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2019年3月12日火曜日

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一
第15項:“籤引き将軍”(第六代足利義教)の恐怖政治が齎した顛末(暗殺)と幕府権威の失墜

1428年(応永35年)正月18日、室町幕府第4代将軍・足利義持急死の後を受けて“室町殿”後継者と成ったのは足利義持の弟“義円(還俗して足利義宣、将軍宣下を受けて足利義教に改名)である。足利義持が死に臨んでも継嗣を決めず、遂に重臣達が計らって、義持の弟四人(いずれも僧籍)の中から神前に於ける”籤引き“で”義円“に決まった。

この“義円”嗣立の時点から、ほゞ彼自身の政治体制が出来上がったとされる1431年(永享3年)迄の約3年間は、室町幕府を巡る政治環境が極めて不安定な時期であった。こうした状況は第3代将軍・足利義満期に自己主張する事を抑えつけられていた諸勢力が、第4代将軍・足利義持期を経て、直接、間接に幕府政治に対して発言力を回復させて来ていた事とも関係したのである。

“日本中世史論集”の著者“佐藤進一”氏は、この時期は、足利義持、足利義教の二代に亘って将軍の政治顧問として幕府政治の枢機に参与した醍醐寺三宝院満済の①“満済准后日記”そして、伝奏として幕府・朝廷間の周旋に任じ、幕府・朝廷両首脳部の政治的言動を克明に筆録した万里小路時房の②“建内記”更には、終始、傍観者の立場に身を置いて政界・宗教界のニュースはもとより、社会的大事件から市井の小事件まで、見聞のまにまに筆録した、驚くべき好奇心の持ち主、伏見宮貞成親王の③“看聞日記”があり、史料的に極めて恵まれていると述べている。

1:“籤引き”と日本社会・・日本の特異性

今谷明氏はその著“籤引将軍足利義教”の冒頭で1989年2月に行われた第24代東大学長が有馬朗人氏と本間長世との間の籤引きで決まった事、そして、プロ野球の新人任用にも“籤引き制度(ドラフト会議)”が用いられている事、更には、秋田県仙北郡の漁村で共同漁業を行う際の漁場の決定や入漁の順番を“籤引き”で決定していた事も例示して、日本社会に於ける“籤引き活用”を“日本の特異性”としている。

以上の様に過去、そして今日に至るまで、様々の局面に於いて“籤引き”が活用されている事は日本文化の問題、伝統の反映であり“日本の特異性”として注目すべき事であると論じている。

2:第4代将軍・足利義持が、後継将軍候補として挙がった四人の弟達に対し、2点に於いて“問題あり”と遺言(建内記)

前項で死の直前“足利義持”が諸大名が後継将軍候補として挙げた四人の弟達に対して以下の理由から拒否した事が“建内記”に書かれている。

①候補者達はいずれもその器では無い
②義持が指名しても諸大名が盛り立ててくれねば政治は混乱する(面々不用申者、不可有躰)

結果的に籤引きで選ばれた“義円(足利義宣・足利義教)”は足利義持が拒否した様に①も②の理由にも該当したと言えよう。第6代将軍と成った“足利義教”は狂気と伝えられる恐怖政治を行い“赤松満佑”によって暗殺される。そして以後、室町幕府将軍の権力も権威も日を追って凋落し“応仁の乱”を経て、15世紀末から16世紀末に及ぶ“戦国時代”へと突入する元凶と成った。

“建内記”を書いた“万里小路時房”(までのこうじときふさ・従一位内大臣・生:1395年・没:1457年)は後小松上皇の側近であると同時に武家伝奏を務め、第4代将軍・足利義持の家司(けいし=家政を掌る職員)でもあり、足利義持からの信任は厚く、度々政治的意見を求められる程の近い関係にあった。従って“三宝院満済”とは別の独自の情報網を持っていたと考えられ、上記記述の信憑性は高い。

2-(1):“候補者達はいずれもその器では無い“とした事に対する検証

候補に上った四人の兄弟達は全て僧籍に入って居り、当然の事乍ら、武家の棟梁としての資質は未知数であった。既述した様に第4代将軍・足利義持自身、死期がこんなに早く訪れるとは全く考えておらず、心の準備がなかった事は明らかである。

ましてや各寺院の高僧や門跡におさまっている兄弟達を自分の後継者として考えた事も無く、上記2点に関する指摘も、急病に陥った“足利義持”の精神状態から来た“感情的発言”と思われる。しかし乍ら、結果的に“義円(足利義宣・足利義教)”に対する資質への不安は当たったと言えよう。

2-(2):“面々不用申者、不可有正躰(面々用ゐ申さずんば正躰あるべからず)“との言葉が意味する当時の将軍権力と有力大名との関係

“足利義持(自分)が指名しても諸大名が盛り立ててくれなければ政治は混乱する”との言葉は、前項で記述した“足利義持”自身が将軍に就いた経緯から、その立場の弱さ、父・足利義満が握った絶対的将軍権力“求心力”への反作用として起きた“遠心力”に晒(さらさ)れた“足利義持政治期”の重臣、有力大名達との関係を端的に表した言葉として注目すべきである。四人の兄弟のいずれが将軍職に就いたとしても、足利義持が経験したと同様の、重臣、有力大名達との力関係に変わりが無く、これを危惧した言葉である。

3:諸大名が将軍候補を兄弟四人とし、一人に絞らなかった理由

臼井信義氏は、将軍後継候補となった足利義持の四人の兄弟について、諸大名夫々が推す者が居り、夫々異なっていた。それが“籤引き案”が諸大名から出された理由だとの見解を唱えている。

又“瀬田勝哉”氏は、社会史、思想史の観点から“大名間に色々な思惑があり、意見が一致していなかった”としている。更に“下剋上の時代“の著者・永原慶二氏は”背後に複雑な動きや対立があって、うっかり特定の人を推せば忽ち混乱が起こる危険があったからだ“としている。又、結果的に籤引きと成った裏には四人の候補者の中に“ダントツ”の有力候補が居なかったとする説もある。

4:“籤引き”の公平性を確保する為に分担された役割

①:名札の清書・・三宝院満済
②:継目封花押・・山名時熈
③:抽籤   ・・畠山満家


5:室町殿後継者に“義円”が決まった事を朝廷に連絡する事が遅れた事で、関係が悪化

“義円”が室町殿後継者に決まると“後小松上皇、並びに称光天皇は共に日野資教を勅使としてこれを賀した”と、朝廷側は直ぐに祝意を伝えた。

ところが、幕府側は対応が拙かったのである。“建内記(㋂条)”に“実は当時、幕府管領職にあった畠山満家(第10代及び第12代幕府管領・生:1372年・没:1433年)が故実を良く理解していなかった為、幕府管領職の自分が朝廷に直奏する事は恐れ多いと逡巡し、1428年1月末に“勧修寺経興(かじゅうじつねおき・生:1396年・没:1437年)が正式に武家伝奏に選任される迄、朝廷に“義円”の相続の伝達が成されなかった“と記されている。

従って朝廷側は幕府側からの正式な連絡では無く “風聞(うわさ)”に拠って賀したという形に成ったのである。この事は朝廷側にとっては、極めて不愉快な事であり“しこり”として残り、以後“室町幕府”からの“武家執奏(申し入れ)“に対して朝廷側は悉く抵抗を試みる事になる。

新“室町殿”に拠る幕政はそのスタートから、大きく躓(つまづく)いたのである。

6:“後小松上皇”と新“室町殿(義円=足利義宣=義教)”との、嫌がらせの応酬に見る、双方の険悪な関係

6-(1):第4代将軍・足利義持の葬儀の時から“後小松上皇”の陰湿な嫌がらせが始まる

1428年(応永35年)正月23日:

“後小松上皇”は、足利義持の葬送に参列した公卿に対して“1カ月仙洞へ参る事の停止”を伝えた事が“建内記”の1月25日条と2月24日条に記されている。これは、後小松上皇が“服忌令(ぶっきりょう=喪に服する期間)“を拡大解釈した、陰湿な嫌がらせだとされる。(“足利義教嗣立期の幕府政治”より)

又“義円”が足利将軍家を継いで初めての人事であった“天王寺別当職”の更迭に対しても“後小松上皇”は、許可を与えなかった。

“室町殿(義円=義宣=義教)”と“後小松上皇”との関係は以後も幕府の申し入れに対して悉く後小松上皇が抵抗を試みると言う不幸なスタートを切ったのである。

6-(2):“後小松上皇”の人事要請を拒絶する形で行なわれた幕府(義円)側の報復

1428年(応永35年)2月26日:

室町幕府の人事権に属する“石清水八幡宮検校職(けんぎょう=社寺の一切の事務を取り締まる事務監督職)”の更迭を後小松上皇が“義円”に要求する。しかし“室町殿-義円”はこれを拒絶し、幕府として“報復”の形となった。

6-(3):幕府からの“代始改元要請”を後小松上皇が拒否する

“代始改元(だいはじめかいげん)”とは天皇の崩御、又は譲位によって帝位の交代が行われた際に改元するもので“孝徳天皇”(第36代天皇・在位645年~654年・生:596年・崩御:654年)の即位の直後に“大化”の年号を定めた事が最初とされる。その他の改元理由には①祥端(しょうずい=吉兆)②災異改元③革命改元があった。これ等に就いては既述したので省略する。

足利義満、足利義持が共に年号を変えたがらなかった為、応永の年号は35年に達して居た。家督を継いだ“義円(=義宣=義教)”は第5代将軍・足利義量(1425年2月)、第4代将軍・足利義持(1428年1月)と“室町殿”当主の死が連続した事で改元を朝廷に申し入れたのである。

1428年3月(応永35年):

幕府の申し入れに対して後小松上皇は“代始に於ては”称光天皇“が践祚(1412年8月)した直後の、応永廿年(1413年)に朝廷から“代始改元”を申し入れたところ“足利義持”の拒否にあった事を持ち出し、いまさら幕府がそれを言い出すとは何事か!“と怒り、結局、幕府は“代始改元要請”を取り下げたのである。

6-(4):室町幕府は“万里小路時房”を“武家伝奏(公卿が任じられ、武家の要請を朝廷に取り次ぐ役目)”に任じた。しかし“後小松上皇”は、1カ月も院に出入りする事を許さなかった

万里小路時房(建内記の著者・生:1395年・没:1457年)は室町幕府によって“武家伝奏”に任じられた。しかし、上記の状況下、1カ月間も後小松上皇の院に出入りする事が出来ず、窮地に立たされ事を“建内記”5月7日条に以下の様に記述している。

叡慮(後小松上皇)測り難きもの歟(かや)。然れども、公武について私曲なき耳(のみ)

後小松上皇の側近の“万里小路時房”でさえもが、こうした“後小松上皇”の室町幕府に対する対応に不審感を表した文章である。そして“私心”に拠る不公正、誤った公武に対する政治姿勢の無い様願う彼の心情を記している。

後小松上皇としては、頼りにしていた第4代将軍“足利義持”の急逝、思いもかけぬ籤引きに拠って“室町殿”が決まり、しかもそれが“僧侶”出身者という驚きがあったとされる。加えて幕府側の初期動作の手違いから“室町殿相続”の通知が遅れる事が重なり、後小松上皇(朝廷)と新室町殿(幕府)との関係は一気に険悪化したのである。

こうした“後小松上皇”の執拗な幕府への抵抗の背景には、第3代将軍“足利義満”時代に、父・後円融天皇が散々に虐められ、自殺未遂にまで追い込まれた過去に対する復讐を試みているかと思わせる行動が続く。その典型が“将軍宣下の遅延”とされる。

7:義円が還俗し“足利義宣”を名乗る、しかし“将軍宣下”は無く、将軍不在という不安定な政治状況が続く

第6代将軍となる“足利義教”は、第3代将軍・足利義満の5男として1394年に生れている。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持とは同母弟に当たる。9歳の6月、1403年に“青蓮院”に入室し、14歳の1408年には門跡と成り“義円”と名乗っている。第153代天台座主に25歳で至り“天台開闢以来の逸材”と将来を嘱望された人物である。

1428年1月18日に兄の足利義持が急死し、既述の様に“籤引き”で後継者に決まった。
幾度か辞退をしたとされるが、1月19日に応諾し、同日“青蓮院”を退出して日野義資(生:1397年・没:1434年)の自宅・裏松邸に移っている。

後小松上皇、及び称光天皇が日野資教(日野家20代当主・日野義資の大叔父に当たる)を勅使として“義円(後の足利義教)”の家督相続を祝したのが1月28日である。

幕閣は権力の空白状態を埋めるべく一日も早い“将軍就任”を望んだ。しかし“義円“は上記した様に9歳で出家して居り、還俗した“俗人”としての元服式を済まして居らず、しかも無位無官、更に“剃髪”であった。こうした事から、武家伝奏の“万里小路時房”(までのこうじときふさ・建内記を書いた人物・従一位内大臣・生:1395年・没:1457年)は“義円の髪が伸びて元服式が行なえる様になってから次第に昇任させるべし”との考えを示し、公卿の大半も同意見だったとされる。

幕閣は仕方なく朝廷の意見に従い“義円”の髪が伸びる迄待つ事にし、将軍が発行する“御教書“で、その間の政務を執る形を考えたが、朝廷はこれにも反対した。従ってこの間の政務は第12代幕府管領(在職1421年~1429年)“畠山満家(第10代幕府管領・在職1410年~1412年も務めている)”の下知状で代用するという事態になった。

7-(1):還俗、そして改名・・将軍職への意欲が満々であった事を示す“足利義宣”の名前の意味

1428年(応永35年)3月12日:

義円(圓)は還俗して“足利義宣”を名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。

7-(1)-①:決断を意味する“宣”の字を選ぶ

還俗して俗名を決めるに当たって“義雅・義規・義央・義宣”が候補に上がった。“宣”の字が“決断”を意味し、天下の政務を決断する“将軍の権力を象徴する文字”である事に注目して選んだとの説(佐藤進一氏)からは、既に強烈な権力意識が現われているとしている。

7-(2):還俗しても下されなかった“将軍宣下”

1428年(応永35年)4月14日:

従四位に昇任する。しかし“髪”は未だ伸びず、将軍宣下も無かった。室町幕府として、将軍不在の空白期が続く事に成り、鎌倉公方・足利持氏に将軍宣下があるのでは、との流言が広まり、京都に不穏な空気が流れ出した。

7-(3):“応永”から“生長”への元号代えを認めた朝廷・・1428年4月27日

第101代称光天皇が崩御し、第102代後花園天皇に代わるのは1428年7月28日の事であ
るから代替わりで元号が代わった訳では無い。

幕府は1ケ月前に拒絶され、取り下げた“改元要請”を再び朝廷に申し入れた。今回の理由は北朝時代の“後小松天皇期”に重臣の薨逝に拠って元号を“嘉慶”から“康応”(1389年2月9日)に代えた先例を持ち出した。朝廷側が認める結果と成り、漸く改元が実現し、35年に及んだ“応永”は“生長元年”に改元されたのである。尚“応永”の35年は明治以前では最も長い元号である。

実は朝廷側が改元を認めた理由は既述した中の“災異改元”であった。当時、飢饉と疫病が全国的に広がって居り、それが京にも及んでいた。とりわけ“京”では“三日病(みっかやみ=風疹“が猛威を振るい、貴賤上下を問わず人々が倒れるという脅威に、朝廷が“元号変更”に応じたのが本当の理由であった。

当時の社会では、こうした状況に陥る事は支配者に“徳”が無い為だとして“復古”つまり“良き昔に戻るべき”として“徳政”を求めた。今回の“改元”はそうした社会環境下での“改元”であり、史実として、この年の8月~9月には日本史上初の“土一揆”とされる“生長の土一揆“が勃発するのである。

7-(4):御判始・・1428年(応永35年)4月11日
 
“御判始“とは”花押“に法的効力を持たせる儀式である。足利義宣(義教)は還俗した(1428年・応永35年3月12日)後の同年4月11日に“御判始”を行なった事が“満済准后日記“に書かれているが、以下に記す様に彼は、政治期毎に3回”御判始“を行った事が分かっている。

7-(4)-①:1回目・・将軍宣下前に発行した文書から

幕府管領“畠山満家”宛の1428年(生長元年)10月2日付御内書と、足利義満時代には決して上洛しなかった“大内盛見”(生:1377年・没:1431年)に鎌倉公方・足利持氏の反乱に備えて馳参(早く来ること)を命じた1428年10月23日付の文書が存在する。尚大内盛見は足利義持期には幕府に恭順的に成り、1409年には上洛、在京し、相伴衆として幕政に参加し、九州の経営に尽力した武将である。

第4代将軍“足利義持”が出家した(1423年4月)時に秘密裏に五人(畠山満家・細川満元・山名常熈・赤松義則・大内盛見)にお目通リを許した事を既述したが、その中に入っている。新将軍と成る(1429年)足利義教も“大内盛見”に厚い信頼を寄せ、幕府御料所となった“筑前国の代官”に任命する等、後述するが、彼にとって重要な位置を占めた人物である。

7-(4)-②:2回目・・1429年(生長2年)4月15日

将軍宣下は1429年3月15日であるから、実質的な“御判始”はこの日だとされ、山徒(比叡山延暦寺の衆徒)の“稔運”に対して知行を認めた文書が2回目の“御判始”の史料として残っている。

7-(4)-③:3回目・・1432年(永享4年)8月7日

将軍・足利義教の花押(署名の代わりに使用される“記号・符号”で、中国5世紀の“斉”時代に発生し、日本では10世紀頃、平安時代中期から使用されたとされる)は“武家用花押”と“公家用花押”の2種類があった。武家用花押は1432年4月頃まで用いた事が確認され、1433年(永享5年)閏7月頃からは“公家用花押”に代えたとされる。父・第3代将軍足利義満は公家・武家両様の花押を併用したが、足利義教は併用する事は無かったとされる。


足利義教は1433年以降、公家用の花押を用いた事が確認されている・・室町幕府崩壊:森茂暁氏著書より

8:“将軍空位”という不安定な状況につけ入ろうとした勢力・・①後南朝勢力②鎌倉公方

“後南朝”問題については前項(6-14項)で詳述したが、室町幕府の“明徳和約反故”に抵抗する旧南朝派の勢力は依然存在していた。

“称光天皇”の重篤の噂は当然の事乍ら次の“皇位継承”を巡って“後南朝”勢力の動きを 活発化させた。“室町幕府”は“将軍空位”状態が続いて居り、朝廷側が“鎌倉公方・足利持氏”と連携するとの噂も流れ、更に鎌倉公方が京に向け挙兵するとの噂が真実味を増したのである。

この様に“籤引き将軍”に対する批判の声が室町幕府を不安定にし、加えて朝廷内でも、病弱で嗣子に恵まれなかった第101代“称光天皇”の後継天皇の正統性を巡って問題とされ、後南朝勢力、並びに鎌倉府にとって、又と無い格好の攻撃チャンスを与えていたのである。

8-(1):鎌倉公方・足利持氏の京への挙兵を諌止した関東管領“上杉憲実”

1428年(正長元年)5月25日~5月26日

“義円”が籤引きで室町殿の後継に決まり、自分が選ばれなかった事に鎌倉公方・足利持氏は大いなる不満を持ち、京に攻め上がろうとした。これを“関東管領・上杉憲実”は反対したが、鎌倉公方・足利持氏は聞き入れなかった。

そこで上杉憲実は、分国の国人“新田某”が挙兵して鎌倉に入る、との偽りの噂を流させ、この噂に驚いた鎌倉公方・足利持氏が京への進軍を思い止まったのである。この事は“建内記”の5月25日条、並びに“満済准后日記“の5月26日条に記されているから、史実であろう。

上杉憲実(山内上杉家8代当主・養父で山内上杉家7代当主の上杉憲基の死去後の1420年に関東管領に就く・生:1410年・没:1466年、上杉謙信は山内上杉家16代当主)は足利学校や金沢文庫の再興で知られる。儒教心に篤い人物であったとされ、彼にとって直接の主君・足利持氏が京に攻め上がり、将軍職を奪い取ろうとする行動は更なる上の主君に対する“不忠“であると考えたとされる。

