺害された守護も居り“武田信重”はそれを恐れ、甲斐国入国の幕命に従わなかったと言うのが本当の理由とされる。

室町幕府は“武田信重”の義務違反に対して、京都から追放し、事実上の配流をしている。

C-6-(3)-④:“常陸国守護”補任に関しても幕府に激しく抵抗した鎌倉公方“足利持氏“

常陸国では“上杉禅秀の乱”で“上杉禅秀”に与した“佐竹与義(さたけともよし=山入与義・佐竹一族の庶流で常陸国山入を所有・生年不詳・没:1422年)”が、主家の守護“佐竹義人(上杉義憲~佐竹義憲~佐竹義人と改名している・生:1400年・没:1468年・関東管領上杉憲定の次男で、第11代当主・佐竹義盛の養子と成る)と家督相続問題から対立関係にあった。

“佐竹与義(山入)“は、一度は鎌倉公方・足利持氏に降った武将であったが“京都扶持衆”として室町幕府側の武将となった。こうした経緯から、鎌倉公方“足利持氏”をバックとする守護職“佐竹義入”との抗争は絶えなかったのである。

C-6-(3)-⑤:幕府は“佐竹与義(山入)”を守護に補任する。しかし鎌倉公方“足利持氏”はそれを無視したばかりか彼及び彼の一族を誅殺するという挙に出る

1421年(応永28年)4月:

将軍足利義持から鎌倉公方“足利持氏”への下記叱責の“御内書”が出るに至った。

常陸国守護職の事、佐竹総入道(佐竹与義=山入与義)に申し付けられるべきの由、度々申し候といえども、いまだその儀なく候。心元なし。所詮早速彼に仰せ付けられ候はば、本意たるべく候

室町幕府が“佐竹与義(山入)”を常陸国守護に任じた事に対し、鎌倉公方・足利持氏がそれを無視し続けた事に不快感を伝えた史料である。

1422年(応永29年)12月:

上記“御内書”から1年8カ月が経った12月に、鎌倉公方・足利持氏は何と側近の“上杉憲直(生年不詳・没年:1438年)に命じて“佐竹与義(山入)”並びに一族を誅殺させたのである。こうした鎌倉公方“足利持氏”の東国の“反鎌倉府勢力”に対する強硬姿勢は守護補任に関する幕府との抗争だけに止まらず、全面的な対立に発展して行った事は“満済准后日記”にも記されている。

C-6-(4):室町幕府が背後で動き“反鎌倉府”の動きが拡大する

鎌倉公方“足利持氏”の“佐竹与義(山入)一族誅殺”は常陸国から上野国に於ける反鎌倉府の動きに火を付けた。常陸国では1422年~1423年にかけて京都扶持衆の“小栗満重”が鎌倉公方・足利持氏に対して反乱を興す。しかしこの反乱は1423年8月に鎌倉公方“足利持氏”自らが出陣した事で鎮圧される。

C-6-(4)-①:京都扶持衆“小栗満重”という人物について

“小栗満重”は、常陸国・真壁郡・小栗御厨の領主で度々“反鎌倉府”活動を重ねた“京都扶持衆”である。第3代鎌倉公方・足利満兼(在職1398年~1409年)が没し“足利持氏”が僅か11歳で第4代鎌倉公方に就いた直後の1411年に、この機に乗じるかの様に未だ13歳だった鎌倉公方に対する反乱を起こした過去を持ち、先の“上杉禅秀の乱”(1416年10月2日~1417年1月10日)”でも“上杉禅秀”に与し、鎌倉公方・足利持氏から、所領の一部を没収された。

“小栗満重”はこの処置を不満として、更に“反鎌倉府(鎌倉公方)“の動きをエスカレートさせて行ったのである。

C-6-(4)-②:“小栗満重の乱”が勃発。しかし鎌倉公方“足利持氏”直々の出陣であえなく征圧される

1422年に“小栗満重”は同じ“京都扶持衆”の“宇都宮持綱(生:1396年・没:1423年)”並びに“桃井宣義”“真壁秀幹(まかべひでもと・生:1380年・没:1424年)”そして“佐々木基清”等と共に鎌倉府に対する反乱を起こし“下総結城城”を奪っている。

尚“宇都宮持綱”が室町幕府から“反鎌倉府の活動を命ずる御内書”を受けていた事が“満済准后日記”に書かれており、常陸国のみならず、下野国(栃木県)へと、各地に燎原(火を付けて野原を焼くこと)の炎の如く広がった“小栗満重”を初めとする“京都扶持衆”に拠る叛乱の背後に室町幕府が関与していた事を裏付けている。

1423年(応永30年)8月2日・・“小栗満重”の自刃

“小栗満重の乱“の背後に“室町幕府”の関与がある事を察知した鎌倉公方・足利持氏は、こうした反乱が連鎖し、拡大して行く事を懸念して翌1423年になると自ら大軍を率いて制圧に当たった。この為、反乱軍は忽ちの中に崩壊し“小栗城”が陥落し“小栗満重”は8月2日に自刃して果てる結果となった。

“真壁秀幹”も城を落とされた上に所領の大部分を奪われ、失意の中に翌年没した。“桃井宣義”も同様に滅ぼされている。

鎌倉公方・足利持氏に拠る徹底した“反鎌倉府勢力”の討伐は進み、1423年8月9日には“宇都宮持綱”も一族内から“鎌倉府親派”へ離反した“塩谷教綱”によって討ち取られたのである。この様に“室町幕府”と“鎌倉府”の対立、抗争は、関東の“反鎌倉府派”の武将達が幕府の代理戦争を行う形で拡大して行ったのである。