“上杉憲実”は二人の主人の間で悩んだ末に上記策を用いて鎌倉公方・足利持氏の京への進軍を思い止まらせたと伝わる。

8-(2):“後南朝”方の動きと“後南朝史“の位置付け

“後南朝史”の起点は1392年(明徳3年)に、足利義満と後亀山天皇との間の“南北朝合一(明徳の和約)”が成された時とされる。

“両統迭立”の約束の反故を理由に掲げた“反幕行動”が、既述した“後亀山法皇”の抗議行動を皮切りに開始され、其の後も“旧南朝”方が“旧南朝の皇胤”を担いで反幕行動を展開した歴史が“後南朝史“と呼ばれるものである。

“旧南朝の皇胤”とは則ち“後醍醐天皇”の子孫達であり、彼等は“禁闕の変(1443年)”並びに“長禄の変(1457年)”そして“応仁・文明の乱(1467年~1477年)”の際に、反幕派(後南朝派)に拠って担ぎ出される。これ等に就いては次項以降で記述する。

こうした“後南朝の歴史”は1479年(文明11年)迄は史料に拠って辿る事が出来るが、それ以降は信憑性の高い関係史料が無い。江戸時代に至って水戸光圀の“大日本史”に拠って“南朝正統論”の台頭、発展を見、1911年(明治44年)の“南北朝正閏問題“で第2次桂内閣が“南朝正統”を閣議で決定するという動きに至るのである。

今上天皇(2019年4月30日譲位・改元は5月1日)は“後花園天皇”の皇統を引き継ぐ“北朝系”の皇統とされる。

戦後の混乱期の1946年(昭和21年)には、名古屋の雑貨商“熊沢寛道”が“自分こそが南朝正統の皇裔であり、皇位継承の権は自分にある“と呼号した事件が発生している様に“後南朝問題”は室町時代に始まり、江戸時代、明治時代を経て、尚、至近に至る迄、日本の“皇統史”の話題として生き続けていたと言える。

8-(3):“後南朝”派に擁立された“小倉宮恒敦”

事実上“第3代将軍・足利義満による院政”と称される程に“後小松天皇”を傀儡状態に置いていた“足利義満”だが、彼の存命中は“両統迭立”を約束した手前もあって“後小松天皇(南北朝合体時に15歳)”の皇太子を立てる事を意識的に控えたとされる。

足利義満が急逝(1408年)し、第4代将軍・足利義持の時代に成ると、室町幕府は“後亀山法皇”が抱いて来た南朝系からの皇太子嗣立の望みを打ち砕き、後小松天皇の第一皇子“躬仁(称光天皇)”を即位させる動きを始めたのである。

この事は、後亀山法皇にとっては “足利義満”と交わした“明徳の和約”の約束不履行であり、到底許し難く、抗議する為、嵯峨から吉野に出奔(1410年11月27日)するという強硬手段に出た。

この“後亀山法皇“の行動が“旧南朝”派の抵抗運動の発火点と成り、1411年には飛騨国司“姉小路尹綱(あねのこうじただつな)”が挙兵をしたが、あえなく幕府方・飛騨国守護“佐々木高光”に討たれた事は、前項6-14項のA-2-(3)で既述した通りである。

こうした“後南朝”方の反幕行動の元凶と成った“後亀山法皇”の動きを抑えるべく、幕府は所領回復を約束する等の説得工作に務めた。これが奏功し“後亀山法皇”は公卿・儀同三司(准大臣)の広橋兼宣(ひろはしかねのぶ・生:1366年・没:1429)が迎えの使者に立った事もあって、1416年(応永23年)秋に嵯峨大覚寺に戻った。

しかし、後亀山法皇と行動を共にしていた皇子“小倉宮恒敦”(おぐらのみやつねあつ・生年不詳・没:1422年)は吉野に残り、旧南朝方の伊勢国司“北畠満雅(生年不詳・没:1429年)等に担がれて幕府への武力抵抗を1414年~1415年にかけて続けたが、1415年8月に“後亀山法皇”の仲裁で和睦に至っている。

“小倉宮恒敦”は1422年7月15日に没した(権大納言・中山定親の日記・薩戒記)が、旧南朝派が“皇胤”を旗頭として担ぎ、室町幕府に抵抗する“後南朝”方の動きは、以後も引き継がれて行くのである。

8-(4):称光天皇が重篤に陥る。後南朝派に擁立された“小倉宮聖承(初代小倉宮恒敦の嫡子・二代目小倉宮・生:1406年~1407年・没:1443年)が出奔し、幕府を揺るがす

1428年(正長元年)5月~7月20日:

足利義持が急逝する前後から病気がちであった第101代称光天皇(在位・1412年~1428年7月20日・生:1401年・崩御:1428年7月20日)は5月に重態となった。“建内記”の6月15日条には、天皇の回復が困難視された為か、病気平癒祈願の“御修法(みしゅほう=貴人の邸で行われる加持祈祷)を引き受ける高僧がいない事態に“万里小路時房”が困った様子が記されている。

同年7月6日:“後南朝”方が皇位継承候補として担いだ“小倉宮聖承”が大覚寺から伊勢国へ出奔する

両統迭立の“明徳の和約”履行を求めて“後南朝”派は“小倉宮恒敦”の遺児“小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう・生:1406年・没:1443年)を次期天皇とする運動を幕府に対して起こすが“足利義宣(足利義教)”は無視し、満済、幕府管領・畠山満家らと謀って“伏見宮貞成親王”の子“彦仁王(後の第102代後花園天皇・生:1419年・崩御:1471年)”を皇位継承者として内定し、後小松上皇に執奏した。

危篤の称光天皇には有名な一休宗純(生:1394年・没:1481年)が兄として居たが、既に僧籍が長く、皇統の資格が無かったとされ、皇位継承候補とは成らなかった。“一休”も“彦仁王(後の第102代後花園天皇)”を推挙したと伝わる。

同年7月13日:

室町殿・足利義宣(足利義教)は“称光天皇”の容態が一刻の予断が許されない状態でもあり、又、不穏な社会・政治状況の中で“後南朝”勢力が皇嗣に内定した“彦仁親王”の身柄を略奪する事も想定された事から、西南(伏見の城南離宮の事と思われる)から京都東山の若王子(にゃくおうじ)社に移し、厳重に警護する事を内々に計らった。(椿葉記並びに満済准后日記)

この時、足利義宣(足利義教)が“彦仁王”の移動・警護役に当たらせたのが“赤松満佑(生:1381年・没:1441年)”であった。この時点では“室町殿・足利義宣”は、この様な皇位継承に関わる極秘隠密行動を託す程、赤松満佑に厚い信頼を寄せていた事が明らかであり、まさか13年後の1441年(嘉吉元年)6月24日に“将軍・足利義教”を暗殺するという歴史的事件を起こすとは、想像も出来なかったのである。こうした“足利義宣(義教)”の動きを後小松上皇は評価し、後の“将軍宣下”問題に少なからずプラスの効果を生んだ。



(銀閣寺の近くに在る若王子神社。足利義宣(義教)が“彦仁王”を警固の為に移した事を裏付ける“後花園天皇御遺蹟之地”と刻まれた石碑が神社の前にひっそりと立つている・・2018年11月2日訪問)

1428年(生長元年)7月20日:

第101代“称光天皇”(在位:1412年10月・崩御:1428年7月20日)が満27歳の若さで崩御。

同年7月28日:

後小松上皇の猶子と成って居た“彦仁王”が、三条公光(従一位右大臣・生:1391年・没:1459年)邸で践祚、第102代“後花園天皇”(北朝第3代崇光天皇の3代後の皇統である・在位:1428年~譲位1464年)の誕生である。

尚、今回は8親等以上離れた続柄での皇位継承となった。こうした前例は女帝で、第48代“称徳天皇”(第46代の孝謙天皇が重祚・聖武天皇の第一皇女・僧道鏡を寵愛し、770年に皇嗣を決めないで崩御・在位:749年~758年&764年~崩御770年)の崩御後に、第49代“光仁天皇”(在位:770年~譲位:781年・生:709年・崩御:782年)への皇位継承以来、実に53代、658年振りの事であった。

尚“後花園天皇”の皇統が今上天皇(2019年4月30日に譲位)に引き継がれて来ている事は既述した通りである。

8-(5):“後南朝”方が鎌倉公方・足利持氏と連携する事を警戒した“室町幕府”

至尊(天皇家・朝廷・公家層)勢力側は上述した“皇位継承問題”、至強(将軍・室町幕府・守護大名)勢力側も“籤引きに拠る将軍継承”が批判されるという状態で、双方共に“正統性”に疑問符が付く継承が行われた事は、鎌倉公方“足利持氏”にとっても“後南朝”勢力にとっても、幕府を揺るがすには格好の材料であった。

8-(6):“小倉宮聖承”の動き

幕府は嵯峨大覚寺に寓居していた“小倉宮聖承”が1428年(生長元年)7月6日に出奔した事は掴んでいたが、その行方を探しあぐねていた。しかし、7月12日に“伊勢国”に居る事を突き止めた。

所詮、関東(足利持氏)より申す子細に依って、伊勢国司(北畠満雅)同心せしめ、則ち国司在所へ入御と云々


鎌倉公方・足利持氏と伊勢国司の北畠満雅(北畠顕泰次男・生年不詳・没:1429年)が連携して“小倉宮聖承”を国司在所に迎え取ったとの記事である。

前項6-14項の“A-2-(3)”で伊勢国司・北畠満雅が“称光天皇践祚(1412年10月)”の際に“明徳の和約”違反だとして挙兵した事を述べたが、今回の第102代“後花園天皇“の践祚は、幕府が最早”明徳の和約“を無視している事が明らかになった事であり、“後南朝勢力”が黙っている筈も無かった。

上記記事が書かれた背景には、皇位継承問題に大いに不満を持つ“後南朝”勢力、そして、幕府側では僧侶が還俗し、しかも“籤引き”によって“室町殿”を誕生させたという事態に、猛烈な不満を持つ鎌倉公方“足利持氏”とが、互いに連携を図るであろうとの噂が愈々(いよいよ)真実味をもって広がるという状況があったのである。

8-(7):幕府は後南朝勢力の旗頭“北畠満雅”追討軍を準備する

1428年8月3日:

7月28日に第102代“後花園天皇”を誕生させ、皇位継承問題に一応のケリをつけた幕府は、伊勢国に出奔した“小倉宮聖承”問題に始末を付けるべく“土岐持頼(足利義嗣に与したとして伊勢国守護を取り上げられたが“満済”等の後押しで復帰・土岐康政の子・生年不詳・没:1440年)”に出兵を命じた。

“満済”の記録に拠れば“小倉宮聖承”は守護所多気の東方“一志郡興津”に滞留しているとの情報を幕府側は掴んでいた。又、伊勢国出兵を命じられた“土岐持頼”からは“当地(南伊勢)では鎌倉公方・足利持氏が京へ進軍する事が確実“との噂が専らである事、そして、この噂に力を得た伊勢国司・北畠満雅が挙兵体制に入ったとの情報を幕府に伝えて来た。

しかし、8月中旬から9月にかけて“北畠満雅”軍等の動きは無く、戦線は膠着状態の観を呈した。一方、鎌倉公方・足利持氏の上洛の話は“建内記”の5月25日条、並びに“満済准后日記“の5月26日条の記述で裏付けられる様に、関東管領・上杉憲実が策をこらし、鎌倉公方・足利持氏の京への進軍を諌止していたのである。

9:日本開闢以来、初の“土民”による一揆“生長の土一揆”が勃発する

9-(1):幕府・貴族・僧侶を含め社会的に大きな影響力を持った歴史上初の“土一揆”

1428年(正長元年)は1月早々に“足利義持”が急死し、籤引きで決まった“足利義宣”(将軍宣下時に義教に改名)が室町幕府の後継者と成ったが、将軍宣下は下されず、混乱状態の中、5月には鎌倉公方・足利義持の謀反計画が噂され、更に、8月には伊勢国の北畠満雅が旧南朝の皇胤”小倉宮聖承“を奉じて挙兵する等、社会情勢は不安定であった。

こうした政情の不安定さに加え、凶作(前年からの天候不順)、更には流行病(三日病・みっかやみ=風疹)等で働き手が減る等、かなり厳しい状況が日本社会を襲っていた。飢餓状態が継続した事で、都鄙(都会と地方)格差問題、富の京への集中という社会問題が一気に噴出し、日本の社会は“人民多く死亡、骸(むくろ)諸国に充満す”と、記録に残る状況下であった。そして、日本開闢以来、初とされる“土民”による一揆“生長の土一揆”が勃発したのである。

9-(2):“生長の土一揆”の背景にあった日本の社会構造の変化

9-(2)-①:庶民の間に芽生えた自治、連帯意識

室町時代も100年近くが経ち“惣(村落の入会、水利の管理運営、自衛などに当たる自治・運営組織)”が発達し、農民、地侍、馬借等、比較的身分の低い“庶民”の間に自治・連帯意識が強まって来ていた。

彼等は為政者(幕府・朝廷)、支配者(寺院、蔵)に“徳政令”すなわち“借金棒引き”を求めて一揆行動を起こすベースを作り上げていた。こうした処に、上記した社会不安が生じた事で、日本社会の底辺に居た“庶民”が日本開闢以来初とされる土一揆“生長の土一揆”を起こしたのである。

“徳政令“という言葉は鎌倉時代から室町時代にかけて朝廷・幕府等、為政者の側から、土倉などの債権者・金融業者に対して債権放棄(債務免除)を命じた歴史的には馴染みのある法律である。

過去に出された①弘安徳政(1286年)②永仁徳政(1297年)は“元寇”に拠って貧困に苦しむ御家人保護、並びに社会秩序回復を名目として出されたものであった。又、1334年に出された“建武の徳政令”は“後醍醐天皇”が隠岐に流されている間に生じた権利変動を原則無効とする目的の“徳政令”であった。この二つの“徳政令”の性格は多分に政治的要素からのものであったのに対し“生長の土一揆”が要求した“徳政令”は以下に述べる様な社会背景が変化した事に拠るもので、全く性格の異なるものである。

9-(2)-②:畿内と地方との間に生じていた“貧富格差”の拡大

富の集中・・畿内に於ける金融業の大盛況と地方との格差拡大

南北朝動乱からの経済面の復興は、先ず金融業者から進められた。その結果、金融業者は次第に盛況と成り、足利義持期の最末期である1425年(応永32年)には富が金融業に集中し、それに纏わる相論(訴訟で争う事)が頻発し、幕府は追加法179条に拠って“借金の取り立てに関わるトラブルが繁多であり今後、借金相論は幕府が取り締まる“と明言した。金融業の盛況が負の側面を生み出し、その帰結が“徳政一揆”の勃発となったのである。

京都に於ける金融業の盛況は、結果として地方の富を貪欲に吸収した。先ず、京都近郊の土倉が進出して近郊の村落に金を貸し付ける事で京都の“債権者”、近郊村落の“債務者”という構図が生れ、都鄙(都会と地方)の格差を齎した事で、都市に“徳政一揆”が雪崩れ込むという構造が育まれた。

“下剋上の時代”の著者“永原慶二”氏は“日本の歴史は古代・中世を通じて畿内が中心舞台であったが、室町時代は特に荘園領主の集住地たる京都に幕府が開かれた事で、大消費都市京都・奈良の周辺が特殊な経済地帯として高度に発展した。その結果、畿内と地方の格差を生み、この特殊な経済構造が”土一揆や”惣“が畿内に集中的に発生する根源と成った”と説明している。

9-(3):年貢・貫高制について

鎌倉時代以降、商品経済が発展し、貨幣流通が増加して来ていたが、室町時代になるとそれが一層進展して年貢(律令制に於ける田租=田の面積に応じて課せられた基本税目・平安時代の初期~中期に崩壊し形骸化し年貢へと変質)は米(年貢米)から銭貨(銭納、代銭納)に拠る年貢納入が畿内を中心に広く普及する様になったとされる。

商品経済の発展は、運送業者(馬借・車借)を生み、荷物を売りさばく商人の動きを活発化した。ここに課したのが関所を通る時の“関銭”であり、港に入港する際の“津料”であった。武家の知行高は、田地の面積をその田で収穫出来る平均の米の量で表し、貫を単位とした通貨に換算した“貫高制”と呼ばれた。これが江戸時代になると“石高制”になるのである。

以下にその他、当時の代表的“税”を紹介する。

9-(3)-①:段銭(たんせん)

鎌倉時代の1241年(仁治2年)、第3代執権・北条泰時(生:1183年・没:1242年)の最晩年に課した例が初めてと伝わる税である。国家的行事や寺社の造営等、臨時の支出が必要な時に“国“ごと、或は”地域“を限定して臨時に課された税である。銭で納めるのが原則で“田畑一反当たり何文”という形で課せられた。

室町時代に入ると度々課されるようになり、次第に恒常的となる。更に、税の徴収を行う守護大名や荘園領主が“私段銭”と呼ばれる私的な段銭を徴収する様に成り、これが次第に守護大名・戦国大名の領主的賦課へと転換して行ったとされる。

9-(3)-②:国役(くにやく)

室町時代の“国役”は室町幕府が守護大名が管領する分国の数に比例して課した役(税)とされる。事例としては“祈年国奉幣(きねんこくほうべい)“が挙げられ、2月と7月の吉日に伊勢神宮など京畿二十二社に幣帛(へいはく=神前に奉献するもの)を捧げ、その年の豊作を祈る儀式の為に賦課されたものが代表的なものである。

守護大名及び諸国に課した“段銭”並びに“守護大名”が独自に領国に賦課した課役(租税)を指す場合にも使われる。

9-(3)-③:土倉酒屋役

 “土倉役”は室町幕府が公認した質屋に課した税で、倉役とも称され、貨物の数量に応じて賦課された。

“酒屋役”は第3代将軍“足利義満“が強力に圧力をかけ、1393年に其れ迄酒屋の多くが権門寺社の“神人(じにん=神職)”として保持していた特権等を奪い、幕府が課税権を得たという歴史を持つ。幕府が洛中の“造り酒屋”に酒壷数を単位として課した営業税である。尚、荘園領主、諸大名も酒屋役を徴したとされる。

“土倉役・酒屋役”両方共に、幕府にとっての重要な財源であり、最も有名で恒常的なものとして知られるのが、1393年(明徳4年)に室町幕府に拠って設定された営業税“洛中辺土散在土倉幷酒屋役(らくちゅうへんどさんざいどそうならびにさかややく)”である。

9-(4):税の徴収方法の変化が富が首都京都へ集中する原因と成った

室町幕府は税の徴収方法を変える事で、直接在地に関与する事無く、首都京都に富を集める事を可能とした。これに拠って京に富が集中する様に成った。

税の徴収方法の変化は,それ迄、個々の守護が管理していたが、幕府が統括的に管理する事に変えた。これに依り、首都京都に大きく依存した財政構造が生れ、統治の形も在地支配が間接化されるという変化を齎したのである。(室町幕府論:早島大祐氏)

一方で、多くの業務や権限が地方支配の実務を握っていた“守護代”又は更に下の“又守護代”の権限を大きく拡大する事に繋がったとされる。こうして第4代将軍・足利義持期には首都圏が形成され、都市依存型財政が成立して行った。

こうした政治・社会構造の変化は後の“下剋上”の素地となったとされるが、之に就いては次項以降で述べる。

9-(5):日本の一揆

①徳政一揆:土一揆の一種
②馬借一揆:馬を利用する運搬業者の一揆
③国一揆:自分達の領土を守る為、又は守護を追放する為の一揆
④荘家一揆:荘園領主に対し農民が租税の減免、領主・代官の更迭、追放を求める一揆
⑤一向一揆:一向宗教団内の内紛や教団を弾圧する領主や権力者に対する一揆

上記5つが日本に於ける主たる“一揆”である。

“生長の土一揆“は上記した中の”徳政一揆“である。そもそも”土一揆“の”土“の由来は、当時農民、百姓の事を”土民“と呼んだ事にある。土民と呼ばれる中には地侍や馬借も含まれるが、主軸が農民・百姓であった事からこう呼ばれるケースが多い。

9-(6):一揆の襲撃対象とされた“土倉・酒蔵”について

9-(6)-①:土倉(どそう・とくら・つちくら)

語源は土蔵を有していたからとされ、現代の質屋の様な機能の金融業者で、物品を質草として担保とし、高利で金銭を貸与した。

9-(6)-②:酒屋

酒屋は、鎌倉時代中期から商業として登場したが、鎌倉幕府はこれを禁じた。京都に於ける酒屋は延暦寺等、権門寺社の影響下にあり、又、朝廷も壷銭などの形で臨時の課税を行なう代わりに営業を認めるという関係にあった。権門寺社、並びに朝廷にとって、重要な財源であったのである。

上述した様に、室町幕府第3代将軍・足利義満期になると、幕府の強力な軍事力を背景に、それまで徴税の権利を握っていた“造酒正(=造酒司・さけのつかさ:律令制の下で置かれた役所で宮内省の被官)”並びに“延暦寺”から課税の権利を奪ったのである。

1393年(明徳4年)、室町幕府は“洛中辺土散在土倉幷酒屋役”と呼ばれる5ケ条の法令を出し、延暦寺等の有力権門の権益を否定し“造酒正”に拠る課税は最低限に制限された。

“酒屋“は室町幕府にとって、重要な税収源と成ったのである。

9-(7):“生長の土一揆”勃発を予期していた“伏見宮貞成親王”

“看聞日記”1421年(応永28年)2月18日条に“首都の矛盾と土一揆勃発の予兆”を伏見宮貞成親王が記録に残している。

都会と地方に広がる較差社会(都鄙=都会と地方)の発生が不安定な社会を作るという事を記述し、それが日本で初めての土民階層に拠る“生長の土一揆”を発生させたという事を述べている点で大変に興味深い。下記がその記述である。

そもそも去年炎旱飢饉の間、諸国貧人上洛、乞食充満す。餓死者数を知らず路頭に臥すと云々。よって公方より諸大名に仰せられ、五条河原に仮屋を立て施行を引く。食を受くる酔死者又千万と云々。今春また疫病興盛万人死去すと云々。天龍寺・相国寺施行を引く。貧人群衆すと云々。

=要約=

前年(1420年・応永27年)の飢饉で収穫が激減した為に、1421年(応永28年)早々に諸国から貧人が上洛して多くが路頭で餓死した。その対策として幕府も五条河原で食の施しを行ったが、今度は急に食べ物を口にしたショックで死者が出る始末であった。更に年明けから疫病が発生して多くの人が死に、天龍寺や相国寺でも施しが行われ、貧人が群集しているという噂がある。

何故人々は首都を目指したのであろうか。それは都市には“食料”があったからである。上記した様に、幕府の政策で米や酒等は首都“京都”に集中する状況が生れていた。更には室町期には上述した税制に拠って“京”という首都圏が形成され、それを核とした社会の再編、社会構造の形成が飢饉の在り方までも変化させたのである。

新しい現象としての“都市型飢饉”は飢えた棄民が都市へ雪崩れ込むという状況を作り出し、更に餓死した死者の亡骸が放置された事で、疫病発生、蔓延という悪循環を起こしたのである。

9-(8):“生長の土一揆”の経緯

9-(8)-①:“代替わり徳政”を要求する絶好の機会と捉え、蜂起した“土民”

1428年(正長元年)7月28日:

“彦仁王”が第102代“後花園天皇”として践祚した。天皇や将軍の代替わりは慶事であり、為政者はこうした機会に“代替わり徳政”を行った。又、災害等で“改元”が行われた際にも天皇が“徳政令”を発して来た歴史がある。(これを天人相関思想という)

飢饉、流行病等“庶民”にとって苦しい生活状態下で“天皇の代替わり”に加えて“室町殿の代替わり“が重なった今回は庶民にとっては”代替わり徳政“を求める絶好の機会と捉えたのである。

“徳政”を求める“庶民“側の考え方は”為政者(天皇・将軍)の政治が良くないから我々が苦しい目に遭っている。これは天罰であり、為政者が責任を取るべきだ“と考え、抗議行動として一揆を起こしたのである。

9-(8)-②:口火を切ったのは近江国・坂本、並びに大津の“馬借”であった

1428年(正長元年)8月:借金苦から日本最初の“土一揆”が起こる

“生長の土一揆”は近江国坂本や大津で物資の運送に当たる“馬借”が“徳政”を求めて一揆を起こしたのが皮切りであった。それが、畿内(①山城国②大和国③河内国④和泉国⑤摂津国の5国で、現在の大阪府の全域・京都府南部・兵庫県南東部・奈良県の大部分)一帯に波及し、各地で借金苦に耐えかねた農民・馬借達が酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲ったのである。

9-(8)-③:勢いを増した一揆勢

1428年(生長元年)9月:

室町幕府(室町殿・足利義宣)はこれに対し、幕府管領“畠山満家”に命じて鎮圧に乗り出し、侍所所司“赤松満佑”も出兵したとある。しかし一揆の勢いは衰えず、この波が山城(京都府南部)に波及し、1428年(生長元年)9月中には京都市内に乱入した。

洛中に於ける一揆が“借書(借用の証文)を焼き捨て、質屋に物を取り返しに押し寄せる等の混乱を起こした事が記録されている。

同年 9月18日:

“山城(京都府南部)”に波及した一揆に関して、京に居た“三宝院満済”のもとに醍醐寺から緊急の連絡が入っている。以下がこの日の早朝“醍醐の民衆が徳政だと言って蜂起”した様子を“満済准后日記”が伝えるものである。

9月18日、今暁、当地醍醐の地下人(土地の百姓)達が徳政を認めろと言って蜂起し、ほうぼうの借金先を襲って証文を奪い取り焼き捨てた。今度の徳政一揆は近江から起ったもので、8月以来の事の様だが何ともけしからぬ事だ。自分はこの様子を先ず細川持之に報告したので、早速奈良入道・横尾入道以下数百騎がこの醍醐寺にやって来て灌頂堂(かんじょうどう)以下を警固する事となった。その為郷民たちもこれを恐れて群訴して来ることも無く解散し、街道筋も一揆に塞がれる事も無く成った。次に又、管領畠山満家にもこの様子を報告した。管領は早速(室町殿)上意を仰いで、侍所所司赤松に命じ、武士200騎ばかりを山科まで派遣してそこに待機させ、状況次第では醍醐寺に入寺するという事になった。

結局、京でも略奪が起き、東寺が土一揆によって占拠される恐れも出たが、侍処長官の“赤松満佑“が軍勢(200騎)を駐屯させこれを防いだ。幕府が土一揆を撃退し”徳政令“を出すには至らなかったと記している。

同年 11月25日:

一揆が奈良に波及した様子が記録されている。北からは山城の、西からは鳥見(とみ)及び生駒の、そして南からは宇陀の土一揆に攻められている。奈良では夜な夜な鐘が突かれ、寺院と住民が一体と成って防御に務めたが、一揆の勢いが勝り、興福寺は11月25日に“徳政令”を出すに至った。(大乗院日記目録)

これら“一揆”参加者全てが奈良の金貸し等に債務を負っていたとは考えられず、土一揆に便乗して都市に遍在する富を略奪する動きもあったと“走る悪党、蜂起する土民”の中で著者“安田次郎”氏は述べている。しかし、結果として大和国では幕府から“大和国守護”に補任され、ほゞ全域を荘園化している“興福寺”が“生長の土一揆”に対して“徳政令”を認めた。

“庶民”の信仰と御布施をベースとする興福寺としては苦渋の決断だった事は“大乗院(興福寺塔頭の一つ。室町時代の院主・尋尊の頃に大いに栄えた。現在跡地に奈良ホテルが建つ)日記目録”に下記の様に書かれている事からも窺える。

“生長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破壊せしめ、雑物等悉くに之を取り、借銭等悉く之を破る。管領之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。”

9-(8)-④:“生長の土一揆”が庶民側の成功とされる理由

結果として室町幕府は“徳政令”を出していない。しかし畿内や近国に始まった“土一揆”と徳政の嵐が“一天下の土民蜂起”“惣(すべて)て日本国残りなく御徳政行く”と言われるまでに吹き荒れ“土倉”等が持っていた借金証文が破棄され“私徳政(土一揆等を行い貸借、質入れ証文等の破棄を行う事)”が行われた事と同じ結果と成った事、並びに“興福寺”が“徳政令”を認めたという史実から“生長の土一揆”は、庶民側の成功と言える成果を得た一揆とされる。

9-(9):“生長の土一揆”から見える“日本の特異性”

1428年(生長元年)9月28日に“土一揆”が奈良に広がった事が、興福寺の門跡寺院(皇族・公家の子弟等が住する寺院)大乗院の記録にある。この中で“庶民”が蜂起した日本初の抗議行動(一揆)だと明記している点は“日本の特異性”が裏付けられた記述とされる。

中国では“後漢(25年~220年)”の滅亡の原因になり、魏・呉・蜀の三国時代へと移る契機となったのが“黄巾の乱”であった。遥か昔の西暦184年に起きた庶民に拠る“宗教一揆”であった。この乱は、後漢(25年~220年)末期に政府が太平道への弾圧を行った事に対して農民が首領“張角”の下に黄色の頭巾を着けて起こした“一揆”である。

朝鮮半島でも中国の歴史には遥かに及ばないが、日本よりはかなり早い時期、つまり“元寇”(1274年~1281年)がらみで“農民の反乱=一揆”が起きた事が記録されている。

こうした世界の歴史と比べると“日本の庶民”は“団結して行動”する事に疎い民族だとして、この点も“日本の特異性”とされる。この理由として①日本の庶民層の“社会的地位”が世界各国と比べて低く過ぎた為だとする説②他民族からの武力征圧を経験しなかった民族であった事から、日本独自の歴史の中で熟成されて来た宗教・歴史・文化の上に立つ“世界的に稀な温厚な民族性”を持つ“庶民層”が出来上がったとする説、が唱えられている。

10:“将軍宣下”が降りない状況が続く中“鎌倉公方・足利持氏”の京都進攻の噂に対し、室町殿・足利義宣が強硬策に転ずる

10-(1):鎌倉公方・足利持氏の上洛進撃の噂への室町殿“足利義宣”の対応策

“後南朝”派の伊勢方面での戦線では目立った動きが無く、膠着状態が続いていた。しかし1428年8月(生長元年)から9月にかけて“生長の土一揆”が吹き荒れ、11月には奈良に飛び火するという状況にあった。

しかも“足利義宣”に対する将軍宣下も無く、室町幕府は極めて不安定な状況下、尚も後を絶たない“鎌倉公方”と“北畠満雅”の連携に幕府は気を配り続けなければならなかったのである。

1428年(生長元年)10月2日:

幕府は“祖室”と“等懋(とうぼう)”の二人の使僧を派遣し、京都扶持衆等、幕府寄りの東国有力武将に鎌倉公方・足利持氏の動きに備える様、指示を託している。

同年 10月15日~16日:

主君、鎌倉公方・足利持氏の上洛挙兵を諌止した関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね・生:1410年・没:1466年)は室町幕府寄りの人物で、鎌倉公方・足利持氏とは内部で対立する事が多かったと伝わる。そうした中、上杉憲実の部下で、越後守護代の“長尾邦景(生:1365年・没:1450年)”から急報で、足利持氏が越後の国人や長尾氏に“御方に参り忠節を致すべき”との檄を飛ばしている事が伝えられた。

この報を受けた“満済”が“陰謀全く已(すで)に必定か”と驚き、醍醐寺へ戻る予定を取り止め、京都の里坊“法身院”に逗留し、翌16日に幕府管領から得た越後の情報を詳しく室町殿“足利義宣”に伝えた。

“室町殿・足利義宣”はこの事態に備え、越後国人には鎌倉公方・足利持氏に味方せぬ様との御教書を発し、尚且つ、関東への抑えとして信濃守護“小笠原政康“並びに駿河守護”今川範政“に領国に戻って足利持氏の進撃に備える様、命じた事が”満済准后日記“10月16日条に書かれている。

10-(2):未だ“将軍宣下”の無い中“後小松上皇の出家問題”が勃発し、室町幕府
       が揺れる

10-(2)-①:歴代の室町幕府将軍への“宣下”はどのタイミングで行われて来たか

ア:初代将軍・足利尊氏

6-10項で記述した様に、1336年5月の湊川合戦で勝利し、足利尊氏は実質的に天下人となった。同年11月に“建武式目”を定めた事をもって“室町幕府”の成立とされるが、征夷大将軍に任官したのはそれから2年後の1338年8月であった。

イ :第2代将軍・足利義詮

父・足利尊氏没(1358年㋃)後8カ月経った同年(南朝後村上天皇:正平13年・北朝後光厳天皇:延文3年)12月に将軍宣下があった。従って8カ月の将軍空位期間があった。

ウ:第3代将軍・足利義満

父・足利義詮が没した(1367年12月)時には、未だ満9歳で、元服前であった。幕府として将軍空位期間1年後の1368年12月に左馬頭から将軍に任官している。

エ:第4代将軍・足利義持

6-13項で記述した様に父・足利義満は将軍職を辞し(1394年12月17日)たが、間髪を入れず嫡子“足利義持(8歳)”を元服させ、正五位下に叙任、そして、征夷大将軍職も譲任している。従ってこのケースでは将軍空位期間は生じていない。時の天皇は南北朝合一(1392年)直後の“後小松天皇”であり、足利義満が朝廷を思うがままに動かしていた政治期であった。

オ:第5代将軍・足利義量

父・足利義持が1423年3月18日に将軍職を辞し、嫡男足利義量(16歳)に譲任したが、政治の実権は父・足利義満同様、足利義持が握り続けた。将軍職としての空位期間は生じて居ない。

カ:第6代将軍足利義教

第5代将軍・足利義量は1425年2月に急死した。将軍の政治機能としては、実権を握っていた父・足利義持がそのまま幕政を担った事で問題は生じなかった。しかし、その足利義持が後継将軍を決めない侭1428年1月に急死する。

既述した様に、籤引きで足利家としての家督継承者は“足利義宣(後の足利義教)”に決まり“室町殿”と成るが、朝廷から“征夷大将軍職”に任官されるのは1429年3月の事であり、この間14カ月間は将軍機能が空位という状態となった。(第5代将軍・足利義量の急死から数えれば将軍職の空位は48カ月となる)

10-(2)-②:“三宝院満済”並びに幕府管領“畠山満家”の期待に反して遅れた“将軍宣下”

上述した様に歴代室町幕府将軍宣下が無く、将軍空位期間が生じた事例はあった。しかし“義円(足利義宣・義教)の場合、年齢も34歳に達して居り、門跡・天台座主・准三后と、僧官としては最高を極めた経歴の持ち主であった。僧侶(法躰・ほったい)から俗体へ還俗するという手続きが絡んでいた為“満済”並びに幕府管領“畠山満家”の期待した程には将軍宣下を得る作業は順調に進まなかったのである。

“満済”は後小松上皇の側近で武家伝奏などを務め、第4代将軍・足利義持に伺候(仕える)した公卿の“万里小路時房”(建内記の著者・生:1395年・没:1457年)に、義円が室町殿を相続した直後の1428年1月18日に、将軍宣下に関して協議を申し入れている。

協議の内容は“僧侶の身から還俗して将軍になった例は未曽有(懐良親王の例があるが、武士では無く皇子であり、しかも凶例であった事から前例と成らない)だが“義円”(還俗して足利義宣、将軍宣下を得て足利義教)”は“神判”が下った以上、無官であったり、俗人として元服をしていない事は止むを得ない事だと主張し、室町幕府として早期に将軍任官させる様に迫ったのである。

この“満済”の申し入れに対して“万里小路時房”は“座主・准后という僧官としての高位からそのまま俗官高位へのスライドはあり得ない。飽くまでも還俗し、元服を経た上で俗人としての官位をの階梯を登らねばならないと主張した。更に”髪も生え揃い、着冠が出来る時分迄待つべき“と付け加えたとされる。

1428年(応永35年)3月12日:

“青蓮院義円(還俗して足利義宣、将軍宣下を得て足利義教)“は従五位下左馬頭に叙任され、この日から俗名”足利義宣“を名乗った。

同年 4月14日:

足利義宣は従四位下に昇った。しかし将軍宣下については一向に動きが無かった。これに対して“後小松上皇は足利義宣(後の足利義教)の将軍宣下を意図的に引き延ばしたという説がある。

しかし、下記“満済准后日記”には、上皇が“幕府は(足利義宣の)将軍宣下の執奏(奏上する事)は無いのか“と催促気味に尋ねた事が記述されており、意図的に引き延ばしたとの説と矛盾する。

先度御一級御一官宣下(既述した足利義宣が3月12日に従五位下左馬頭へ任官した事)の時、仙洞(後小松上皇)として尋ね下さるゝ様、将軍宣下の事、只今は沙汰に及ぶべからざる歟(か)如何。(満済准后日記4月5日条)

この矛盾の背景には“満済”並びに“畠山満家”ら幕府重臣が“万里小路時房”の形式論理に引き摺られて将軍宣下奏上を見送っていたからだ、とする説がある。

10-(2)-③:室町殿・足利義宣と後小松上皇(朝廷)の間のスタート時点からのボタンの掛け違い状態が解消されておらず、当初は室町幕府側の低姿勢が目立つた

上述した様に足利義宣が“室町殿”として後継者になった直後から、後小松上皇との対立を示す史実が次々と起こった。日本中世史論集の著者“佐藤進一”氏は“関東に於ける鎌倉公方・足利持氏勢力、並びに後南朝勢力としては、幕府側に不安が生じれば、相互に連携を保つ機会を窺う状況下にあった。従って足利義宣(室町幕府)としては、後小松上皇(朝廷)に対して低姿勢であった“と論じている。

10-(2)-④:“将軍宣下”無しで天下の政務を行う事に正当性無しとした“清原良賢“の主張が、以後、天皇制の存在が幕府にとって不可避であるとの論理を生んだ

1428年(生長元年)5月14日:

清原良賢(きよはらのよしたか・生年不詳・没:1432年)は当代の儒宗として大外記・明経博士を務め、後光厳・後円融・後小松3代の天皇の侍読を務めた人物である。

将軍宣下が遅延する状況下、足利義宣(義教)自身が1428年6月から“足利義宣”の御判を以て天下の雑訴を成敗すべしと決定した事に対し、清原良賢はこれに断固反対し、以下の様に述べた事が“建内記”の5月14日条に記録されている。

征夷大将軍以前判断天下事無子細者、誰人モ雖非将軍、就権威可有成敗歟、此条不言之中有恐、雖将軍非可判断天下事、近代之風儀也、然者以将軍之謂、其以後以御判御成敗之条、旁可然哉、

“天皇家からの将軍宣下無しに天下の政務を行う事は不可である。天皇家から下される将軍の称号と天下の政務を行う地位とは不可分のものとせねばならない“との論理である。この論理に足利義宣(義教)が屈服したとされ、以後、幕府にとって天皇制の存在が不可避の要請である事が論理的に示された”とされる。

“天皇制の存在が不可避の要請である”という論理は今日でも日本の政治の局面で連綿と受け継がれて来ていると思われる。清原良賢の主張以前にも、日本の其れ迄の伝統的天皇家の権威、立場を革命的に変えようとした“室町幕府第3代将軍・足利義満”でさえもが、皇位簒奪の意図が無かった事は、清原良賢の主張を裏付けるものだとし、又、後の革命児“織田信長”も“天皇家廃絶”の考えを持たなかった事も、清原良賢の主張に添ったものだとする説がある。