将軍足利義持はこうした状況下の1423年3月18日には、将軍職を嫡子・足利義量に譲り、更に4月25日には“等持院”で出家し、引き続き政治の実権を握り続けるという体制に変えている。この件については後述する。

C-6-(4)-③:出家後の“足利義持”の鎌倉公方“足利持氏”に対する不信感がピークに達した事を伝える“三宝院満済”の日記

現在、国立国会図書館(1411年~1422年迄の日記)と醍醐寺三宝院(1423年~1435年迄の日記)に所蔵されている“三宝院満済”の日記”満済准后日記“は1411年~1435年迄を詳細に記述した信憑性が高い史料である。

“満済准后(まんさいじゅごう・生:1378年・没:1435年)“については既述したが、母が足利義満の御台所・日野業子に仕えていた縁で足利義満の猶子と成り、醍醐寺第74代座主、そして大僧都となった人物である。3代将軍足利義満・4代将軍足利義持・6代将軍足利義教に仕え、その信任が厚く、1408年に護持僧(天皇や将軍の護持の為に勤行する僧)に起用された他、幕政にも深く関与し“黒衣の宰相”の異名をとっている。

その”満済准后日記“に出家後の”足利義持“と鎌倉公方”足利持氏“の対立が決定的に成って行った様子が記されている。

1423年(応永30年)6月5日条:

この日の記録には“鎌倉公方・足利持氏は常陸の小栗満重を討伐する為に、武蔵辺まで発向するであろう”と書いているが、実際に上述した様に“足利持氏”は小栗満重を8月2日に自刃させている。

又、出家後の足利義持が鎌倉公方が“反鎌倉府勢力”に対して執拗な制裁を加えている事に対し“その後の関東の振る舞い重ね重ね不義である“と、鎌倉公方“足利持氏”に対する不信感がピークに達していた様子を記述している。

同年7月5日条:

満済が足利義持の御所に呼び出され、その命で幕府管領“畠山満家”邸で諸大名を招集し“足利義持”の“仰せ”の趣旨を諸大名に伝え、それに対する諸大名の意見を求めた事が記されている。出席メンバーは細川満元、斯波義敦(よしあつ)、山名常熈(つねひろ)、赤松満佑(みつすけ)、一色義範、今川範政等であった。

足利義持は出家後ではあったが、この様に幕府の主要メンバーに拠る評定を開かせる等、政治の実権を握り続けていた事が分かる。又、この時点で室町幕府が鎌倉府に拠る征圧行動、並びに、それに抗して幕府の代理戦争を行っている東国の状況を非常に重大視していた事も日記の記述から知る事が出来る。

この評定で“関東の京方の者共に御教書を下して扶持すべき“との意見で一致した。つまり”京都扶持衆“を対鎌倉府対策に動員する事で意見が一致したと言う事である。”満済“は結果を足利義持に報告し、宇都宮氏、並びに結城光秀に御内書が発せられ、7月10日に”結城光秀“の下野国守護補任が命ぜられた。

更に、評定の決定に基づいて幕府管領“畠山満家”は鎌倉公方の管轄国に接している諸国の武将達に“京都扶持衆”を支援する様、御教書、御内書を下した事が記されている。

室町幕府が鎌倉府と全面対決する体制を整えたのである。

C-7:鎌倉府と室町幕府が和睦する

C-7-(1):鎌倉公方・足利持氏に対する“追討令”

1423年(応永30年)8月:

足利義持は、鎌倉公方“足利持氏”自らが“小栗満重の乱”はじめ関東で、征圧行動に乗り出した事に対して“関東から親幕府勢力の一掃を計った私戦だ”と激怒し、鎌倉府管轄の国々の周辺国の駿河・信濃・越後・奥羽の諸将に“鎌倉府の牽制”を強める様命じ、加えて武蔵・上野の“国人一揆“を味方に付けた。

その上、足利義持は、幕府管領“畠山満家”並びに“斯波義敦”前幕府管領の“細川満元”更には“山名時熙・赤松満祐・今川範政・一色義貫(義範)等を招集し”鎌倉公方・足利持氏討伐令”を出すべきかを評定に掛けた。

結論として“討伐令”が出される事に決まり、今川範政(駿府守護)、小笠原政康(信濃守護)、武蔵の国人、更には鎌倉府体制からの離脱を志向していた“篠川公方”の足利満直、奥州探題・大崎氏にも出陣が命ぜられたとある。

“満済准后日記”には“鎌倉公方・足利持氏が完全に追い詰められた”と記されている。

C-7-(2):曖昧な部分を残した形で鎌倉府との和睦を承諾した“足利義持”

1424年(応永31年)2月3日:

足利義持(室町幕府)の強固な対決姿勢に追い詰められ、流石に強気な鎌倉公方・足利持氏も“和睦を懇請する起請文”を幕府に送った。“満済准后”のこの日付けの記録には“起請文は足利義持の意向を汲んだものでは無かったが、幕府管領・畠山満家と細川満元を召して和睦を受け容れる意向を内々に仰せ出された”とある。

足利義持の政治は“衆議を尊重”する政治であったと記述したが、この鎌倉公方・足利持氏との抗争の“和睦交渉”にもその政治スタイルが特徴的に現われた。結果として曖昧さを残した“和睦”となった為、鎌倉公方・足利持氏と室町幕府との抗争の種は足利義持の没後もくすぶり続けるのである。

C-7-(2)-①:今回の抗争の焦点であった“常陸国”並びに“甲斐国”守護問題でも鎌倉公方“足利持氏”の主張が勝った和睦後の姿

=常陸国守護について=

1425年(応永32年)閏6月11日条:

“満済准后日記“には鎌倉公方”足利持氏“の申し入れは”常陸国には佐竹美憲と佐竹(山入)佑義の二人の守護が存在している。佐竹(山入)佑義は関東に対して礼をわきまえない事が多く不満であるが、幕府が任命した上は、常陸国を半分に分けて夫々を半国守護となして両・佐竹が和睦し、鎌倉府に出仕させたい”との提案、申し入れをした事が書かれている。

そして同年の7月5日条に、この提案を呑む形で幕府から“鎌倉府が佐竹佑義(山入)討伐の為に常陸に派遣していた里見氏を召し返す事”を条件付け、両“佐竹”の和睦を諮った事が記されている。

=甲斐国守護について=

1425年(応永32年)8月24日条:

鎌倉公方“足利持氏”から“甲斐国守護の竹田入道(武田信重)は在京して幕府に奉行している。すぐさま甲斐国に在国する様にして、一族の誰か人を在鎌倉とする様、幕府から仰せ付けて欲しい”との申し入れをしている。

満済と幕府管領・畠山満家が相談し、この件についても鎌倉府の提案を呑む形で処置しようと“武田信重”を呼んで伝えたが、彼は甲斐国人の“逸見”や“穴山”の勢威を恐れて甲斐入国を拒否した事が書かれている。足利義持は管領畠山満家を通じて“武田信重”に下国を命じ続けた記事が12月3日の条まで見られる事から、この問題がこじれ、協議が続いた事が分かる。

結局“武田信重”は甲斐国への下向を拒み通した為、幕府は彼を“配流”するという処分を取らざるを得なかったのである。

C-7-(2)-②:鎌倉府に関する和睦協議は結果的に足利義持の“衆議(評定)尊重”の政治スタイルに拠って妥協の連続と成る


鎌倉府の東国問題を巡っての幕府との抗争に屈し、和睦を申し入れた側の鎌倉公方“足利持氏”であったが、和睦交渉で妥協させられたのは幕府側であった。

今回の衆議尊重の足利義持の政治は、対決し、和睦を要請した側の鎌倉公方の意向を充分に取り入れた形の評定会議となったのである。“鎌倉府”という強大な権力と対峙した“足利義持”の処断は幕府トップとしての“求心力”を発揮したものでは無かった。

父・足利義満時代の様な幕府トップとしての“求心力”を持たない“足利義持政治期”の幕府にとって“鎌倉公方・足利持氏”に対抗する為には、幕府として一致し、一枚岩と成っている姿を見せる事が不可欠であり、その結果が上記妥協連続の政治決着となったのである。

幕府トップとしての“足利義持”の政治には“遠心力”が次第に大きく成りつつあった事を示している。

D:足利義持の晩年

D-1:将軍職を譲り、出家をする

1423年(応永30年)3月18日

既述した様に、足利義持は鎌倉公方“足利持氏”との抗争が本格化して行く状況下で、未だ16歳の嫡子足利義量(あしかがよしかず・母・日野栄子・生:1407年・没:1425年)に将軍職を譲っている。足利義持37歳の時であった。

3月22日~27日の間に石清水八幡宮・北野社等に参詣し、伊勢神宮への参宮を終え、4月2日に伊勢から帰還すると、そのまま参院して、後小松上皇に室町幕府第5代将軍・足利義量に対する将軍宣下の礼を述べている。

同年4月25日:

続けて足利義持が4月25日の夕方に北野社に参詣した後”等持院“で出家した事が”満済准后日記“に書かれている。剃手は等持院の院主”恵珙西堂(けいこうさいどう)“で、釈迦三尊の絵像や夢窓礎石、絶海中津等の御影(肖像画)の前で出家したとある。

この日に出家する事は秘密とされ、護持僧の“満済”ですら知らなかったのである。後小松上皇や称光天皇(第101代天皇・在位1412年~1428年・生:1401年・崩御:1428年)が反対する事を避ける為、隠密に行ったとされ、法号“道詮(どうせん)”を名乗った。

出家の理由については、足利義持は3年前の1420年8月に諸方に平癒を祈祷させる程の病になり、10月に平癒した。この事から、健康問題をその理由とする説もあるが、自分も父・足利義満から少年の時に将軍職を譲られた事に倣って出家する事で俗世を離れ、自由の身と成り、父・足利義満の様に自由奔放な政治を目指したという説もある。彼の出家後の政治姿勢からすると、後者が出家の理由としては当たっていると思われる。

又、足利義持は信仰心が非常に強かった人物であった事から、禅の奥義を極めようとした事も“出家”の理由の一つとされる。

D-1-(1):出家後の政治姿勢と“足利義量”との親子関係

“足利義持”は出家後も幕政の実権を握り、有力守護との合議政治を続け、その政治姿勢に変わりは無かった。又、守護大名、近臣、公家邸への渡御(とぎょ=天皇・三后・将軍がお出ましになること)も変わらず繰り返され、父・足利義満の強大な求心力に比べて劣る政治力をカバーしていた。