更に、天下を統一した“徳川家康”が金地院崇伝に命じて起草した“禁中並公家諸法度(1615年・慶長20年)”で“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)“勢力の行動を大幅に制約したが、ここでも“幕府にとって天皇制の存在が不可避の要請”という“論理”は継承され、江戸幕府はこの法度を以後、一度も改正する事無く、明治維新の“王政復古”を迎えたとされる。

憲法学者の竹田恒泰氏は“新憲法下で主権は国民に在りと謳ってはいるが、実態は君民一体となって初めて主権が発揮される仕組みである。天皇と国民が一体となって主権が発揮されるという体制は日本の特異性である“と論じ、海外で“国王と民とは歴史的に対立関係にあった事との際立った違いを指摘している。

更に、戦前の“大日本帝国憲法”下と戦後の“日本国憲法”下の体制との比較に於いて、主権は天皇から国民に移った点が大きく異なるとの誤解があるが、大日本帝国憲法下でも天皇が国策を決定した(=主権行使)事例は“終戦”を決めた時の1回限りであり、行政権も大臣を通じて行使され、天皇が直接行使したのでは無い。

新憲法下で、天皇は象徴に過ぎないとされるが、実態面では天皇の機能は旧憲法との比較に於いて実質的な違いが無い。具体的には、新憲法下でも、国会の解散には“天皇の解散の詔”が必要であり、国会で決められた法律が効力を発揮するのは“天皇に拠る公布”が無ければならない。最高裁長官の任命も、外国からの大使の信任状(外交使節として正式に任命した事を派遣国の元首が発行する文書)の宛先も天皇である。この事は諸外国が日本国の元首と認めている対象が“天皇”である事を明示していると結んでいる。

上記“竹田恒泰”氏の説を敷延(ふえん=意義、意味をおしひろめて説明する)と、今日の日本の政治の局面でも、形の上では天皇制の存在が不可避の要請であるとする“清原良賢”の論理が連綿と受け継がれて来ているという事であろう。2019年4月末の退位を前に天皇陛下自身が言及された“象徴天皇の難しさ”であろう。

“日本中世史論集“の著者・佐藤進一氏は、朝廷側が主張した“清原良賢”の論理は、法体(僧侶)の義円(義宣~義教)が将軍家の継嗣となるという偶然的な異常事態に直面して、朝廷の対幕府観が出たとしている。その背景にはこの時期、室町幕府は、既述した政治不安を抱えていたという状況下にあり、朝廷側がそれに乗じて“至尊(天皇家・朝廷・公家層)”勢力の存在主張を試みた、としている。

10-(2)-⑤:鎌倉公方・足利持氏に将軍宣下があるとの噂が広がる

1428年(生長元年)8月:“北畠満雅”が挙兵する

4月14日に“室町殿・足利義宣(後の足利義教)”の官位が従四位下に上ったのにも拘わらず将軍宣下が見送られた事で、世間は“後小松上皇は鎌倉公方・足利持氏を将軍に考えている“との噂を信じる者が現われる様になって行った。この流言は鎌倉公方の周辺が意図的に流し広めた、との説もある。

こうした状況下、伊勢国司・北畠満雅が“小倉宮聖承”を奉じて挙兵(1428年8月)し、鎌倉公方・足利持氏も京に進攻すると伝えられた。こうした矢先、将軍宣下をひたすら待つ“室町殿・足利義宣(足利義教)”にとって大問題が飛び込んだ。

同年 10月中旬:後小松上皇の“出家騒ぎ”を必死に諌止した“室町殿・足利義宣”

“満済准后日記”の1428年(正長元年)10月14日条に“10月中旬、後小松上皇は出家しようとして、未だ9歳だった第102代後花園天皇(在位1428年7月28日~1464年7月19日・生:1419年・崩御:1471年)の摂政“二条持基”(生:1390年・没:1445年)に相談し“大略内々の儀、御必定なり”との記録が残っている。つまり出家が決定したのである。

この事を院使の右大弁親光が室町殿“足利義宣”に伝えたところ、驚いた足利義宣が“当御代未だ御院参なし。仍って(よって)未だ竜顔を拝せられざるの間、平に御延引、畏み(かしこみ)申すべき由”と返答、つまり、足利義宣としては後小松上皇に未だ対面もしていないとの理由を挙げ、必死で上皇の出家を諌止したのである。“後小松上皇”が出家を決意した事は史実である。しかし、この事と鎌倉公方・足利持氏への将軍宣下との関連があるのか如何かについては不明である。“後小松上皇”が室町殿“足利義宣”への将軍宣下を遅延させている事に対し、室町幕府側からの処罰を逃れる為だとの説もある。

同年 10月16日:無視出来なくなった鎌倉公方・足利持氏への将軍宣下申請の動きに関する事件・・満済准后日記

この“後小松上皇”の出家騒動は上記の様に“足利義宣”の必死の諌止で落着した。しかし、鎌倉公方・足利持氏の挙兵・上洛の噂が絶えない中で、尾張熱田大宮司の家来“吉川某”が上皇に、足利持氏を将軍にする院宣の申請をするという陰謀事件が発覚した。この事件に付いて“満済准后日記”の1428年(生長元年)10月16日条に、以下の様に記述されている。

熱田大宮司の野田は当参奉公(幕府)の者なり。親に於ては関東奉公なり。この大宮司内者(うちのもの)吉川と云ふ者、方々へ料簡せしめ、この院宣(足利持氏に対する将軍宣下)の事申し出づるの由、蜷川中務方(にながわなかつかさかた)より伊勢守方へ去月比申し了んぬ。爰(ここ)に又、吉川主人大宮司、伊勢方へ罷り出で申す様、召し仕ひ候吉川、都(京都)鄙(鎌倉)雑説について、不義の事共候の間、打ち進(まいら)すべき由、代官方へ申し付くるの処、その身に於ては逐電し了んぬ。内者一人これを打ち候。然るべきの様、披露すべしと云々

=解説=

熱田社の大宮司野田は幕府の奉公衆で、親は鎌倉府の奉公衆(御家人)である。(尾張と言う土地柄からも熱田には東西(都鄙)の情報が集まりやすかった)野田の家臣“吉川某”は(おそらく鎌倉公方・足利持氏側の働きかけもあったと思われるが)陰謀を企らみ、上皇に足利持氏を将軍にする院宣の申請を政所執事・伊勢氏の代官“蜷川中務”を通じて(9月頃に京都で)行ったのである。

蜷川中務がこれを幕府に報告(密告)した為、室町殿・足利義宣や満済等もこの情報を得ていた。しかし、余りに荒唐無稽と感じたのか、騒ぎ立てずに真相を確かめるべく様子を見ていたのである。

こうした状況を知った熱田社の大宮司野田は“吉川某”を手討ちにせんと代官に命じたが、既に吉川某は逐電しており、吉川の家来一人を殺しただけで終わった。野田はこの顛末を幕府に注進し、それが京都に届いたのが10月16日であった為“満済”が書き留めたのである。

“満済”は既述した様に4月~5月以来流布されている“鎌倉公方・足利持氏”への将軍宣下があるのではないか、との噂を“信用に及ばざる事”と無視して来た。しかし、9月の“蜷川中務”の密告に続いて10月の熱田社“大宮司野田”からの注進とが重なった為、初めて容易ならざる事態と認識し、室町殿“足利義宣”に披露したのである。

10-(2)-⑥:“後小松上皇”が鎌倉公方・足利持氏への“将軍宣下”に動いたか否かに幕府側が神経を尖らせた事を裏付ける“建内記”並びに“満済准后日記”の欠如

“満済“はじめ、幕府首脳にとって、室町殿・足利義宣の嗣立に際して”神前抽籤“(神判)という手段を用いた事がこの様な批判噴出となった事は予想外であった。

伝奏“万里小路時房”の日記にも彼が“満済”と密談した事が書かれている。内容は後小松上皇が鎌倉公方・足利持氏に“将軍宣下”を発給したか否かに就いてであった。しかし10月22日の“満済准后日記”以降、月末までこの件に関する一切の記述が無く、更に11月〜12月の日記が残存していない。

一方“万里小路時房”の日記も“建内記”の10月22日条で下記の様な記述を最後に、一切、この件に関する記述が月末まで無いばかりか、同じく11月~12月の日記が残存していないのである。

以下の“建内記”に残る記述は“一侍者”が捕まり、彼の白状から後小松上皇から鎌倉公方・足利持氏に“将軍宣下”が成されたかどうかに関して書かれたものであるが、滅多な事は書けないと、慎重になっている様子が伝わって来る。

建内記:1428年10月22日条
入夜三宝院に向ふ。妙法院賢長僧正の部屋、僧正(賢長)に謁見し密談の事あり。夜前一侍者川原に於て糾問す。小兵(衛)局伝達の由、白状すと云々。准后(満済)を以て仙洞(御小松上皇)に尋ね申さるべきの由、管領等意見有りと云々。希代の事なり。猶ほ以て不審の事なり。慥か(たしか)ならざるの間、口外に及ばざるものなり。

=解説=

“一侍者”なる僧が拷問に拠って白状したと書かれている。その罪状は仙洞(後小松上皇)に係る大事、則ち、上記した様な鎌倉公方・足利持氏への“将軍宣下”に関する事と推測される。此処で書かれた“小兵(衛)局”とは仙洞付の女官と考えられるが、外部(関東からか)から何事かを仙洞に報じたか、或は仙洞から何事かを外部に奉ずるよう依頼されたものと推測される。

いずれにせよ捕まった“一侍者”が重大な秘密を握っていた可能性がある。この段階では万里小路時房も“慥か(たしか)ならざるの間、口外に及ばざるものなり”と書いており、極めて神経質になっている様子が伝わる。

又、この件に就いて翌日の“満済准后日記”にも下記の様に書かれ“注し置くに及ばず”と、記録を憚る態度をとっている。上記した様に、以後、当件に就いては一切記していない事から“満済”も“万里小路時房”同様、滅多な事は書けないという“状況”であった事は確かである。

今暁寅の末、大舘、伊勢両人、御使(足利義宣の)として来る。一ケ条重事なり。一侍者と号する僧、究(糺)問の事これあり。彼の白状持ち来る。一見を加え了んぬ。希代の事なり。注し置くに及ばず

10-(2)-⑦:“将軍宣下”が遅れる中“室町殿・足利義宣”が強硬策に転じた事を伝える記事

武家伝奏を務めた公卿・中山定親(なかやまさだちか:生:1401年・没:1459年)の日記“薩戒記”(1418年・応永25年~1443年・嘉吉3年までの記述が残る)の1428年(正長元年)11月9日条に驚くべき記述がある。

武士、仙洞を囲み奉るの由、浮説あるの事

室町幕府の軍勢が仙洞御所を包囲したという噂が洛中の一部に流れていた事を記述した文面である。この動きを“瀬田勝哉氏”は“幕府が上記した様な状況から鎌倉公方・足利持氏軍、或はその動きと連動した伊勢(北畠満雅)軍が“後小松上皇”と連絡(将軍宣下問題に関して)を諮るのを阻止する目的で、警備の為の軍勢を配置した可能性が否定出来ないとしている。

第4代将軍・足利義持期と比べれば“籤引き”で家督相続をした“足利義宣(義教)”は“将軍宣下”をひたすら待つ極めて不安定な立場であり、朝廷に対して低姿勢に徹し、事を荒立てない方針で動いて来た。しかし“将軍宣下”は引き延ばされるばかりか“鎌倉公方・足利持氏”へ下されるとの噂が頻りに流れた1428年10月以降に至ると“室町殿・足利義宣”は態度を変え、強硬策に転じた可能性も否定出来ない。

上記“薩戒記”にある“仙洞包囲”が単なる噂であったのか、史実であったのかは不明であるが、この時期を境に“後小松上皇”並びにその他からの幕府に対する抵抗も影を潜そめ、又“後小松上皇”と結び付こうとする“反幕府勢力”の動きが途絶えた事も確かである。

11:後南朝派の“北畠満雅”を敗死させる

11-(1):“北畠満雅”が再挙兵する

1428年(生長元年)8月:

“北畠満雅”は1415年(応永22年)4月に後亀山法皇が吉野への出奔した事を受けて、伊勢で後亀山上皇(法皇)の皇子“小倉宮恒敦”を奉じて挙兵し、8月に後亀山上皇(法皇)の仲介で和睦した事は前項A-2-(3)で既述した。

その彼が13年後の1428年(生長元年)8月に、今度は1422年に没した“小倉宮恒敦”の子“小倉宮聖承”(生:1406年?・没:1443年)を奉じて再挙兵したのである。その背景には、病状が重篤と成った“称光天皇”の後継に“彦仁王”(伏見宮貞成親王の王子・後の後花園天皇)”を1428年7月上旬に擁立する動きが本格化し、これを逸早く察知した南朝皇胤、小倉宮聖承が7月7日夜に嵯峨から逐電し、伊勢国司“北畠満雅”を頼り、7月10日に国司在所“興津”に到着したという事があった。(満済准后日記:1428年7月8日&19日条)

“北畠満雅”が、鎌倉公方・足利持氏と連絡をとりつつ挙兵したと“闇の歴史、後南朝“の中で著者“森茂暁”氏は述べているが、裏付ける史料については記されていない。。

11-(2):“北畠満雅”の敗死・・“後南朝”方による反幕行動の終息

1428年(生長元年)12月21日:

幕府は伊勢国守護に土岐持頼(=世保持頼・よやすもちより・土岐康政の子・生年不詳・没:1440年)を任じ、北畠満雅討伐に向かわせ、伊勢国安濃郡岩田(現在の三重県津市)の戦いで敗死させたのである。この戦いには左波(沢)並びに秋山といった大和の国人が合力した(満済准后日記)が、北畠満雅は結局、鎌倉公方・足利持氏側からの支援を得る事無く討ち死にしたのである。

師郷記(もろさとき・大外記を務めた貴族、中原師郷の1420年~1458年迄の日記)の1428年12月24日条には”今日勢州(伊勢国の別名)飛脚到来。国司少将満雅(北畠満雅)去る二十一日合戦、討ち死にすと云々。朝敵たり。天下大慶なり“と伝えている。

更に“北畠満雅”の首は12月26日に京に届き“室町殿足利義宣”が首実検をしたと書かれている。そして12月27日に六条河原に晒されたとある。

奉じられた“小倉宮聖承”はそのまま伊勢国に残り、抵抗を続けたが、北畠満雅の弟“北畠顕雅(生没年不詳)”が1430年4月に幕府と和睦すると、幕府の要請に従って“嵯峨大覚寺“に戻っている。

12:尚も頻発した“土一揆”

1428年11月:

室町幕府は“生長の土一揆”以降、一揆禁止令を出して狼藉を禁じた。しかし“土一揆”はその後も頻発したのである。

12-(1):“播磨国一揆”と“大和国宇陀郡土一揆”

1429年(生長2年)1月:

1428年11月に奈良にまで及んだ“生長の土一揆”は一応の終息を見た。ところが、一連の一揆で鎮圧に当たった播磨国守護“赤松満佑”が地元で住民に対して過大な兵糧を課した事に反発し“播磨国一揆(土一揆)”が起った。この一揆は、赤松軍の撤去と荘園代官排除を求めたものであったが、領主“赤松満佑”が急遽、地元に帰って対応した為、鎮圧された。

又、大和国宇陀郡でも土一揆が同時期に起った事が記録されている。幕府の“一揆禁止令”にも拘わらず、庶民の自治意識、連帯意識の高まりは、簡単に一揆を為政者が抑えつけられる状況では無く成って来ていた処に、将軍宣下を得られないという“室町殿・足利義宣”の不安定な政治期を狙って、幕府と山門との戦い、並びに“土一揆”が頻発したのである。

13:室町殿“足利義宣”の元服

1429年(生長2年)3月9日:

還俗して足利義宣(生:1394年6月・没:1441年6月)と名乗ったのが1428年(応永35年)3月12日であったからほゞ丸1年経って、元服の運びとなった。

足利義宣(後の足利義教)は既に35歳に達して居り、官位は左馬頭、従四位下であった。僧侶から還俗して1年後の毛髪は20cm程には伸びていたと思われるが“建内記”には“髪がなお短く、烏帽子を着け難いので補助具としての、烏帽子懸けを用いざるを得なかった”とある。尚、足利義宣の元服式の全容については群書類従“普光院殿(足利義教)御元服記”に詳しく記載されている。

14:待望の“将軍宣下”が為され、足利義宣は晴れて“征夷大将軍”に任じられた。再び改名し、室町幕府第6代“足利義教”が誕生する。

1429年(生長2年)3月15日:

元服して僅か6日後に先ず参議、左中将に任じられ、其の後“征夷大将軍”就任というステップを踏んだ。この際“足利義教”に改名している。理由は“よしのふ”は“世を忍ぶ”に通じるとして避けたと“看聞日記”にある。

1428年(応永35年)正月に34歳でいきなり仏門から俗世の政治の世界に転身し“室町殿”の座に就いた。同年3月の還俗を経て1年後の1429年(正長2年)3月に念願の元服を果たし将軍宣下を得たのである。室町幕府第6代将軍・足利義教にとってこの1年と2カ月は独り立ちする為の大急ぎの準備期間であった。

“籤引き将軍足利義教“の著者”今谷明“氏は”室町殿・足利義宣“にとってこの間は、北畠満雅を討ち、後南朝派の反幕勢力の動きを抑え”仙洞包囲(史実としての裏付けは無いが)“という強硬策に拠って、鎌倉公方・足利持氏に対する示威行為も奏功し、将軍宣下問題に決着を付けた期間であったと総括している。

一方、この期間は、政権基盤を固め乍ら将軍宣下を得るに至った体験を“足利義教”に与え、その自信が愈々、衆議に諮る政治から独裁的・専制的な政治を指向する方向に傾かせたとしている。

15:室町幕府第6代将軍“足利義教”の政治スタンス

15-(1):父・足利義満政治への復帰

安田次郎氏はその著“日本の歴史・南北朝・室町時代”の中で“足利義教は兄・足利義持に対する反発を抱き、父・足利義満の政治期への回帰を目指したと書いている。

中でも“対明関係”の復活で1432年(永享4年)8月に明国に表(国書)を持たせた使者を派遣し、自ら渡唐船を見送りに兵庫津迄出掛けた行為は、第3代将軍の父・足利義満を彷彿とさせる。こうした足利義教に拠る対外姿勢の軌道修正は、結果として1434年(永享6年)6月に“明”からの遣いが入洛し“将軍・足利義教”を“日本国王”に封じるという展開に成る。

この時の明使に対する儀礼は、父“足利義満”が行った“三拝”などを簡素化した形で“明国“の“国書”を受け取った事が伝わっている。

15-(2):改名に見られる旺盛な統治者意識

義円は還俗し“義宣”と名乗った(1428年3月・応永35年)。この時の理由は“宣”の字には“決断”の意味がある事から天下の政務を決断する将軍に相応しい名前だとの事であった。そして、1429年(生長2年)3月15日に“将軍宣下”を得た時点で再度“義教“と改名した(看聞日記)。

諸説があるが、既述した様に“義宣”は音で読むと“世を忍ぶ”を連想させるものとして嫌ったのがその理由の一つとされるが“建内記”には“教“の字に拘った理由として”特為上人御名字相応者也、万国弥可応御政教之兆歟“とある。つまり、晴れて将軍宣下を得る段になった足利義宣(義教)が、改名の文字に将軍の地位を象徴させる“教”の文字を好んだと書かれている。

これ等の事から将軍宣下を受け、晴れて室町幕府第6代将軍職に就いた“足利義教”は、強烈な将軍としての“権力意識”を当初から抱いていた事に加えて、自分が“神慮”に拠って選ばれた事に強い“自負”を持っていたとされる。

こうした旺盛な統治者意識が政治面に早速現われたのが“御前沙汰”方式への変更であった。従来、幕府管領主導の下で行われて来た政務や訴訟の審理を、先ずは将軍の御前で行なわせ、将軍自らが裁断を下すという方式に変えたのである。

15-(3):室町幕府・第6代将軍としての政治を支えた“装置”としての“和歌会”