一方で、男子に恵まれなかった事から、病弱だった嫡子“足利義量”を大切にし、溺愛した事が、参詣・参籠(神社・寺院などに一定期間籠って祈願する事)・遊覧等に、しばしば彼を伴なった記録からも裏付けられている。

1420年には“応永の外寇”後の李氏朝鮮との関係修復も成り、外交関係も一応の安定状態にあった。又、国内の政治も、長年に亘って緊張関係が続いていた“鎌倉公方・足利持氏”との抗争に1424年(応永31年)の秋には一応の和睦が成立していた。

足利義持の政治期の中で、最も安穏・平穏な時期を迎えていたのである。

D-2:足利義持が抱えた2つの心配事

安穏・平穏な出家後の足利義持ではあったが、2つの心配事を抱えていた。

その第一が“朝廷”の状態であった。後小松天皇の譲位を受けて、第101代“称光天皇”(在位1412年~1428年・生:1401年・崩御:1428年)が誕生していたが、病弱で、継嗣を儲けていなかった事に加えて”奇行問題“があった。院政を開始していた父・後小松上皇からは頻繁に相談を持ち込まれていたのである。

そして第二の心配事は“足利義量”が疱瘡を患う等、生来の病弱体質にも拘わらず、父の足利義持の酒好きが遺伝したのであろうか、大酒飲みという問題であった。父として足利義持から将軍足利義量の近臣達に“大飲酒を止むべきの由”という起請文を認めさせる程であった。足利将軍家の只一人の家督継承者“足利義量”であった丈に足利義持が抱えた大きな心配の種だったのである。

以上2つの心配事を抱えながら、将軍職を譲り、出家した“足利義持”は晩年の5年間を過ごす事に成る。

D-2-(1):称光天皇の重態と足利義持の皇位継承問題への憂慮

“看聞日記”には称光天皇が太刀・刀・弓の扱いを好み、拘泥した事、又、金の鞭で近臣や官女を打ち据えるという問題を起こした事が記されている(1416年・応永23年6月19日条)。

又、1418年(応永25年)7月14日~7月19日の条には、称光天皇の近くに仕えていた内侍が妊娠したが、称光天皇は自分の子供ではない、崇光院流の伏見宮貞成親王(生:1372年・没:1456年)の子だと騒ぎまわり、これが後小松上皇、並びに、足利義持の知る処となり、結果として事実無根として処理された事が記されている。

こうした奇行の記録の他に1422年以降の公家の日記には“禁裏御不予(天皇が病気)”の記述が多くなる。1422年(応永29年)㋃の半ばから称光天皇の病状が悪化し、後小松上皇が足利義持に天皇重病の件を伝えた記述や、6月7日には伝奏の“広橋兼宣(ひろはしかねのぶ)”が内裏、仙洞(上皇の御所)、室町殿を3回も往き来した記述が見られる。

称光天皇の崩御は1428年であるが、こうした病状が繰り返された為、後小松上皇が打った悪手が足利義持を更に悩ませる事になる。

D-2-(1)ー①:後小松上皇が“小川宮“を東宮(皇太子)に立てる

1422年(応永29年)8月:

称光天皇の病状に鑑み、後小松上皇は足利義持と話し合った結果、称光天皇の異母弟“小川宮(母:日野西資子・生:1404年・没:1425年)”を東宮(皇太子)に立てた。ところがこの“小川宮”も“称光天皇”同様、性格に難がある上に、気性が荒かったのである。

未だ自分に子供(男子)が出来る可能性があると考える“称光天皇”がこの動きに不満を持ち、天皇と東宮(小川宮)の間の争いが絶えないという状況に加えて“称光天皇”と“後小松上皇”との関係悪化が進んだ。悩んだ“後小松上皇”は、1422年11月22日に、出家すると言い出す騒動に発展し、足利義持が懸命に制した事が記録されている。

D-2-(1)ー②:“小川宮“の急死

1425年(応永32年)2月16日:

後小松上皇が出家をするとの騒ぎが収まらない状況下、普段健康には全く問題の無かった“小川宮”が21歳の若さで頓死(急にあっけなく死ぬこと)した。真相は不明であるが“毒殺”の噂も立った。後小松上皇としては“称光天皇”と“小川宮”の不仲という頭痛が無くなった為か、出家騒動もいつの間にか吹き飛んだのである。

D-2-(2):室町幕府第5代将軍・足利義量の急死と次の将軍を決めなかった足利義持

1425年(応永32年)2月27日:室町幕府第5代将軍“足利義量”の急死

将軍足利義量は病弱だった上に、大酒飲みだった事が身体を蝕み、1423年頃から病に臥せる事が多く成り、様々な治療や祈祷がなされた。足利義持にとっては、1424年秋に鎌倉公方・足利持氏と一応の和睦も成り“安心・安堵”の状況が訪れた矢先に、抱えていた心配事が現実のものとなって了ったのである。将軍足利義量は未だ18歳の若さで急死した。上記した“小川宮”頓死の僅か10日後の事であった。