中世社会では文芸は政治と密接な関係を有したとされる。なかでも“和歌”はこれに遅れて市民権を獲得した“連歌”と同様、政治への架け橋の役割を果たした。将軍・足利義教は文芸のサロンを巧みに操る事によって政権運営の為の“装置”として機能させた。従って足利義教政権の性格を論ずる時に文芸面(和歌と連歌)での動きは避けて通れないとされる。

15-(3)-①:足利義宣(義教)主催の“和歌会”並びに“連歌会”の初見

“満済准后日記”には“足利義教”主催の和歌・連歌会の記事が頻出するが、足利義宣(義教)邸での“月次和歌会“は1428年(生長元年)4月29日(改元2日後で”義円“から”足利義宣“に改名・1428年3月・した1カ月後)が初見である。将軍宣下を受ける1年も前から行っていた事が分かる。“連歌会”に就いては、将軍宣下を受け(1429年3月)新造成った室町殿御会所(1429年11月)で催された事が1430年(永享2年)正月19日付の“満済准后日記”にあり、これが初見とされる。

15-(3)-②:和歌会並びに連歌会の主要メンバー

①:二条持基(公家・摂政・関白)
②:三条西公保(さんじょうにしきんやす・公家)按察使大納言
③:三条実雅(さんじょうさねまさ・公家)右中将・中納言
④:満意(寺家)・・聖護院准后
⑤:満済(寺家)・・足利義満猶子・黒衣の宰相・三宝院准后
⑥:義運(寺家)・・実相院僧正
⑦:山名時熈(常熈・武家・宿老)・・右衛門督入道  
⑧:赤松満佑(武家)左京太夫入道
⑨:赤松満政(武家)・・近習・上総介・播磨守
⑩:一色持信(武家)・・御供衆・小侍所別当・兵部大輔・左京太夫
⑪:赤松義雅(武家)・・赤松満佑実弟・伊予守
⑫:細川持之(武家)・・幕府管領・右京太夫

足利義教が“和歌・連歌会”を政治運営の装置として考えたとする理由は、上記メンバー全てが当時の公武、僧俗世界の代表的人物を網羅したものでは無く、足利義教が恣意的に選んだ顔ぶれであるが(例えば“斯波義淳”の様に、幕府管領を務めた重臣であり乍ら、常に将軍・足利義教に諫言した人物であった為かメンバーに加えていない)公家では摂政・関白の上層貴族達、武家では幕府管領を初めとした有力大名達、僧侶では門跡や僧正等の高僧達、加えて名だたる遁世者達と言った“当時の社会の支配層”の代表から成っていた事にあるとされる。

従って、公武、僧俗という身分階層や精神世界の枠を超えて選抜された人々が参集して営まれていた和歌・連歌会のメンバー構成であり、政治を行なう上で“サンプル”たり得る社会構成を成したメンバーであると将軍・足利義教は考え、この“和歌・連歌”の会を政治面で最大限に活用したと“室町幕府崩壊”の著者“森茂暁”氏は論じている。

15-(3)-③:“新続古今和歌集”の執奏を行った“将軍・足利義教”

1433年(永享5年)8月15日:

平安期から室町期に至る間に天皇(上皇)の勅命を受けて撰集された“勅撰和歌集”は全部で21種ある。

鎌倉時代迄は文字通りの勅撰であったが、武士が出現し、幕府が政治的、文化的な力を備えるに従って“武家執奏(幕府から朝廷への申し入れ)”を受けて撰集が開始されるケースが生れた。最初が“南北朝期”の1356年6月(延文元年)に“足利尊氏”の執奏により、再興された“北朝”の“後光厳天皇(北朝第4代天皇・在位1352年~譲位1371年”の綸旨が下り、二条為定に撰進が命ぜられ、1359年(延文4年)に成った“新千載和歌集(二十一代集の18番目)”である。

続く“新拾遺和歌集(二十一代集の19番目)”も室町幕府第2代将軍“足利義詮”の執奏により、同じく北朝・後光厳天皇が1363年(貞治2年)に綸旨を下し、二条為明が撰者となり、1364年(貞治3年)12月に成った。(二条為明が没した為、頓阿が引き継いだ)

更に“新後拾遺和歌集(二十一代集の20番目)”が第3代将軍“足利義満”が1375年(永和元年)“後円融天皇(北朝第5代天皇・在位1371年~譲位1392年)”に執奏し、二条為遠が撰者となり1383年(北朝・後小松天皇・永徳3年)に成っている。(二条為遠が没し、二条為重が引き継いでいる)

そして最後の勅撰集“新続古今和歌集(二十一代集の21番目)”を第6代将軍“足利義教”が1433年(永享5年)8月15日“後花園天皇”に執奏し、8月25日に権中納言“飛鳥井雅世”(あすかいまさよ・生:1390年・没:1452年)に撰者としての下命が為されたのである。

政治を“神慮”に委ねる足利義教は“新続古今和歌集”の撰集が“神慮”に叶うかどうかを和歌の神として名高い“住吉社”と“玉津島社”の神前でクジを引き、神意に叶うという結果を確認した上で、正式に朝廷に執奏した事が“満済准后日記”に書かれている。そして“新続古今和歌集”は1439年(永享11年)6月27日に成立している。

この和歌集の序文は室町時代随一の文化人とされる“一条兼良”が執筆している。尚、後花園天皇(第102代天皇・生:1419年・崩御:1471年)は次の勅撰集も計画していたとされるが“応仁の乱”の勃発で中断し、以後、勅撰集は編まれる事はなかった。

“新続古今和歌集”には、発意者である“将軍・足利義教”の18首が入集しており、当然の事乍ら武家では最も多い。

尚、これまで武家執奏に拠って成立した“新千載和歌集・新拾遺和歌集・新後拾遺和歌集”の何れにもかなりの比重を占めて来た“後醍醐天皇”の歌が今回の“新続古今和歌集”では忽然と消えている。この事は、将軍・足利義教の後醍醐天皇に始まる“後南朝”に対する敵対意識が如実に反映されたものとされている。

15-(4):“永享改元”で主導権を“将軍・足利義教”に譲った“後小松上皇”

1429年(生長2年=永享元年)9月5日:

伝奏“万里小路時房”から“満済”に“後花園天皇”の代始改元の申し入れがあった。名目的には1428年7月28日に践祚した後花園天皇の“代始改元”ではあったが、その際の事情を記録した“満済准后日記”の9月4日条からは実質的には“将軍足利義教”の“代始改元” と解されてもおかしくない政治状況にあった事が分かる。

元来、年号選定の権限は“治天下”つまり“後小松上皇”にあるのだが、下記に挙げた状況から、実際には将軍・足利義教のリーダーシップが“後小松上皇”を凌駕し“永享”に決まった事が分かる。

①:この日“足利義教”より“万里小路時房”(大納言・伝奏)が“満済”に遣わされ、明日(9月5日)改元定が行われるとの仰せがあった
②:年号候補の中から“宝暦・永享・元喜”が選ばれた
③:後小松上皇は“宝暦”が本意であったと伝わる。しかし“武家御意見(足利義教)に任せるべき”との伝えがあった
④:足利義教は“宝暦”は“謀略”に通ずるとの懸念から、当時10歳の“後花園天皇”の摂政であった“二条持基(生:1390年・没:1455年)”と満済の意見を求めた
⑤:満済は“後漢書”の“永く無窮の祚(さいわい)を亨(うける)く”という文から採った“永享”を用いる事を薦める一方、新年号の決定は“叡慮(天皇)”が決めるべきだと“後小松上皇”に申し入れるべきだ、と“万里小路時房”に伝えた
⑥:将軍・足利義教が摂政・二条持基の意見は如何かと尋ねている事を“満済”が“万里小路時房”に伝えた。摂政・二条持基は“満済の意見に同じ(永享)”との答えであった。

以上で明らかな様に、年号に関して“後小松上皇”の本意と“将軍・足利義教”の意見は異なっていたが、後小松上皇が“足利義教の意見に従うべし“とした事で”永享“に決定した。この時点で政治の主導権は“室町幕府第6代将軍・足利義教”が“後小松上皇”を凌駕した事が明確となったとされる。

16:南朝後胤“小倉宮聖承”を嵯峨に帰還させ“後南朝”勢力の動きを鎮めた“将軍・足利義教”

16-(1);“椿葉記”の記事

1430年(永享2年)4月~同年11月・・“小倉宮聖承”の嵯峨・大覚寺への帰還と“小倉宮教尊”の出家

兄“北畠満雅”が討たれた(1428年12月)後に弟の“北畠顕雅(=大河内顕雅・おおかわちあきまさ・生没年不詳)”は未だ満6歳だった兄の子で継嗣の“北畠教具(きたばたけのりとも・生:1423年・没:1471年)”を助け、伊勢国司家の命脈維持に務めた。



=伊勢国司北畠氏の略系図=
=小倉宮三代(恒敦ー聖承ー教尊)系図=
(森茂暁著・闇の歴史後南朝より)



結果、北畠家は宥免(罪を大目に見て許す)され、旧領の“一志郡、飲高郡”が返還された。その代わりに“北畠満雅”が奉じた“小倉宮聖承”を嵯峨に帰還させるという室町幕府側の条件を呑んだのである。その間の状況を“伏見宮貞成親王”が“椿葉記”の中で回想する形で書き残したのが下記である。

さてもこのしはすに、南方の御叛反、伊勢の国司打出て土岐の与安(世保を称した土岐持頼の事)と合戦するほどに、国司(北畠満雅)打ち負て、やがてうたれぬ(1429年12月21日)。その頭、宮こへのぼりて四塚に懸らる。そののち、小倉(小倉宮聖承)殿は降参ありて(1430年)、又、嵯峨へ帰いらせ給(1430年㋃)。御位競望の宮(小倉宮聖承の子・教尊)は勧修寺の門跡へ入室ありて、やがて御出家あり(1430年11月)かやうにならせ給も、ただ君(彦仁=第102代後花園天皇・在位:1428年生長元年7月28日~1464年譲位)の御運にてぞわたらせ給

文中の“小倉宮教尊”は“小倉宮聖承”の息子であり、当時12歳だった。彼が出家する事も幕府との交渉条件の中に入って居り、将軍“足利義教”は彼を猶子とし“教”の字を偏諱として与え“小倉宮教尊”を名乗らせ、門跡寺院“勧修寺(かじゅうじ・京都市山科区勧修寺仁王堂・開基第60代醍醐天皇:創建900年)”に入らせた。かくして将軍職に就いてほゞ1年後に“足利義教”は大懸案事項であった“後南朝派”の動きを封じる事に成功したのである。

16-(2):室町幕府が伊勢国司家“北畠家”を宥免した事情

幕府が伊勢国司家の“北畠家”を宥免した背景には、鎌倉公方・足利持氏の動きへの警戒と、当時の社会不安の増大に拠る“一揆”への警戒という事情があった。又、伊勢国司家を守るべく“北畠顕雅(=大河内顕雅)”が幕府に働きかけた際の幕府側で彼に協力した“赤松満佑”の力もあった。

“赤松満佑”は“小倉宮聖承”の嵯峨帰還を実現させた功労者として再び室町幕府内での名声を高める事に成り、この結果、前項E-1-(1)で記述した様に足利義持期の最晩年の討伐寸前の状態から再び浮かび上がると共に、伊勢国司家との結び付きを強める事になったのである。

16-(3):冷遇された嵯峨帰還後の“小倉宮聖承”

1430年(永享2年)4月:

“小倉宮聖承“の嵯峨帰還については幕府側が望んだという事から”小倉宮聖承“側には“条件”への期待があった(“闇の歴史後南朝”森茂暁著)。ところが、料所(領地)問題として、旧領については、同じ南朝系の宮家で、小倉宮家とは対照的に室町幕府体制に順応的態度をとって来た“護聖院宮(ごしょういんのみや)”の所領扱いになっていたのである。

小倉宮の帰京後の生活費については、諸大名が国役として“万疋(まんひき=大金)”を供出する事で交渉がまとまったと“建内記”に記されている。

この国役には“小倉宮御月方向俸”と名前が付けられた。しかし諸大名が“小倉宮聖承”に供出する金銭納入は滞りがちであった。その為、彼の生活は著しく圧迫された。月捧は3000疋(ひき=銭を数える単位。初めは10文、後に25文を1疋としたとの記事がある)と定められ、諸大名が供出し合い、12月には年越し用経費として20,000疋(200貫)を支給するという取り決めであったが、諸大名がきちんと供出する保証はどこにも無かったのである。

16-(3)-②:“小倉宮聖承”の出家と最期

1434年(永享6年)2月:

“小倉宮聖承”という名は言うまでも無く出家後の法名である。月俸3000疋を諸大名合意の下で分担供出するという約束は果たされず、小倉宮の経済的窮状を“満済”が1432年(永享4年)2月に時の幕府管領“斯波義淳”に申し送った記事がそれを裏付けている。

小倉宮月俸、諸大名結番せしめ、毎月三千疋、去年以来その沙汰を致すべき旨領掌申す処、一向に面々無沙汰。すでに餓死に及ぶべきやの由、小倉宮状をもって歎き申さるゝなり

“小倉宮聖承”は“窮状”を満済に書き送ったものの、事態は悪化の一途を辿り、遂に1434年2月に出家に追い込まれた事が“満済准后日記”1434年(永享6年)2月25日条に書かれている。

人情に厚く、同時代人から“天下の義者”と賞賛された“満済”は“小倉宮聖承”の処遇を哀れんだが一方で、室町幕府にとって問題の火種と成り兼ねない“南朝皇胤”が出家をする事は好ましい事であった。

その後の“小倉宮聖承”は病に侵され1443年(嘉吉3年)5月7日に37歳(?)で没したと伝わる。

17:将軍・足利義教の天皇家に対する対応

1433年(永享5年)正月3日

第102代後花園天皇は、満14歳になった1433年(永享5年)正月に元服式を行った。曽祖父の崇光院(北朝第3代天皇・在位1348年~1351年・生:1334年・崩御1398年)と同じ年令であった。

加冠役は摂政“二条持基”(称光天皇の関白・生:1390年・没:1445年)で、将軍足利義教が理髪役を務めた事が“椿葉記”に書かれている。万事、足利義教のシナリオ通りに儀式は厳粛に行われたとある。

17-(1):“後小松院”の崩御と“後花園天皇”が諒闇(りょうあん)を行うべきか否かの議論・・後花園天皇の実父・伏見宮貞成親王が否定的態度を示す

1433年(永享5年)10月20日:

“後小松院”(第100代天皇・在位1382年~1412年・生:1377年・崩御:1433年)が、満56歳で崩御した。そして、1428年(生長元年)7月に後小松院の猶子と成り、天皇として践祚した“後花園天皇”が果たして諒闇(りょうあん=天子がその父母の喪に服する期間)を行うべきか否かの議論が持ちあがった。

後花園天皇の実父“伏見宮貞成親王(後崇光院・生:1372年・没:1456年)”は、北朝初代光厳天皇の第一皇子で北朝第3代崇光天皇の系統である。当時61歳で健在であり、実子“後花園天皇”が“後小松院”の猶子ではあったが、その諒闇を行う事に消極的であった。その為、この問題が複雑化したのである。

その背景には皇統に対する“伏見宮貞成親王”の根強い拘りが関係している。つまり“伏見宮貞成親王(後崇光院)”にとって、実子“後花園天皇”は崇光院流(北朝初代光厳天皇の第一皇子で北朝第3代天皇となった)つまり“北朝内での嫡流”に漸く戻った天皇であり“後小松院”の皇統(北朝の初代から3代の天皇が拉致されていた間に天皇家を三種の神器無しに継承した北朝4代後光厳~北朝5代後円融~北朝6代=南北朝合一が成って歴代100代後小松天皇となった)に埋没させたく無いとの強い意志があったからである。

この皇統に関する歴史は“南北朝時代”という皇統の大混乱の時代に關係している。既述した様に“南朝と北朝”いずれが正統かの議論が連綿と日本史上闘わされて来た。この問題は更に“観応の擾乱(1350年~1352年)期に”足利尊氏“に拠って生じた”北朝“内での“皇統の継承”によって一層複雑となったのである。

 “正平一統(1351年~1352年)の破綻で南朝側によって光厳(北朝初代)・光明(北朝第2代)・崇光(北朝第3代)の3天皇が吉野に拉致された事は既述の通りである。その間、天皇不在の状況に足利尊氏が強引に“神器無し”で“北朝第4代天皇”として擁立したのが“後光厳院(在位1352年~1371年・生:1338年・崩御:1374年)“であった。以後”北朝“として後円融天皇~後小松天皇と繋がれ、其の後南北朝合一が成り、後光厳の皇統を継ぐ”称光天皇“という”神器無しの天皇(後光厳天皇・後円融天皇)を含む皇統“が続いた事は既述の通りである。

北朝初代~3代迄を北朝方の嫡流と見做し、自らも“崇光院流”の皇統を嗣ぐ“伏見宮貞成親王”としては実子の“後花園天皇”を“後小松院”の諒闇を行う事で再び”神器無しの天皇を含む皇統“に埋没させたくないという強い意志が働き “後花園天皇”が 後小松院の諒闇(りょうあん)を行う事に否定的態度を示したという事件であった。

=上記を南朝・北朝の皇統関係図、並びに後亀山皇統の小倉宮系図を含めて纏めたもの=



17-(2):諒闇を勧めた“満済准后”と“看聞日記”に書かれた“伏見宮貞成親王”の強い非難

1433年(永享5年)10月23日条・・“満済准后日記”

将軍足利義教は“後小松院の遺志は、後花園天皇は諒闇を行うべきとの事であろうが、後花園天皇としては、諒闇を行う事は神慮に違う事と考えているのではないか“と満済に問うた処、答は“室町殿(足利義教)の為にも後花園天皇は諒闇をきちんと行うべき”と答えた事が記されている。

“室町幕府崩壊“の著者・森茂暁氏は”この事は足利将軍家と後光厳院流皇統(後光厳天皇~後円融天皇~後小松天皇に続く神器無しの天皇を含む皇統)との間には、将軍位と皇位を互いに保証し合う公武御契約が取り結ばれていると満済は考えており、それが当時の国家体制の核心であった事を明確にした重要な記述だ”と論じている。

1433年(永享5年)11月23日条・・後花園天皇の諒闇を勧める”三宝院満済“を非難した”伏見宮貞成親王(後崇光院)“

一方、伏見宮貞成親王(生:1372年・没:1456年)は、後小松院崩御(1433年12月)後は”後花園天皇“の実父として存在感を見せる様に成っていた。後の事となるが、1447年11月には“太上法皇”の尊号が贈られ、法皇(後崇光院)として処遇されるのである。

その”伏見宮貞成親王“としては”満済“の”後光厳流皇統擁護“の姿勢を明確にした”後花園天皇は諒闇をきちんと行うべき”の考えは不満であり、満済に対する非難を”看聞日記“に下記の様に記している。

諒闇(天皇がその父母の崩御に当たり喪に服する期間)については将軍・足利義教はその実施に反対していたが、後光厳院流(後小松院)の不断絶を企図する“満済”達が企んだ事である。崇光院が南朝の(拉致から)解放されたのは、自分(崇光院)の子孫を帝位に立てる事をしないという御告文を書いたからだとし“満済”はその御告文を盾にして“崇光院流には皇位継承の権利が無い“と言うが、おかしな事だ”

17-(3):籤を引き“神意”を伺い“諒闇”を行った“後花園天皇”

1433年(永享5年)11月6日:

結果として“後小松院”の“諒闇の儀“が開始される事になった。”後小松院“が崩御した日(1433年10月20日)に、公家達は群参したが、将軍・足利義教は参じていない事が看聞日記(1433年10月21条)で明らかと成っている。その上、同10月27条には葬送参列にも不参を決め込んだ事が書かれている。これ等の記録から、足利義教が“後小松院“に悪感情を抱いていた事は明らかである。