D-2-(2)ー①:将軍空位が丸4年間に亘って続く

周囲は他に将軍を継ぐ実子のいない足利義持が次期将軍をどうするかに注目していた。しかし、天下の人々の期待を裏切り、足利義持は次の将軍を決めずに“空位”のまゝとし、自らは出家の状態のまゝ、従来通り政治を執り続けたのである。将軍空位の状態は1429年3月に室町幕府第6代将軍・足利義教が征夷大将軍に任じられる迄の丸4年間に亘って続く事になる。

D-2-(3):将軍“足利義量”没後に起った“称光天皇退位騒動”が足利義持を悩ます

1425年(応永32年)6月28日:

“小川宮“急死後も“称光天皇”の奇行は治まる事は無かった。“称光天皇”が琵琶法師を内裏に招いて“平家物語”を聞こうとした事に“後小松上皇”が反対した事に腹を立て、退位するとの書面を上皇に送り付け、深夜に内裏を出奔するという大騒ぎに発展した。

この事態に“後小松上皇”から、親子喧嘩の相談を受け、足利義持が仲裁に入った事が“薩戒記(後小松院から重用された公卿、中山定親の日記。1418年~1443年までの記載がある。満済准后日記、建内記、看聞日記と並ぶ室町時代中期の重要史料である)”に書かれている。

以下がその文面である。

禅門(足利義持)参内し子細を尋ね申さる。主上(称光天皇)仰せらるるの旨等有り、入道(足利義持)殿即参院し、その旨を奏せらる。院(後小松上皇)より御書を内(天皇)にまいらさる。入道殿これを持参せしめたまう。すなわち(天皇)の勅答あり、入道殿また院に持ち参らる。此のごとき間出御の儀なしと云々

要するに“足利義持”が“天皇”と“上皇”の間を行き来して、両者の和睦をはかった事を伝える記述である。メッセンジャー役を演じた訳であり、この様子からも、足利義持の朝廷に対する姿勢が、父・足利義満とは異なり、王権を掌握する意思など、全く持たなかった事を裏付ける史料である。

D-2-(4):“後小松上皇”と“称光天皇”の父子確執は“足利義持”の死後も続く

今回の親子喧嘩は、最終的に後小松上皇が“諸事を叡慮(天皇の意向)に任せる。しかし、自分も院政を続ける”との言辞(言葉)を“称光天皇”に与えた事で落着したとある。

“称光天皇”と父“後小松上皇”との確執は、後小松上皇が頼りにし、事ある毎に相談を持ち掛けた“足利義持”が1428年1月に急死し、更に7カ月後の1428年(正長元年)8月30日に“称光天皇”が29歳で崩御する迄続くのである。

足利義持が抱えた皇位継承に関する心配事は、足利義持が没して8カ月後の1428年9月に“後花園天皇”が第102代天皇に就く事で解決するが、これに就いては次項で記述する。

E:最晩年の“赤松持貞”事件に見る足利義持の“専断政治”

鎌倉府・東国・奥羽問題には幕府重臣との“衆議政治”を重視した足利義持だが、その反面、側近に対しては“専断政治”を行った。それを裏付ける“赤松持貞”事件が足利義持の死の直前に起こった。

“衆議重視政治”の下に表面上は平穏な状況が続いていた足利義持の政治期には、父・足利義満専断政治の反動とも言える“疑心暗鬼状態”が有力守護大名との間に芽生えて居り、陰に隠れた不安定さが拡大していた。一応の和睦状態にはあるものの、鎌倉府・鎌倉公方との確執、更には将軍・足利義量急死に拠る将軍継嗣問題、そして“皇位継承問題”等の 政治課題を抱えるという状況だった。

足利義持の政治が近臣には“専断”的であった事は異母弟“足利義嗣”に対する処断のケース、そして“富樫満成”処断のケースで記述した。室町幕府トップとして、全体掌握力、統治力という面では父・足利義満政治に比べ、遥かに劣った足利義持が“専断政治”に拠る大きなミスを犯したのが彼の死の直前に起きた“播磨国領有”を巡る事件である。

E-1:“赤松義則”の死と“赤松満佑”への家督相続に関して下した処置

赤松義則(生:1358年・没:1427年9月21日)は、播磨・備前・美作国を領有し“四職家”の一つとして幕政に参与し、足利義持も4度も赤松邸に渡御するという重鎮であった。身体が極端に小さく、出家後は“三尺入道”と称された人物である。その彼が69歳で没し、嫡男・赤松満佑(生:1381年・没:1441年9月⒑日)が46歳で家督を継いだ。(彼も父親同様、120cmの低身長症だったと伝わる。)

E-1-(1):播磨国を幕府直轄地(料国)に変更し“赤松満佑”から召し上げ、近臣で、赤松氏庶流の“赤松持貞”に預け置くという“専断政治”を行った“足利義持”

1427年10月26日:

父・“赤松義則“没後の35日法要の席に”幕府直轄地とする為、召し上げる“との報が赤松満祐に届いた。その領地を赤松氏の庶流出身で“足利義持”の近習として仕えた”赤松持貞“(生年不詳・没:1427年11月13日)に預け置くという事である。

この足利義持の処断に対して“赤松満佑”は再三、撤回の願いを申し入れたが、聞き入れられず、腹を立てた“赤松満佑”は家の財産を家臣に全て与え、邸宅に火を放って領国播磨へ下向した。

この処置は斯波一族から“加賀国”を没収して近習の“富樫満成”に与えたケースと全く同じパターンであり、足利義持の近習に対する政治が“幕府重臣・有力諸大名”との間に行なった“衆議重視”の政治とは真逆で“足利義嗣“を近習の”富樫満成“に密かに命じて殺害した時と同様、幕府重臣達に一切相談無しの”専断政治”の典型例であった。

E-2:“赤松満佑討伐”の命が下る。しかし“赤松持貞”の悪事露見で状況が逆転する

領国に下った“赤松満佑”に足利義持は立腹し、赤松満佑の残る領国二国の中、備前国を“赤松満弘“に、美作国を”赤松満貞“の子の”赤松貞村“(生:1393年・没:1447年?)に与えた上に、赤松満佑の討伐を山名氏と一色氏に命じたのである。この動きも“足利義持専断”で行い、幕府重臣・諸守護大名達には一切相談する事は無かったとされる。

1427年(応永34年)11月11日~13日:悪事が露見したとして罪を課せられ“赤松持貞”が自害に追い込まれる

“赤松満佑“討伐命令に対して”山名氏“は嘗ての領国を取り返すチャンスとして闘志満々で発向したとされるが“一色氏”は躊躇したと伝わる。この史実からも足利義持の政治力には求心力の弱さが見え、幕府管領・重臣・そして守護大名との間に疑心暗鬼、齟齬が多く存在していた事が透けて見える。

こうした状況下で“足利義持”の“近臣優遇政治”への叛旗とされる“反・赤松持貞派”が工作したとされる“赤松持貞悪事露見”事件が起きる。“満済准后日記“には、高橋殿(足利義満の愛妾の一人)から”赤松持貞が足利義持の妻女と密通した“との直訴があった事を伝えている。足利義持がこれに激怒し、赤松持貞は起請文を掲げて申し開きをしたが、聞き入れなかったとしている。

満済自身も“赤松持貞”の助命策に動いたが、結果的に1427年(応永34年)11月13日に内の者10人程と共に自害に追い込まれたのである。

E-3:その後の“赤松満佑”

“赤松満佑”は上述した“赤松持貞悪事露見”事件勃発のお蔭で討伐を免れ、1427年(応永34年)11月25日に許しを乞う起請文を足利義持に届け、幕府管領・畠山満家のとりなしもあり、宥免(ゆうめん=罪を大目に見て許す)された。

その後の“赤松満佑”は“足利義持”没後には、室町幕府第6代将軍“足利義教”の“侍所頭人”に任じられる等、良好な関係が伝えられるが、次第に対立色を強め、1441年(嘉吉元年)6月24日に“将軍足利義教暗殺事件”を起こすのである(嘉吉の乱)。

F:足利義持の急死と籤(くじ)引きによる後継将軍の決定

F-1:足利義持の子女

足利義持は1423年3月に嫡子の足利義量に将軍職を譲り、自らは同年㋃25日に等持院で秘かに出家した事は述べた。足利義量は満16歳、足利義持は未だ37歳の若さであった。ところが、後事を託した筈の“足利義量”は将軍就任僅か2年後の1425年に18歳の若さで急死した。

足利義持の正室は“日野栄子(生:1390年・没:1431年9月3日)”であり、彼女の姉“日野康子”が父・足利義満の正室であった。足利義持と“日野栄子”の夫婦仲は良く、奈良や伊勢参詣に同伴した記録が残っている。

“兼宣公記(公卿広橋兼宣・生:1366年・没:1429年、の日記・1384年~1428年迄を記録)”や“満済准后日記”並びに“建内記(公卿万里小路時房の日記・生:1394年・没:1457年)”等に足利義持の子女に関する記述がある。それ等から、足利義持には男子3人、女子5~6人の子供が居たと考えられ、男子は“足利義量”以外は幼少時に死去していたものと考えられる。

F-2:“足利義持”が自らの男子誕生を神仏に願い、信じ、神慮に委ねた事を裏付ける2つの話

足利義持が神仏に自らの男子誕生を祈り、信じていた事を裏付ける話が2つ伝えられている。その一つが、足利義量没後に足利義持が八幡宮の神前で“自らの後継男子が誕生するか”を占い、籤をひいたところ“男子誕生の神慮”を得たという話である。同日の夜には“男子誕生の夢”を見たとされ、こうした事から信心深い足利義持は“自らの男子誕生の神慮”を固く信じた為“後継将軍”を決めなかったとされる。

裏付け話の第二は、足利義持が足利義量が没した1年後の1426年(応永33年)に“粉河寺”に戸帳(神仏の厨子等の上に垂れる小さな帳)を奉納し、願文を掲げた話である。

これは足利尊氏誕生の際に、母の上杉清子(生:1270年?・没:1343年)が男子誕生を願って同じ“粉河寺”に戸帳を奉納した吉例にあやかろうとしたものだとされる。

信心深い足利義持だけに、こうした経緯から彼が“神慮は自分の男子誕生に拠って後継将軍としている”と固く信じたとしても不思議は無い。死を直前にした“足利義持”に宿老、諸大名が他の候補者から後継将軍を決める様迫っても、応え様としなかった確固たる信念がそこにはあったのである。

後述するが、死を悟った足利義持は、兄弟の中から後継者を選ぶという宿老、諸大名の意見を渋々受け容れる。しかし、その決定を自分が下す事を固く拒絶した。神前で籤を引く事は許すが、自分が閉眼する迄はそれを開ける事を禁じる事で、飽くまでも決定を神慮に委ねたのである。