一方“足利義教”は“後花園天皇”に対しては、擁立に自らが深く関わった事、元服の際に“理髪役”を務めた事、又“後花園天皇”の実父”伏見宮貞成親王“とは親しい関係であった事等から、後花園天皇をはじめ、崇光院流の”伏見宮家“に対しては、後光厳院流よりも好意的であった事が伝わる。

結果的に“満済”の主張を受け容れて“後小松院”の“諒闇の儀“は開始されたが、1433年11月6日付・満済准后日記、並びに、看聞日記・1433年(永享5年)12月23日条の”山責(山門攻撃)事ニ、洛中物忩(ぶっそう=物騒)“の記事が示す様に、幕府は延暦寺衆徒蜂起に対する”山門攻め“の最中であり、将軍・足利義教の心中は”諒闇問題“どころではなかったと思われる。

18:足利義教の公家に対する考え方

“建内記”の1428年(生長元年)6月19日条に“満済”が伝奏“勘修寺経興(かじゅうじつねおき・生:1396年・没:1437年)“に足利義満・足利義持・足利義教三人夫々の公家、武家に対する態度の相違について語った事が記述されている。

①足利義満:大名に礼を厚くする事はあっても武家を公家の上にはしなかった
②足利義持:公家よりも幕府管領を重んじたが大名を軽んじた
③足利義教:父・足利義満と同じく“武家伝奏”等の特定公家を重んじ、武家の中では“幕府管領”を重んじたが、大名達を軽んじた

19:鎌倉公方・足利持氏が関東で不穏な動きを続ける状況下、北部九州地区では、大内盛見が戦死し、乱国状態に陥る

“足利義教”政権の特質を“室町幕府崩壊”の著者“森茂暁”氏は、第4代将軍・足利義持の政治運営期との比較で論じている。

第4代将軍・足利義持期の政治運営に根本的な影響力を持ったのは、幕府管領・畠山満家等、重臣クラスの大名達に拠る合議制や意見制であった。この手法は第6代将軍・足利義教の政治期の前半期にも見られた。しかし、足利義教が神前での“籤引き”に拠って嗣立された事は、歴代足利将軍の中で足利義教だけが持つ顕著な特徴となって現われ、この事を避けて足利義教の政治期は語れないとしている。

足利義教期の政治課題の中で、最大の懸案事項は、代々の室町殿を悩ませて来た“鎌倉公方“が繰り返す不穏な行動であった。前項で詳述した第4代将軍・足利義持期から続く、関東の支配権を巡る第4代鎌倉公方“足利持氏”との抗争は、室町幕府第6代将軍・足利義教期に入って、益々室町幕府を悩ませたのである。

“後南朝勢力”も侮れない政治案件であったが、既述した様に1428年に“北畠満雅”の敗死で一応の決着を見ていた。

19-(1):幕府管領職への就任を固辞した“斯波義淳”

斯波氏は足利一門の中でも将軍家に最も近い家格を誇り、その当主は“武衛(ぶえい)”と呼ばれた。“斯波義将”以降、斯波氏当主が左兵衛督や左兵衛佐に任じられた為、同家は兵衛府の唐名である“武衛”に因んで“武衛家”と呼ばれた。

この“武衛家”も後に領国であった越前国が守護代の“甲斐氏・朝倉氏”に牛耳られ、尾張国も守護代の“織田家”が台頭して牛耳られる様になり、没落して行く事になる。

将軍・足利義教の政治期に第13代幕府管領職に就いたのは“斯波氏”7代当主“斯波義淳(しばよしあつ・在職1429年~1432年・生:1397年・没:1434年)“である。父親は室町幕府第7代管領職を務めた斯波義重(在職1405年~1409年)であり、祖父は斯波氏の最盛期を築いた“斯波義将”であった。

祖父“斯波義将”は6-14項2-(5)で記述した様に、斯波氏に拠る幕政支配を目指すべく、当時未だ12歳だった孫の“斯波義淳”を第9代幕府管領職に就けた。しかし、宿老でもあった祖父・斯波義将が歿する(1410年5月)と、足利義持は“畠山満家(在職1410年~1412年)”に幕府管領を交代させた。若年だったとは言え、この時、斯波義淳は幕府管領職を在任期間、1409年~1410年という極めて短期間で交代させられたという苦い経験を持っていたのである。

19-(2):征夷大将軍宣下を受けた将軍足利義教(35歳)が“斯波義淳(19歳)“に幕府管領職就任を要請し続けた経緯

斯波義淳は1418年8月に父・斯波義重(斯波氏6代当主・1402年に斯波義教に改名・生:1371年・没:1418年8月10日)が没した為、その後を継いで越前・尾張・東江の守護職に就いていた。

1429年(生長2年)8月:

2度目の幕府管領職を務め、年齢も57歳に達し、かねてから辞意を表明していた畠山満家(第1回目管領職在職・1410年~1412年・第2回目1421年~1429年)の後任として、3月に晴れて将軍宣下を受けたばかりの足利義教は“斯波義淳”を指名したのである。

同年 8月19日~21日:

将軍・足利義教は将軍御所に武衛家(斯波氏当主家)執事の“甲斐将久(=常治・生年不詳・没:1459年)“を召し、斯波義淳の幕府管領職就任を命じた。これを聞いた斯波義淳は翌20日に三宝院満済を訪ね“管領職辞退”を伝えている。

“満済”は21日に斯波義淳が辞退した旨を将軍・足利義教に伝えたがこれを許さず、再び“甲斐将久”を召し出し、満済と共に斯波義淳を説得し幕府管領職に就任する様、強く迫った。

同年 8月22日~24日:

8月22日、尚も頑なに幕府管領職就任を辞退する斯波義淳の説得を諦めない将軍・足利義教は重臣の山名時熈(常熈)・細川満久・赤松満佑の3名に意見を求めた。3名共に“尚も斯波義淳に管領職就任を命ずるべし“の答えであった。しかし斯波義淳は“甲斐将久”を遣わし“先日申した様に主君、斯波義淳は管領の器では無く、公方(足利義教)様を思うが故に管領職就任の説得は出来ない“として辞退の姿勢は変わらなかった。

それでも諦めない将軍・足利義教は遂に自らが武衛邸(斯波氏当主家)に乗り込む構えを見せたのである。

この前例の無い行為に慌てた“満済”が将軍の御内書を携えて武衛邸に赴き、最後の説得を行った。その説得に、巳の初刻(午前9時)から申の刻(午後3時~4時)を要したとされ、流石の斯波義淳も幕府管領職を受諾したのである。尚、将軍足利義教の御内書には下記の様に書かれてあったと“満済准后日記”にある。

将軍義教御内書 (満済准后日記)
管領職事。以別儀領掌候者為悦(候)。
尚々不可有辞退之儀候也。
八月廿四日
左兵衛佐(斯波義敦)殿

こうして将軍・足利義教の執拗な説得工作に根負けした斯波義淳は、凡そ20年振りに幕府管領職に復帰した。しかし翌1430年(永享2年)の記録には早くも幕府管領職の辞職を求める動きをしている。将軍・足利義教と幕府管領・斯波義淳の体制は不安定な船出をしたのである。

将軍・足利義教と幕府管領・斯波義淳の幕府内での対立は“鎌倉公方・足利持氏”と将軍・足利義教との抗争が続く中、篠川公方・足利満直が絡んだ事で決定的局面へと進むが、これに就いては後述する。

19-(3):室町幕府と鎌倉府(鎌倉公方・足利持氏)との抗争が再燃する

1432年(永享4年)9月に富士遊覧と称して将軍・足利義教が駿河に下向した事が、鎌倉公方・足利持氏を刺激し抗争が再燃した。そもそも、1428年(応永35年)正月に“義円“(足利義宣~義教)が”室町殿“の後継者として嗣立された時から、鎌倉公方・足利持氏の不満が爆発したとされる。室町幕府と鎌倉府とは抗争の歴史があった事は既述して来た通りであるが、改めて整理して置きたい。

19-(3)-①:鎌倉公方・足利持氏が鬱積させて来た“室町幕府”への不満

第4代将軍・足利義持期の1424年(応永31年)2月に鎌倉公方・足利持氏が室町幕府に起請文を入れ、同年秋には両者間の和睦が成り、抗争は一旦治まったかに見えた。しかし、既述した様に、その後の和睦交渉の過程で“鎌倉公方・足利持氏”の主張を幕府側が次々と呑んで行った事で、幕府と鎌倉府との確執解消とは程遠いものに成って行った。

幕府と鎌倉府との関係が再び悪化したのは、鎌倉公方・足利持氏が第4代将軍“足利義持”の猶子になる事を希望した事に対して、拒否された事が切っ掛けに成ったとされる。

こうした状況下、第4代将軍・足利義持が急死し“籤引き”で“義円”に室町殿が決まった事で、それを不満とする鎌倉公方・足利持氏と室町幕府との間の緊張関係が高まったのである。加えて“後小松上皇”が“将軍宣下”を“室町殿・足利義宣“に与えない状況が続いた事で、既述した様な、様々な憶測を生むと共に、両者の関係は一触即発の状態になって行ったのである。

“満済准后日記”には籤引きで“義円”が室町殿の後継者として選出されて以降、還俗~元服~将軍宣下に至る迄、時間は掛かったものの、種々の制約、並びに諸問題が連続して勃発する状況下、手際良く、スピーデイーに将軍宣下に到達出来たと評価し、その裏には、他からの横槍が入るのを避けた周囲の努力があったと書かれている。

具体的事例として“足利義持”急死後の服喪期間にしても、中陰(四十九日)の期間を“三十二日間”に引き上げる等、足利義持急死後の新体制作りを急ぐ事で、鎌倉公方・足利持氏に介入の隙を与えぬ様にした事を記述している。

そもそも鎌倉公方・足利持氏は室町幕府第5代将軍“足利義量”が18歳の若さで急死(1425年2月)した際にも、自分が後継将軍として受け入れられず、第4代将軍・足利義持が将軍職をそのまま代行した事にも大いなる怒りを抱いていたと伝わる。

19-(3)-②:両者の抗争に火を付けた“北畠満雅”の挙兵

鎌倉公方・足利持氏は1428年5月(生長元年)、籤引きに拠って室町殿後継者に選出された“義円”が還俗し“足利義宣“と名乗るという動きを指をくわえて見て居られぬ心境であった。世間も鎌倉公方・足利持氏が”上洛すべきの由、相企てらるの条勿論“と噂したと記している。

既述の様に、関東管領”上杉憲実“が諌止した為、足利持氏の京への武力進攻は一旦沙汰止みとなったが、その3カ月後の1428年8月には伊勢国司“北畠満雅”の挙兵が足利持氏も軍勢を率いて京に進攻するとの噂に火を付けたばかりか、現実味を帯びて来たのである。

1428年10月には越後守護代の長尾上野入道から室町幕府に“鎌倉公方・足利持氏陰謀の企已に必定か“の報告が入って居た。そうした状況下で”後小松上皇“が鎌倉公方・足利持氏に征夷大将軍に補する院宣を下したと風聞が立った事が“満済准后日記”の1428年10月15日と16日条に記述される程の状況に至っていたという事である。

“後小松上皇”が鎌倉公方・足利持氏に院宣を下したという話は虚説であった事は後に“万里小路時房“が“建内記”の1447年(文安4年)7月16日条で証言している。しかし、こうした風聞が立つ事自体が当時の室町殿“足利義宣(足利義教)”と鎌倉公方・足利持氏の厳しい対立関係、そして、室町殿足利義宣(足利義教)と“後小松上皇”との微妙な政治関係の両方を投影したものである。

19-(3)-③:“足利義教”が主導して改元された“永享”の元号を無視した“鎌倉公方・足利持氏”

1429年(生長2年)9月5日の“永享“への改元が実質的には”将軍足利義教“の”代始改元“だった事は既述の通りである。しかし、鎌倉公方・足利持氏はこの元号に抵抗し、使用しなかった。“鎌倉府発給文書“に“生長3年・生長4年”の文書が登場する事がこの事を裏付けている。

同様の事例が“南北朝期”に足利直冬(あしかがただふゆ・足利尊氏の落胤とされる・生:1327年・没:1387年&1400年説もあり)が”観応“と改元(1350年貞和6年2月27日が観応元年)された後も1年4カ月に亘って“貞和”を使い続けた事例に見られる。この時も“貞和7年”の日付の文書が存在した事が確認されている。

更に足利持氏の抵抗を裏付ける史実として“鎌倉明王院”で“五壇護摩”という祈祷を修させた史料が残っている。この目的は“将軍足利義教”の呪詛であった。(1430年・生長3年12月20日:明王院文書)

こうした鎌倉公方との確執に備え、室町殿・足利義宣側としては、1428年10月に周防に下向中の“大内盛見”に京都を固めるべく上洛する様要請している。(蜷川家文書1428年・生長元年・10月23日)大内盛見は要請に応じて1429年(永享元年)10月に上洛した事が記録されている。この様に“将軍・足利義教”と“鎌倉公方・足利持氏”との睨み合いは熾烈さを増していた。

19-(3)-④:将軍・足利義教が幕府管領・斯波義淳に明かさず、鎌倉公方・足利持氏に対抗する為、篠川公方と同盟した事が事態を混乱させる

将軍・足利義教が幕府管領・斯波義淳に明かさずに、鎌倉公方・足利持氏に対抗する為“篠川公方”と組んだ事が事態を混乱させた。鎌倉府からの和睦使者と足利義教との面談という機会が訪れたが、将軍・足利義教と幕府管領“斯波義淳”が対立した事で、この和睦は2年後に漸く実現するのである。

詳細は後述するが、この経緯を“室町時代の政治秩序(山家浩樹氏著)”の中で以下の様に記述している。

足利持氏(鎌倉公方)を戴く鎌倉府は親幕府の立場にある白河氏の攻撃を行ない、一方で和睦の使者を上洛させている。幕府は足利持氏に代わろうとする足利満直(第3代鎌倉公方足利満兼の弟で兄の命で陸奥国篠川に派遣され篠川公方と称された・鎌倉公方足利持氏は甥に当たる・上杉禅秀の乱後、鎌倉府体制から離脱、幕府側に付いた・生年不詳・没:1440年6月)とその与党に白河氏の援護を命じ(鎌倉府からの和睦の)使者には将軍足利義教との対面を許さない。足利満直(篠川公方)を尊重する将軍足利義教等と、鎌倉府との和睦を目指す有力守護大名達の間で駆け引きが続き、漸く2年後に将軍足利義教は鎌倉府の使者と対面し、和睦が成立、鎌倉府も永享年号に変えたのである(1431年・永享3年・8月)

上記で鎌倉府からの“和睦の使者”とは鎌倉府政所執事“二階堂盛秀(信濃守)”である。1430年(永享2年)2月に鎌倉公方・足利持氏の親善使として入洛の予定であったが、実際に入洛が実現したのは実に1年後の1431年(永享3年)3月であった。(満済准后日記)

その背景には“将軍足利義教”が幕府管領“斯波義淳”にも明かさず、秘密裏に進めていた篠川公方との同盟があり、鎌倉府からの和睦使節“二階堂盛秀”との対面を望まなかった。この為、幕府内での大きな対立が出来、幕府として鎌倉府への対応の結論が出なかったのである。この事を裏付ける記述が“建内記”の1431年(永享3年)3月20日条に残されている。

=将軍・足利義教が鎌倉府からの使者“二階堂盛秀”との対面を避けたかった理由=

将軍・足利義教は鎌倉府から離脱し、幕府寄りの動きに転じた“篠川公方・足利満直”と“対鎌倉府強硬路線“での同盟を結び、又、彼を尊重していた。その配慮から鎌倉府からの和睦使節の“二階堂盛秀”との対面を避けたかったのである。

しかし、後述する様な経過で、結果的には幕府管領、並びに諸大名の説得に折れる格好で対面をする事になる。こうした結果になった事を“篠川公方・足利満直”に釈明する“御内書”を足利義教が出している。以下が“満済准后日記”にそれを写し取った文面である。

関東使節対面の事、大名共頻(しきり)りに申旨候間、無力去十九日対謁せしめ候き(以下略)

将軍足利義教はこの対面が自分の意志に反するものであった事を釈明文書として“篠川公方・足利満直”に伝えたのである。

20:何故“篠川公方・足利満直”は室町幕府と鎌倉府との抗争に絡んで来たのか

20-(1):“篠川公方・足利満直”は鎌倉公方・足利持氏に取って代わろうとの野心をもって将軍・足利義教に接近し“鎌倉公方討伐軍”の派遣を煽った

既述の様に、室町幕府第4代将軍・足利義持の急死後に、己を差し置いて“籤引き”で新将軍が選ばれた事に激しい不満を抱いた鎌倉公方・足利持氏は1429年3月に将軍宣下が成され、室町幕府第6代・足利義教将軍が誕生すると、先例を無視して賀使も送らず、又、同年9月5日に“生長”から“永享”に改元された事にも従わず“生長”年号を使い続けた。

更に“京都扶持衆”と呼ばれる関東に於ける“親幕府派”への軍事的圧力を強め、幕府の権限である“鎌倉五山住持”の任免を京都を無視して勝手に行う等、幕府との対決姿勢を露骨に強めて行った。

第6代将軍と成った“足利義教”は、幕府を無視した鎌倉府のこうした姿勢に激しい怒りを覚えていた。彼の政治目標は、父・足利義満の治世期の姿に施策の手本を求め、兄で第4代将軍“足利義持”治世期に失墜した幕府権威を回復し“将軍親政”の復活を目指す事であった。

幕府と鎌倉府とが嘗て無い程の緊張した対立状況にあった事に目を付けたのが“鎌倉公方・足利持氏”の叔父であり、陸奥国“篠川公方”(篠川御所)と呼ばれた“足利満直(第2代鎌倉公方の次男で第3代鎌倉公方・足利氏満の弟・生年不詳・没:1440年)”だったのである。

本来は鎌倉府の奥州統治の出先機関を担う“篠川(福島県郡山市)公方”であったが“上杉禅秀の乱(1416年10月∼1417年1月)“で当主、上杉禅秀等、一族の大半が敗死し“犬懸上杉家”が没落すると、同家から後ろ盾を得ていた“足利満直(篠川公方)”は、鎌倉公方・足利持氏が更に上杉禅秀派を討伐するという状況下で、鎌倉府体制から離れる決断をしたのである。

1423年に室町幕府が“篠川公方・足利満直”を鎌倉公方に擁立する方針を固めたとされ、“篠川公方”(篠川御所・足利満直)は幕府方へスタンスを変えたとされる。

1429年(生長2年):篠川公方(足利満直)が幕府に“鎌倉公方(足利持氏)討伐軍”の派遣を要請する

鎌倉府に近い石川氏が白河結城氏や那須氏との抗争を起こし、鎌倉公方・足利持氏が之を支持すると、篠川公方・足利満直は幕府に“足利持氏討伐”の兵を送る事、並びに、下総結城氏・小山氏・千葉氏に対して自分に従う事を命じる“御内書”の発給を要請している。

3月に6代将軍職に就いたばかりの“足利義教”はこれに応じる意向を示し、山名時熈や赤松満佑も同調したが“黒衣の宰相・満済”は“先ず篠川公方の足利満直自身が出陣するのが筋では無いかと反対し、8月に幕府管領職に就いたばかりの“斯波義淳”並びに畠山満家・細川持之等も“満済”に同調し、将軍と幕府重臣との意見が割れるという事態となった。

1429年(永享元年)9月:

結果として篠川公方(足利満直)の求める将軍・足利義教の“御内書“は出されたが“黒衣の宰相・満済”が懸念した通り“篠川公方・足利満直”自身が出陣する事は無かった。

こうした状況を見た満済、さんざん固辞した上に幕府管領職を8月に渋々承諾したばかりの“斯波義淳”そして畠山満家、細川持之等、当初から将軍御内書発行に反対した幕府重臣は“篠川公方・足利満直”の力を疑問視し始め、幕府として、鎌倉府と“和解”すべきとの方針を将軍・足利義教に求めたのである。