F-3:粉河寺訪問記・・2018年8月21日

大阪駅から環状線で“新今宮駅”迄行き、そこで南海電車“高野線”に乗り換え、橋本駅でJR和歌山線に乗り換え“粉河駅”で降りた。此処までで約2時間程掛かったであろうか。粉河駅からはほゞ真っ直ぐに歩き15分程で“粉河寺”に着いた。

この寺の開創は770年(宝亀元年)とある。この年は、第48代称徳天皇(女性天皇・在位764年~770年・生:718年・崩御:770年)が崩御し“僧道鏡”が下野(栃木県)に配流された年であるから相当に古い。清少納言(生:966年?・没1025年?)の“枕草子”や西行(生:1118年・没:1190年)の“山家集”にも言及があり、平安時代中期(10世紀)には観音霊場として著名な寺であった。

鎌倉時代には七堂伽藍550ケ坊、東西南北共4km余りの広大な境内地を有していたが、広大な荘園と大勢の僧兵を擁した事で1585年(天正13年)㋂23日~24日の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に拠る根来衆との戦い(紀州征伐)で全山を焼かれ“粉河寺縁起絵巻“をはじめ、史料の殆んどを焼失したと同寺の僧の説明があった。従って今日の粉河寺の建物は、三間楼門(重要文化財)が1706年(宝永3年)の再建、そして、本堂(重要文化財)も1720年(享保5年)の再建である。

今日、寺が一般配布用に用意している“粉河寺由緒書”には、上記した足利家との歴史が一切書かれていていない。僧侶にその事を質問すると、暫く奥に入り、史料を片手に戻り、粉河寺と足利家の密接な関係を裏付ける記述箇所を示しながら、丁寧に説明をして頂いた。
焼失した記録については、今日“粉河町公民館編史料”として整備され、閲覧出来るとの事であった。

足利尊氏の母親・上杉清子は確かに1335年に粉河寺を訪れ、願文を掲げた事も僧侶が携えた史料に記述されていた。彼女が男子誕生を願い、そして又、粉河観音への信仰から、何度も粉河寺を訪れた事も確認出来た。因みに足利尊氏は1305年生まれであり、同母弟の足利直義は1306年生まれであるから、上記1335年の訪問記録は“上杉清子”並びに“足利家と粉河寺”の強い信仰関係の結びつきを裏付けるものである。

“足利義持”が1426年8月17日に粉河寺を訪れ、戸帳を奉納し、願文を掲げた記録も僧侶の史料で確認出来た。将軍“足利義量”の急死から1年半後に訪れた記録である。この事から足利義持は将軍“足利義量”急死後も“自らの男子誕生”を神仏に願い、信じ、神慮に委ねた事が史実である事の裏付けが取れた有意義な訪問であった。

開創770年の粉河寺は羽柴秀吉の紀州征伐(1585年)で殆ど焼失。紀州徳川家の保護で1720年に再建された本堂(重要文化財)。西国三十三ケ所の中で最大とされる欅(けやき)材の建造物である。本尊は千手千眼観世音菩薩である。


F-4:足利義持の発病

足利義持の発病は“満済准后日記”に詳しく記されている。1428年(応永35年)が明け、静かな正月を迎えた。足利義持は元旦に例年通り“三条八幡”に参詣し、2日には幕府管領“畠山満家(生:1372年・没:1433年)“邸に渡御し、正月6日には”鹿苑院(相国寺にあった塔頭で足利義満の禅の道場・現在、同志社大学今出川キャンパスの一部)“に詣でている。

そうした後に足利義持は突然発病する。その様子について以下の様に記されている。

室町殿御座下御雑熱出来ると云々、今日御風爐(風呂)においてカキヤフラル、間、御傷これありと云々、ただし殊なる事あらずと云々

足利義持は風呂で尻に出来た出来物を掻き破ったことにより、発熱したと記しているのである。

正月8日〜9日に護持僧6人が室町殿に参賀して加持祈祷を行い、医師“三位房允能”から満済に“風邪の雑熱”であり“尻の傷も盛り上がって来た”が両方とも大した事は無いとの事であった為“満済”は安心し切っていた様子が記されている。

ところが1月10日になっても状態は悪化する一方で“建内記”には尻の傷は馬蹄形に盛り上がり、足利義持は座る事も出来ず、11日は幕府にとって重要な“評定始”の儀式の日であったが、近臣に手を引かれて出席する程に悪化した様子が書かれている。“師郷記(もろさとき=貴族・中原師郷の1420年~1458年に及ぶ日記)”には“片時(ほんの少しの時間)だけ評定始には出席した”とある。

F-5:重篤となった“足利義持”

1428年1月12日~1月16日

“建内記”には、尻の傷はますます腫れ上がり、足利義持は座る事も出来ず、寝たままとなり、傷は腐って来たと記している。そして1月16日には重体に陥った。“満済“を呼び寄せ“思い定めるに43歳で死去しても思い残す事は無い。しかし、お祈りはよろしいように御祈り方に申し付けて欲しい”と述べたと記されている。足利義持はこの段階で観念したという事である。

F-6:自らは後継者を指名しなかった“足利義持”

1428年1月17日:

足利義持の病状はかなり危険な状態になった。幕府管領・畠山満家はじめ、斯波義淳、細川持元、山名時熈、畠山満慶等の宿老と近習が満済の壇所に集合して家督相続を誰にするかについて談合する程の事態と成った。

“満済”が足利義持の寝所に赴き、近臣を退室させて後継者について尋ねると“例え御実子御座あるといえども、仰せ定めるべからざる御心中なり、いわんやその儀無し、ただともかくも面々相計らいしかるべき様定め置くべし”と伝えたと記している。家督相続者を足利義持自身で決める意思は無い、宿老達に任せるという事であった。

F-6-(1):何故、足利義持は将軍後継者を自ら決めない意向だったのか

この事についてはF-2で記述したが、嫡子で将軍だった“足利義量”が急死した後に、信心深い“足利義持”が石清水八幡で占ったところ、その結果が“自ら(足利義持)の男子誕生がある”と出た。この事が“神慮”であると信じ、以後“粉河観音”に願掛けをする等、ひたすら“自らの男子誕生に拠って将軍後継者を決める”事こそが“神慮”に従う事であると信じ、それに忠実であろうとしたのである。

病状が悪化し、既に死の淵にあり、自らの男子誕生はあり得ない事態と成ったが、それでも将軍後継者は既に“神慮”に委ねた事であり、自ら決定するという事を拒んだのである。

F-7:足利義持の弟達四人の中から後継将軍を決める事を宿老達は迫ったが、拒み続けた“足利義持”

宿老達が出した四人の後継将軍候補者は以下の四人であった。“建内記”に拠れば、この他二人の兄弟が居たが“法尊”という兄弟は既に没して居り、残る一人の“香厳院主尊満(きょういんげんそんまん)“は、彼の実母の血統に疑問があった為、除かれたとされる。

①:青蓮院准后(義円前大僧正・天台座主)
②:大覚寺大僧正(義昭、東寺長者)
③:相国寺僧隆蔵主(永隆)
④:梶井僧正(義承)

足利義持は最後の最期まで、自分が将軍後継者を指名し、決定する事を拒んだのである。上記した“神慮に委ねた事に忠実”であろうとした理由からであるが“建内記”には足利義持が“弟達はその器に無い事、又、例え指名しても諸大名が支持しなければ幕政は上手く行かない”と伝えたと記されている。

Fー8:“籤引き“で後継将軍を決めるという宿老の案をしぶしぶ了承した”足利義持“が出した最後の条件

“後継将軍を自分で決定する事はしない。任せる”と投げられた宿老達は当惑した。“建内記”には、諸大名達が“足利義持の兄弟四人の中から指名し、籤引きで決めてはどうか”と提案したとある。満済が足利義持に取り次いだところ、足利義持自らが“八幡神前で籤を引き神慮に任せよ”と伝えた事が記録されている。

F-8-(1):“自分が存命中は開けるな”と条件を付けた“足利義持”

あくまでも、後継将軍決定に関して“神慮に委ねた事に忠実”であろうとした“足利義持”の信心深さは死の淵にあっても変わらなかった。そして宿老達に告げたのは“自分が存命中は籤引きの結果を開けるな“であった。

F-9:足利義持存命中に“籤引き“だけを神前で行ない、開封を没後にした宿老達

“籤(くじ)“は満済が作り、続飯(そくい=飯粒をへら状のもので押しつぶし、練って作った糊)で堅く封をして、その上に“山名右衛門佐”が花押を書いた。満済、山名、畠山の宿老によって後継者決定の籤引きが神前で行われたのである。

籤を引いた場所は“後小松上皇”の側近であった“公卿・万里小路時房(生:1395年・没:1457年)”が1414年~1455年迄を記録した日記“建内記”の1428年(応永35年)正月18日条の記述に“筥(はこ)に入れ畠山入道、時に(幕府)管領なり、石清水八幡宮に持参す“とある事から“石清水八幡宮”説が優勢である。

しかし、籤引きをする為に幕府管領“畠山満家”が“八幡宮”に出発したとされる午後6時頃には既に足利義持は危篤状態に陥って居り、翌1月18日の午前10時頃に没した。(満済准后日記1月18日条)。こうした状況を勘案すると“石清水八幡宮”は距離的に遠過ぎるとして、籤引きは”六条八幡“又は”三条八幡“で行われたとする説もある。

F-9-(1):籤が開封され、結果は”青蓮院准后(義円前大僧正・天台座主)“であった

足利義持が死去した事を“満済准后記”の1月18日条には“今日巳半刻ばかりか御事切れおわんぬ 御年43なり“と午前10時頃に死去した事を伝えている。

足利義持が没した事に拠り、いよいよ籤が開封された。

(幕府)管領以下、諸大名各々一所に参会して昨日神前において取る所の御鬮(くじ)なり。諸人珍重の由一同にこれを申す


幕府管領以下の諸大名が集まり、籤を開き、結果は“ 青蓮院准后(義円前大僧正・天台座主)“であった事を記述している。

F-10:“義円”が家督相続を了承・室町幕府第6代将軍“足利義教”が誕生する

1428年(応永35年)1月19日:

諸大名が“青蓮院義円”のもとに参り、籤の結果を告げたところ“義円”は辞退したが、面々が強く要請した為、足利家の家督相続を了承した。“後小松上皇”並びに“称光天皇”共に“日野資教”を勅使としてこれを賀したとある。室町幕府第6代将軍の誕生である。

同年1月23日:

足利義持の遺体は“等持院“で荼毘に付されたと書かれている。

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