和解案に篠川公方・足利満直は当然反対した。そして、彼を”鎌倉公方“にと考える将軍・足利義教は、鎌倉公方・足利持氏との和解を拒否する態度を示した。

幕府重臣、並びに諸大名は将軍・足利義教と“篠川公方”の同盟に反対する意見が強く、鎌倉府との抗争に“篠川公方・足利満直”が絡み、将軍・足利義教との同盟関係が出来上がっていた為、室町幕府は真っ二つに割れたのである。

20-(2):命を賭して将軍・足利義教を翻意させた第13代幕府管領“斯波義淳”

20-(2)-①:将軍・足利義教と“篠川公方・足利満直”との接近を憂慮して動いた二人の人物

幕府管領・斯波義淳と関東管領・上杉憲実(山内上杉家・8代当主・足利学校や金沢文庫再興で知られる・生:1410年・没:1466年)は将軍・足利義教と“篠川公方・足利満直”が“鎌倉府討伐強硬論“で結託する事を危険視していた。

そこで関東管領・上杉憲実は和睦の使節として鎌倉府の政所執事の“二階堂盛秀”を派遣する案を出し、幕府管領・斯波義淳を通じて将軍足利義教に伝えた。この動きに対し、既に“同盟者”の立場にあった“篠川公方・足利満直”は、将軍・足利義教に対し“二階堂盛秀”との対面をする場合には“那須氏、佐竹氏、白河結城氏等の京都扶持衆(室町幕府方)に対する軍事行動を起こさぬとの誓紙を書かせる迄は対面をしない“という条件を出して来たのである。

将軍・足利義教は”篠川公方“に、この対面条件を鎌倉府側に突き付ける事を約束したのである。

20-(2)-②:将軍・足利義教と“篠川公方”の密約(同盟)に徹底的に抵抗した幕府管領“斯波義敦”

1431年(永享3年)3月20日:

将軍・足利義教が篠川公方(足利満直)と”鎌倉府討伐強硬論“で同盟関係にある事は、幕府管領“斯波義淳”に秘密裏に進められていた。

突如、将軍・足利義教から“鎌倉府から誓紙を提出して来なければ和睦使節(二階堂盛秀)に対面しない“との通達が”満済“経由で幕府管領”斯波義淳“に届いた事が“満済准后日記“に記されている。

同年 3月22日:

これに対し斯波義淳は“そもそも鎌倉府と篠川公方の言い分には食い違いが多すぎる。無条件で鎌倉使節“二階堂盛秀”と対面すべきである“と、将軍・足利義教に進言し、鎌倉府からの和睦使節への対応を巡って真っ向から対決したのである。

この状況に将軍・足利義教は幕府重臣達の意見を聴取した。前幕府管領の畠山満家が“既に将軍が篠川公方と約束してして了った以上、鎌倉府から宣紙を提出させる以外、仕方がないのでは無いか“との妥協案を出し、諸大名も賛同する結果となった。

同年 3月24日・28日・4月2日

ところが幕府管領“斯波義淳”は“例え諸大名が誓紙提出に賛成であっても管領としての私は反対だ“と一歩も引かなかったのである。満済は斯波義淳に再考を望んだが、頑なに拒否し続けた。

1431年(永享3年)4月4日:

将軍足利義教には、幕府管領“斯波義淳”の“反対意見”と、畠山満家以下他の諸大名の“賛成意見”という別個の2種類の意見書が提出されるという異例の事態となった。当然の事乍ら、畠山満家以下他の諸大名の“賛成意見”を将軍・足利義教は採用し、斯波義淳に、上洛中の鎌倉使節“二階堂盛秀”に鎌倉府からの条件付の“誓紙”の提出を伝える様に命令が下った。

しかし幕府管領“斯波義淳”はこの命令を無視し続けたのである。

20-(3):命を賭けて将軍・足利義教と“篠川公方”の同盟に抵抗し続けた“斯波義淳”に訪れた幸運・・九州地区の政変が将軍・足利義教の“鎌倉府討伐強硬策“の転換を余儀なくさせる

1431年(永享3年)4月10日:

将軍・足利義教は4月10日になっても命令が実行されていない事に気付き“将軍の命令を無視するとは以ての外である、幕府管領の態度は尋常でない“と激怒した。

同年 6月:

一度は将軍・足利義教の案に妥協した畠山満家、細川持之等の重臣達が“将軍・足利義教”に対し“政道の意見を進言”した事が記録されている。重臣達も幕府管領・斯波義淳の主張に立ち戻ったのである。この時点で、対鎌倉府対応で分裂した幕府の状況がどの様であったかを整理すると下記である。

和睦反対派・・6代将軍・足利義教、山名時熈、赤松満佑、篠川公方(同盟者足利満直)

和睦派・・満済、幕府管領・斯波義淳、畠山満家、細川持之

この時点では、将軍・足利義教は、満済並びに幕府管領・斯波義淳等、和睦派の幕府重臣達の意見に折れる事は無かった。鎌倉府からの“誓紙提出“を巡る攻防は尚も続けられたのである。

20-(3)-①:九州地区の幕府統治力強化を委ねた“大内盛見”が討ち死する・・1431年6月28日

鎌倉府討伐問題で幕府重臣達との意見が割れると言う状況下、将軍・足利義教にとって頭の痛い問題が発生した。

九州探題が九州地区統治の機能を果たさなくなっていた為、周防国出身の有力大名“大内盛見(おおうちもりはる・幕府相伴衆・生:1377年・没:1431年)“を派遣し、筑前国を幕府御料所とした室町幕府は、この事に功績のあった“大内盛見”をその地の代官とした。“大内盛見”は、幕府の西日本支配の中心人物として将軍・足利義教に重用されていたのである。

ところがその彼が1431年(永享3年)6月28日に、少弐満貞・大友持直と筑前の領有を巡っての戦闘で、筑前国で戦死して仕舞ったのである。彼の死後、この地域は、甥の大内持世・持盛兄弟が後継争いを起こし、将軍・足利義教は大内盛見が遺志とした“大内持世”を惣領に盛り立てたが、1431年~1433年の間の北部九州地区は“乱国”状態に陥ってしまったのである。

20-(3)-②:将軍・足利義教を強権政治へと舵を切らせる一因となった“大内盛見”の討ち死

室町幕府第6代将軍・足利義教の政治期は“恐怖政治”の一言で語られるが、それにはそれなりの変遷があった。

“看聞日記“の1431年(永享3年)3月24日条の”薄氷を踏む時節、恐るべし“の記事がその前触れだとする説がある。

将軍・足利義教の政治手法の変遷に関しては、将軍宣下が出ない状況を打破する為に、徐々に強硬策に転じた事を記したが“室町幕府崩壊”の著者“森茂暁”氏は将軍・足利義教が西日本地域の守りとして最も信頼したとされる上記“大内盛見”が筑前国で討ち死した事も一つの大きな転換点であったとしている。

彼の討ち死は、将軍・足利義教にとっては甚大なショックであり、大内盛見の仇を討つべく細川持之(第14代幕府管領・在職1332年~1442年・生:1400年・没:1442年)に菊池兼朝(菊池氏18代当主・1412年以前に菊池氏として初めて室町幕府から肥後守護に任じられたが父と同じく幕府に反抗的な姿勢をとり続けた・生:1383年・没:1444年)討伐を命じたが“故障申”して懈怠(けたい=怠ける事)する有様だった。この事が“将軍・足利義教”の政治姿勢を変えさせたのである。

1431年(永享3年)7月16日:

この日付の“看聞日記”の記事に“山名時熙”(法名山名常熙・山名宗全の父親・幕府侍所頭人・但馬、備後、安芸、伊賀守護・・生:1367年・没:1435年)に対しても、将軍・足利義教は“菊池兼朝追討”の九州下向命令を出している。

しかし“山名時熙”も“然而未定(しかれどもみてい)”と、実際の発向の日付を未定とする態度で応じた事が書かれている。

こうした有力大名達の将軍・足利義教の命令に対して向けられた体たらくな態度が、彼に之までの政治方式を改め“強権的な方向”へと舵を切る事を本格化させる転換点になったとされる。

20-(3)-③:九州地区の情勢が不安定と成った事で、将軍・足利義教は鎌倉府との対立を避けるべきとの幕府管領・斯波義淳、並びに宿老達の進言に妥協する事を決する

1431年(永享3年)7月10日:

上記した九州地区が不安定化した事で、幕府が鎌倉府と対立し、尚且つ、幕府内で将軍・足利義教と幕府管領・斯波義淳とが対立するという事態は許されなかった。

こうした状況を憂慮した宿老・畠山満家、細川持之、更にはこれ迄、将軍・足利義教に同調し、鎌倉府に対する強硬派であった“山名時熈”も、将軍・足利義教に斯波義淳の要望通り“無条件(誓紙無し)で鎌倉使節“二階堂盛秀”に対面する様、説得に当たったのである。

“篠川公方・足利満直”と同盟関係にあった将軍・足利義教であったが、上記した状況下、 遂に折れ、幕府管領・斯波義淳の主張通り、無条件(誓紙無しで)での鎌倉府からの和睦使節“二階堂盛秀“との対面に臨む事を決意したのである。

20-(4):“二階堂盛秀”との対面が実現する

歴史学研究会編の“日本史年表”の1431年6月、つまり、将軍・足利義教が鎌倉府からの和睦の使者“二階堂盛秀”との対面を決断する直前に“畠山満家・細川持之等が、将軍・足利義教に政道の意見を進言“した事が載っている事を紹介した。

将軍と成った足利義教の政治は後世”恐怖政治“の一言で語られる事があるが、既述した様に、彼の政治姿勢が強権的に変化したのは徐々にであるが、後小松院が室町殿(義宣=義教)に将軍宣下を与えず、鎌倉公方・足利持氏への将軍宣下の噂が頻りに流れた1428年(生長元年)10月頃から明らかに成って行ったと言えよう。

具体的に史実として裏付けされていないが、一向に将軍宣下を与えない“後小松院”に対して“仙洞包囲”の挙に移った話は伝えられ、明らかにこの時点以降“後小松院”の抵抗が影を潜め、将軍宣下も遂に成された。

以後の足利義教の政治がこうした経験を踏み台にして “強権政治”へ転じた事は否定出来ない。しかし”恐怖政治“への変化は飽くまでも段階を経たものであった。

将軍職に就いた“足利義教”の初期の政治方式は、後述する“大名意見制”と称される“広く意見を聴取する方式”を執った時期を経ている。九州地区の政変と言う状況変化が起こった事で、この局面で、将軍・足利義教が用いた政治手法は真に“天下無為”を旨とする“三宝院満済”や管領以下の重臣の意見を入れ、鎌倉府からの和睦の使者“二階堂盛秀”との対面を決断した“大名意見制”と称される政治方式であったと言えよう。

“看聞日記“の同日条に”管領(斯波義淳)生涯をかけ申さると云々“とある。将軍・足利義教が“大名意見制”と称される政治方式で対応した大きな要因は、幕府管領・斯波義淳の命懸けの“将軍・足利義教説得”が奏功したと言えるであろう。

1431年(永享3年)7月19日

鎌倉府の“二階堂盛秀”は幕府管領・斯波義淳に伴われて将軍・足利義教に対面、この際鎌倉府から将軍・足利義教に馬2頭、金太刀、鎧一領が献上されたとある。

20-(4)ー①:幕府管領“斯波義淳”に結果的に屈した事を心底では“痛恨事”と捉えていた事が分かる“将軍・足利義教”が同盟者“篠川公方”に与えた御教書

1431年(永享3年)7月24日:

鎌倉府からの和睦使節“二階堂盛秀”に“無条件”で面会した事は将軍・足利義教にとっては同盟者・篠川公方・足利満直に対して、同盟違反に充る屈辱的な行動を飲まされた事であった。管領はじめ諸大名達の説得に折れ、対面せざるを得なかった事情を同盟者“篠川公方“に釈明した“御教書”が“満済准后日記”の7月24日条に写し取られている。

“二階堂盛秀”との対面が将軍・足利義教の意に反するものであった事を裏付ける史料である。

関東使節対面の事、大名共頻りに申旨候間、無力去十九日対謁せしめ候き(以下略)

21:鎌倉府との和睦が成立する

21-(1):和睦が成り、鎌倉府も“永享”の年号を使い始める

1431年(永享3年)8月7日:

鎌倉府からの馬2頭、金太刀、鎧一領の献上に対する返礼として、将軍・足利義教は、鎌倉使節“二階堂盛秀”を将軍御所に召し、盃と刀を与え、鎌倉公方・足利持氏には、太刀・鎧・盆・香合(こうごう=香を収納する蓋付きの小さな容器)、食籠(じきろう=食物を盛る円形、または角形の器。茶道などで菓子を盛るのに用いられる)等が贈られた。

ここに鎌倉公方・足利持氏は赦免され、鎌倉府は8月以降“永享”の年号を用い始めた。形式上は室町幕府と鎌倉府との和睦が成ったのである。

21-(2):和睦成立直後に幕府管領職辞職を申し出た“斯波義淳”

1431年(永享3年)9月:

将軍・足利義教にとっては結果的に幕府管領・斯波義淳に屈した格好で鎌倉府との和睦に持ち込まれた。この事は彼にとっては“切歯扼腕(歯ぎしりをし、自らの腕を握りしめ悔しがる)”の事態であった。和睦成立後の“将軍・足利義教”は幕府管領・斯波義淳に対する不満を増大させ、幕政から彼を遠ざけて行ったとされる。一方、そもそもが、幕府管領職に就く事を固辞した“斯波義淳”であったから、鎌倉府との和睦が成った直後の9月には、本格的に幕府・管領職の辞職を申し出たのである。

1432年(永享4年)4月8日:

この日の“満済准后日記”に“斯波義淳”が幕府管領職辞職願を“満済”に出そうと、彼を訪ねた事が記されている。この時“満済“は彼と道で遭遇してしまい、慌てて逃げ出したが追いつかれ、辞職を強く要請された事を記している。しかし将軍・足利義教は斯波義淳の幕府管領職辞任を許可しなかった。

21-(2)-①:将軍・足利義教が斯波義淳の管領職辞任を許さなかった理由

将軍・足利義教は偉大な父・足利義満の政治に倣う事を常に心掛けていた。斯波義淳の幕府管領職辞任を許さなかった理由には、彼の官暦(任官)との関連があったのである。将軍・足利義教は

1432年(永享4年)7月25日・・内大臣に任官
8月28日・・左大臣に任官

している。そして、これ等任官に対する大饗(祝賀会)には足利一門で最も高い家格を有する“武衛家=斯波氏家督家”が沙汰する事が慣例であった。偉大な父“足利義満”が内大臣に任官した時にも、幕府管領は“斯波義淳の祖父・斯波義将”であり、彼が沙汰をしたのである。

こうした将軍・足利義教の拘りから“斯波義淳”が幕府管領職として上記任官に関わる大饗(祝賀会)の沙汰を行うまでは、辞職を許さなかったのである。

22:“斯波義淳”の幕府管領職辞任を許した後に将軍・足利義教は、有力守護大名の惣領家家督への介入策として“武衛家=斯波氏当主家”の勢力削減に動く 

22-(1):将軍足利義教の富士遊覧

1432年(永享4年)9月10日~9月28日:

鎌倉府との間に、形式上とは言え、和睦が成った事で、その直後から、将軍・足利義教は伊勢参宮のついでに富士遊覧をすると言い出した。(満済准后日記・1432年正月10日条)

7月になると具体化し、鎌倉公方・足利持氏は“富士遊覧と言い乍らも、実質的には将軍・足利義教の鎌倉府に対する挑発行為である”として再び身構えたのである。この状況に関東管領“上杉憲実”は“当年事は平に相延ばされ候はば、尤も以て珍重、畏れ入るべしと云々”と、主君・鎌倉公方・足利持氏の意を体して、富士遊覧を今年実施するのは止め、延期して欲しいと幕府に申し入れて来たのである。(満済准后日記:8月29日&30日条)

しかし、鎌倉府側の要請を無視する形で将軍・足利義教は9月10日出発、京への帰還を9月28日というスケジュールで強行したのである。(満済准后日記)。これが6年後(1438年)の、結果として鎌倉公方・足利持氏を自害に追い込む事になる“永享の乱”の切っ掛けと成った。。

22-(2):“斯波義淳”が、幕府管領職を辞任した後に将軍・足利義教は“武衛家”の家督問題に介入する

1432年(永享4年)10月10日:

斯波義淳は漸く幕府管領職から辞す事が許された。同年6月13日に嫡男・斯波義豊が夭折していた為、異母弟の斯波持有(しばもちあり・生:1413年・没:1440年)を後嗣に決めていたのだが、将軍・足利義教はこれに介入し、相国寺で僧籍に入り“瑞鳳”と名乗っていたもう一人の異母弟を還俗させ、偏諱を与え“斯波義郷(しばよしさと・生:1410年・没:1436年)”と名乗らせ、斯波氏(武衛家)8代当主とする様、命じたのである。

1433年(永享5年)12月1日:

当主・斯波義淳としては“将軍・足利義教”に拠る家督への介入は大いに不満であった。そしてこの相続が進められる中で“斯波義淳”は36歳の人生を閉じたのである。

22-(3):将軍・足利義教による家督介入後に没落して行った“斯波武衛家”

“斯波義淳”が後嗣と決めたものの、将軍・足利義教によって許可されなかった“斯波持有(しばもちあり・斯波義重3男・・生:1413年・没:1440年)“は“斯波左衛門佐”の名で1431年~1432年(永享3年~永享4年)の将軍・足利義教主催の和歌会に名前が上がっている。彼が将軍・足利義教の和歌・文芸グループの一員であった事が分かる。

その彼が、後嗣として許可されなかった理由は、僅かに、将軍・足利義教が彼に対して“以ての外正体なき間、叶うべからず”と、排した記録に拠って推し測る事が出来る。

一方“斯波義郷”は将軍・足利義教に気に入られ、父“斯波義淳”の領国であった越前・尾張・遠江三国をそのまま受け継いだ。

尚“斯波義淳”没(1433年12月)後は、3管領家の中でもトップとされた武衛家(斯波氏当主家)から幕府管領職に就く者は出ず、僅かに“応仁の乱”の一因を作った第20代幕府管領“斯波義廉(しばよしかど・第11代当主・越前、尾張、遠江国守護・妻は山名宗全の娘)“が1467年から1468年の1年間だけ就いた例を最後に、斯波家は没落し、守護代家の織田氏の台頭を許す事になる。以後、室町幕府管領職には“細川氏”と“畠山氏”の
2家が就く事に成る。

23:将軍・足利義教の精神的支柱について・・理非から“神裁”へ変化した“足利義教”の裁判方法

23-(1):徹底して理非を重要視し、審理や裁許の厳正化を目指した時期もあった

1431年(永享3年)10月:

将軍・足利義教は裁判に当たる奉行人達に“起請文”を提出させ、足利義教による成敗が理に反する場合には、思った事を残さず言上する事、それが他人の担当案件でも足利義教の成敗が誤っていると知った場合には、その奉行人に説明を要求する事を誓わせた記録が残っている。この年の6月、既述した宿老達に拠る“将軍・足利義教”に対する“政道の意見”の進言が此処でも影響を与えたと考えられる。

23-(2):“湯起請”を原告、被告に命ずる裁判事例が増えて行く・・“足利義教”の本質が政治手法に顕在化する

23-(2)-①:後世“恐怖政治”と伝わる“足利義教”の本質が顕在化したとされる“湯起請と抽籤政治”

将軍・足利義教の性急で癇性の強い性格は資質として覆い隠す事の出来るものでは無い。彼は裁判に“湯起請(ゆきしょう)”と呼ばれる“熱湯に係争当事者の手を入れさせ、その予後に基づいて神に審議を問う裁判”を行なう政治手法を多く用いる様に変化して行った。人智よりも“神慮”を優先するという政治手法は、足利義教の特異な政治スタイルが顕在化したものとされる。

“湯起請”では、予め審理を受ける者二人が、夫々自分の主張が事実であると誓い合い(起請文作成のケースもある)その上で神に審議を問うべく、二人が同時に熱湯の中に入った石を取り出し、神棚に安置し、当日もしくは数日後に、手に焼けただれの少ない者の主張が正しいと判断し、両者の火傷の程度が同じである場合には双方折半の神意の表れと解した裁判方法である。

古代の“盟神探傷(くかだち=古代日本で行われていた神明裁判で、神に潔白を誓わせた後に釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪人は大火傷を負うとした。毒蛇を壷に入れ、手を入れさせる方式もあった)”を継承したもので、律令法時代には存在しなかったが、室町時代に民間で行われる様になったとされる。

“湯起請”を行うというだけで、訴訟当事者に心理的圧迫を与える事と成り、証拠があやふやな場合には、当事者が訴訟を取り下げる等、裁判に至らずに早期解決と成る効果もあったとされる。

23-(2)-②:将軍足利義教が命じた“湯起請”の事例記事

:1431年(永享3年)7月6日“看聞日記”並びに同年9月“御前落居奉書”

洛中で米商人が買い占めを行った事に関して“湯起請”が行なわれた記事が“看聞日記”に、又、同年9月に“日前国懸神社(ひのくまくにかかす)”で社家と紀伊国造家が荘園の支配に関して相論を起こし、将軍足利義教が“湯起請”での判決を命じた事が“御前落居奉書”の記録に残っている。

上記は当事者に照会すれば容易に判明する事だと思われるが、将軍・足利義教は裁判を“彼実否を湯起請を以て糺決”との記録が残る様に“湯起請”を用いる事を基本方針としていた事が分かる史料とされる。

:1436年(永享8年)3月22日“看聞日記”に書かれた“湯起請”

山前(近江)観音寺山相論の事、今朝奉行“飯尾肥前”伺ひ申すの処、両方湯起請を書かしめ、その失によって落居すべきの由、(将軍足利義教)仰せ出さると云々

境界争いは“湯起請”の失(火傷具合)によって裁定するという“将軍・足利義教”の方針が明確に示された文面である。

常在光寺と、朝倉六郎繁清・楢葉近江守満清と相論す近江国田上内堺湯起請の失の事右、湯起請の失の浅深は、牓示婉曲の多少による歟(か)。以下略

この例も“常在光寺”と“朝倉六郎繁清”との争い(界相論)があり、境界における不正の多少を“湯起請”での火傷(失)が甚だしいか軽いかに比例するとして判定していた事を示す史料である。

“湯起請”の実施記録自体は、第4代将軍足利義持期の晩年から散見される。しかし、上記の様に、1431年(永享3年)以降、つまり6代将軍“足利義教”以降は頻出する様になる。こうした事から“籤引き将軍足利義教“の著者”今谷明氏は”足利義教の神裁政治が“湯起請奨励”となって現出したと述べている。

“湯起請”は、江戸時代初期迄、行われていたと考えられるが、江戸時代中期になると、公儀に拠る訴訟体制整備や、合理的な考えをする人が増え“湯起請”が正しいと考える当事者が少なく成った為、この方法は廃れて行った。

23-(3):“神慮”を重んじた足利義教の態度・性向が知れる“抽籤”に拠る政策決定

23-(3)-①:日本の為政者、並びに庶民に仏陀・神明法の法理を植え付けた“元寇の勝利”

蒙古軍船が来襲したのは1274年(文永11年)10月であるが、フビライ・ハーンは6-6項ー10で記した様に、1268年(文永5年)閏正月の時点から、実質的には第1回目となる使節団を大宰府に送り、服属を強く迫る“大蒙古国皇帝奉書”を持参させている。

時の執権は中継ぎとしての“北条政村”で“北条時宗(生:1251年・没:1284年)”は未だ17歳と若く執権見習(連署)であった。蒙古からの服属要求は二人を驚愕させたのである。鎌倉幕府は、以後繰り返された“服属要求”に対し、黙殺を続けるが、一方で同年(1268年)2月には賀茂社に神馬宝剣を寄進する(歴代編年集成)等、既に蒙古国との衝突必至を見越して諸寺社に祈祷を依頼した事が分かる。

日本の歴史は古代から、一貫して諸外国(超大国中国王朝)からの脅威を受ける局面が来ると対抗措置として自らが大きく変化する事で対応して来た事は“大化の改新”の事例が示す史実である。蒙古襲来という“国難”への対応で生まれたのが、国を挙げて神仏に異国降伏を祈る“挙国祈祷体制”への突入という“国としての精神面の対応”であった、と“籤引き将軍足利義教”の著者・今谷明氏は指摘している。

6-6項ー21-(1)で“北条時宗と蒙古襲来”の著者・村井章介氏が、元寇がその後の日本人に“神国思想”を与えた事は日本人に負の遺産を残した事である、として、下記の様に指摘した事を紹介した。

蒙古襲来は日本人にとって、モンゴルという世界史の渦に接した稀有の体験だった。しかし、大風という自然的、偶然的な現象のお蔭で、その試練を大きな被害を蒙る事無く切り抜けた幸運は、他者への柔軟な視線を妨げる“独善的自己認識”という負の遺産を残したのである

朝廷が異国降伏の祈祷を神社・仏閣に行わせ、その結果としての勝利を“神仏の御加護”と考える様になった。“元寇“という国難への対応として行った神仏への祈祷が、以後“仏陀・神明法の法理”として”文永“年間に登場したのである。

日本を“神国”と考える“神国思想”に関する説には諸説があるが、元寇での勝利が日本に神国思想を齎し(もたらし)た事はどの説も否定しない。

玄界灘の秋冬の荒天は、地元の水夫にとっては、知悉(知り尽くす)の事であったが、幕府トップを含め、京や鎌倉の人々、当時の殆どの日本人が“神風”と認識した事を“非科学的”と笑い飛ばす事が出来なかったのが実情だったのである。道理では、蒙古軍(元軍)が敗退したのは、大風という自然現象が原因であったのだが、巨大帝国“元”が攻め込んで来ると言う“国難”に、挙国祈願に明け暮れ、神仏の加護以外に頼る術が無かった当時の日本国が奇跡的蒙古軍の撤退以後、仏陀(神明)法を信ずる様になった事は自然の流れであった。

こうした結果“仏陀(神明)法“が確たる根拠を得、以降、神社はその声を強めて幕府・朝廷に報賽(ほうさい=祈願成就のお礼として神仏に参拝すること)としての寺社領増大を要求する事になった事も既述した通りである。こうした寺社からの要求に“朝廷”並びに“幕府”も抵抗出来なかった理由は“戦争の起こる以前に祈祷を依頼していたという弱みがあったからだ“とされる。(対外危機と神仏・今谷明氏)

“元寇“後の鎌倉時代後期は”神仏の権威“が非常に昴(たか)まり、政治面でも社会生活の面でも“日本の特異性”として定着して行く。天皇家に関する著書で知られる,竹田恒泰氏は“天皇は日本の神主のトップとしての存在でもある”との表現を用いている。

23-(3)-②:足利義教の“神裁政治”

将軍・足利義教は裁判や政務に於いて紛糾の場面になると衆議よりも“神慮”を重んじた政治手法を用いた。彼は“凡慮(凡人の考え)測り難し”“神慮覚束なし”として、衆議を“凡慮の賢ら(さかしら=利口ぶる事、いかにも分かっているという風に振る舞う事、その様)“と却(しりぞけ)け、神判に持ち込んだのである。

前歴が“青蓮院門跡”という地位にあった事も無関係とは言えないが、自分が八幡神の神慮によって室町殿を継承し、石清水八幡の神によって守られているとの強い自意識、強烈な“王権神授(権力は神から授けられた絶対のものであり、他の何ものにも制約されないとする考え)”の意識から来ているとされる。

このような人物が室町幕府第6代将軍となった訳であり、彼の政治が“万人恐怖”へと向かう様々な素地が次第に露出して来るのである。

23-(3)-③:青蓮院門跡訪問記・・2018年11月28日

青蓮院(しょうれんいん)は知恩院の北隣、円山公園からも徒歩10分と、訪問するのには便利な場所にある。地下鉄東西線“東山駅”からも徒歩5分程である。

将軍・足利義教が1408年(14歳の時)に門跡(名は義円)として過ごした青蓮院であり、三千院・妙法院と並ぶ天台宗三門跡の一つで、1788年の天明の大火の際に、第119代“光格天皇”の仮御所=粟田御所となっている。愚管抄を書いた“慈円(生年不詳:没:1225年)”は三代目門主である。

嘗ては壮大な寺院であったが“応仁の乱”の兵火に遭い、又、豊臣氏滅亡後に浄土宗徒であった徳川家康が1608年から知恩院(浄土宗総本山)を拡大した事、又、二条城と共に京都における徳川家の拠点としての威勢を誇示する為の政治的な造営もあって、青蓮院のほゞ全域が取り上げられた。従って、今日の姿はコンパクトな寺院となっている。“小堀遠州”作の霧島の庭、池泉回遊式庭園など、境内全域が国の指定と成っている美しい寺院である。


(青蓮院門跡=皇族や摂関家の子弟が住職を務める・京都市東山区・2018年11月28日)

24:将軍・足利義教の政治手法とその変遷を知る

将軍に成って丸2年、1431年以降の足利義教の“恐怖政治への変遷”を同時代人である“伏見宮貞成親王”は“看聞日記”に以下の様な表現を用いて記している。

1431年(永享3年)3月24日条:薄氷を踏む時節、恐るべし、恐るべし
1435年(永享7年)2月8日条:万人恐怖
1437年(永享9年)2月8日条:不定の世
同年 2月9日条:薄氷を踏むの儀、恐怖千万
同年 11月6日条:悪将軍

将軍・足利義教の政治を“伏見宮貞成親王”は“恐怖の世”と表現しているが、足利義教の最も近くに仕え、しかも信頼を得ていた“満済”は、流石に“恐怖”の表現は用いていない。

しかし、既述の様に、将軍・足利義教の性格、生れ育った背景、そして彼が置かれた厳しい政治状況が、彼の政治期を次第にエキセントリック(常軌を逸した)“強権政治”へと導いて行った。将軍・足利義教の政治手法は、彼の精神的支柱の中には潜んでいたものの、当初から“恐怖”と称されるエキセントリックなものでは無かった事は既述した通りである。

頭脳明晰であった彼は当初は慎重な政治手法を用いて居り、政治経験を積み上げる事に拠って、次第に、彼の素性を露出した政治手法を選択する様に変化して行ったのである。

以下にそうした変遷を記述して行く。

24-(1):重臣、並びに諸大名の意見に耳を傾け、大名意見制を執った初期の政治期

足利義教は“義円~足利義宣”の名で“室町殿政権”を継承したが、スタート直後から多くの課題を抱える政情下であった事は既述の通りである。

足利義教という人物に、旺盛な統治者意識が無かったならば“室町幕府”は、より大きな困難に直面したであろうとされる。こうした時期に第6代室町幕府将軍を務めた“足利義教”を室町幕府最盛期を築いた“第3代将軍・足利義満”に次いで統率力を発揮した将軍として評価する説もある。

多くの課題の中、未だ将軍宣下を得る前の1428年8月に、膝元で生起した日本の歴史上初の“土一揆”とされる“生長の土一揆”へ対応し、ほゞ同時期に発生した“小倉宮聖承”を奉じた北畠満雅等“後南朝勢力”の反幕行動も征圧したのである。

こうしたスタート直後に“室町殿・足利義宣”が用いた政治手法は、重臣、並びに諸大名の意見を聞く慎重なものであり、既述の“大名意見制”と称されるものであった。

24-(1)-①:“緩やかな将軍専制”からスタートした“足利義宣(義教)”の政治

“室町殿”足利義宣(義教)の初期の政治スタイルは、重大案件が持ち上がる度に“幕府管領”や“満済”を通じて、重臣達の意見を度々徴取するスタイルであったとされる。

各人に個別的に意見を聴取し、それを幕府の意思決定の参考にしたとされる。誰に意見を求めるかは室町殿・足利義宣(義教)の専権であって、他から規制されるものでは無かった。“室町殿・足利義宣”が、案件の性格に拠って、意見を求める諮問の相手を選定し、諮問された重臣達は、幕府の意思決定に参加しているという実感を持ったとされる。飽くまでも最後の決定は“室町殿・足利義宣”が下した。

こうした初期の“室町殿・足利義宣”の政治スタイルは“緩やかな将軍専制”と言えると“室町幕府崩壊“の著者・森茂暁氏は述べている。

24-(2):大名意見制の延長として、3パターンの政治方式を使い分ける

1429年3月に将軍宣下を漸く得て、晴れて室町幕府第6代将軍と成り、名前も“足利義教”と変えた彼の政治は,未だ、宿老・重臣達も健在であり、当初の“大名意見制”の政治期の延長であった。代表的に下記3パターンを使い分けたとされる。

24-(2)-①:三人意見制

将軍・足利義教が最も重視した特別格の重臣とされるグループの意見を吸い上げた方式である。三人の間に意見の相違がある場合、足利義教は三人の中から諮問相手を恣意的に一人に絞り、己の結論を導いたと記されている。(1431年5月22日条・1432年2月10日条・1434年4月14日条)

三人とは幕府管領の①畠山満家(在職1421年~1429年)②斯波義淳(在職1429年~1432年)の二人と宿老の③山名時熈(常熈・相伴衆、備後国守護・生:1367年・没:1435年)であった。

24-(2)-②:七人意見制

上記三人に④細川満久(阿波国守護・生:1386年・没:1430年)⑤一色義範(幕府四職・丹後、若狭、三河国守護・生:1400年・没:1440年)⑥赤松満佑(侍所頭人・播磨、備前、美作国守護・生:1381年・没:1441年)⑦畠山満則(能登畠山家の祖・生:1372年・没:1432年)⑧細川持之(第14代幕府管領・摂津、丹波、讃岐、土佐国守護・生:1400年・没:1442年)等、四~五人が加わったグループから意見を聞くパターンである。

最も広く意見を聴取する場合に用いられたとされる。

24-(2)-③:四人意見&五人意見制

以上の中間的なものとして、四人意見制は、細川持之・畠山満則・一色義範・赤松満佑、五人意見制のパターンでは、細川持之・畠山満家・山名常熈・斯波義淳・赤松満佑 の名が記されている。

24-(3):面従腹背の大名の存在がスタート直後の“室町殿・足利義宣”政権の大きな弱点であった

室町殿を引き継いだ直後の足利義宣の主要閣僚は“義円”が選出された1428年(応永35年)1月18日に、籤引きに石清水八幡宮に向った当時の第12代幕府管領“畠山満家”と1428年(生長元年)8月16日に、幕府の武力装置というべき、軍事・警察武門の責任者“侍所頭人”に就いた“赤松満佑”であった。(満済准后日記)

こうした“室町殿・足利義宣”に協力的な大名が居る一方で“面従腹背”の大名もいた。
これを裏付ける史料が残されている。

“後花園天皇践祚”(1428年生長元年7月28日)直前の“満済准后日記”1428年(生長元年)7月6日条に後南朝の“小倉宮聖承”が嵯峨から出奔した事件に関して“京都大名内少々同心申す輩これあり“と書かれている史料である。京都の大名の中に“小倉宮聖承”の出奔に与する大名が居た事を記したものである。

足利義宣として“室町殿”を嗣いだ時期の政情は、極めて不安定であった。従って、状況変化によっては、造反し兼ねない大名達が存在していたという事をこの記述は伝えている。

この事は“室町殿・足利義宣”政権がスタート時点で抱えていた弱点であり、故に“足利義宣(義教)”が次第に専制的政治スタイルを執らざるを得なかった背景でもあったと考えられるのである。

24-(4):近習“大館満信”の役割と失脚に見る、足利義教政治の“専制化”への予兆

“室町殿”として活動し始めた“足利義宣(義教)”の幕政運営に於いて、近習・大館満信(おおだちみつのぶ・生没年不詳)の関わりが重要だとして、研究者・設楽薫(したらかおる)氏は下記の様に記述している。

大館満信は足利義宣(義教)の嗣立と共に政界に登場し、足利義宣(義教)が正式な将軍と成り、その歩みが軌道に乗り始めると共にその姿を消す。大館の政治的役割は正にその間にあった。

“大館満信”は第4代将軍“足利義持”の近習であり“満済准后日記”の1428年(応永35年)2月9日条には既に“大館入道”とある事から、足利義持死去に際して出家したものと考えられる。そして何よりも最初に籤引きで後継に選出された“義円”のもとに、嗣職を要請する為の使者として向かい、固辞する彼の説得に成功した人物である。

“大館満信”には“義者”という言葉が用いられている。この事からも“義円”を説得し“室町殿”を嗣ぐ事を要請する使者として最適任者として彼に白羽の矢が立ったのであり、彼は近習として有能なだけでなく、人望が高かった事に因るとされる。

室町殿となった“義円(足利義宣~足利義教)”を将軍として嗣立するに際し、幕府と朝廷間、並びに足利義宣(義教)と“満済”そして幕府管領との間に立って、大小の事項の伝達、連絡が活発化する中、その役割を一手に担った人物とされる。“大館満信”の近習としての活躍は“建内記・康康記”の記述からも裏付けられている。

1430年(永享2年)正月25日:

しかし乍ら、こうした側近・大館満信の活躍の記録は1428年(生長元年)と1429年(永享元年)の間は頻出するが“足利義教”が晴れて将軍職に就いた直後に、彼の政治志向が災いして失脚させられ、途絶えるのである。

その事件に就いて“満済准后日記“1430年(永享2年)正月25日条に下記の様に記述されている。

征夷大将軍になった足利義教として初めての儀式、1430年正月の的始(まとはじめ=鎌倉時代の1189年正月3日を起源とする武家の正月に射術を試す儀式。足利氏は毎年正月17日に行った)の儀式で、将軍足利義教が大館満信の子息“大館持房(生:1401年・没:1471年)”に矢取役(矢を回収する)を命じた。ところが、大館満信がその命を辞退させたのである。

これが“足利義教”の逆鱗に触れ、大舘満信は失脚させられ、花の御所の西側にあった私邸も没収されたとある。近臣、大館満信の失脚事件は“足利義教”という人物の気質を見る上でも、又、彼のその後の政治の“専制化”への予兆として注目される。

24-(5):重臣達の相互牽制策

既述した“大名意見制”は将軍・足利義教が、彼等を把握する目的と共に、相互牽制をさせる目的があったとされる。又、15-(3)で記述した“和歌・連歌の会”も参加メンバーの把握と共に、相互牽制の政治的意図があったとされる。

こうした事から、幕府の重臣達の関係は決して一枚岩では無く、むしろ有力大名達の間には反目感情や対抗意識が強かったと思われる。宿老“山名常熙(時熙)”と、重臣“赤松満佑”とは領国を接した事から、利害関係にあり、反目し合っていたとされる。

又“看聞日記”1430年(永享2年)7月の記録には将軍“足利義教”の右大将拝賀式に於いて、畠山持国(畠山満家の嫡男・赤松・一色氏と共に将軍・足利義教に目を付けられ、第7代将軍・足利義勝期には、第15代幕府管領職に就く・生:1398年・没:1455年)と、一色持信(生年不詳・没:1434年・足利義教の御供衆を務め、寵臣であった。1432年11月小侍所別当に任じられる)との間で席次を巡って相論が生起した事が記録されている。

些細な事ではあるが、記録に残される程の争いであったのであろう。近習の間も一枚岩で無かった事を語る事件である。

25:将軍・足利義教の“山名惣領家”の家督介入と“山名持熈”の不幸

将軍・足利義教は、父・足利義満が行ったと同様に有力守護大名家の勢力削減を諮った。その第一陣が、既述した1432年10月10日の“斯波武衛家”への家督介入であった。その目的は有力大名一族の政治的結集を分断し、結果として“室町殿”の権力の“専制化”を促進する事であった。そして“山名惣領家”の家督にも拘わった事が記録されている。

25-(1):第3代将軍・足利義満期に“山名氏惣領家”が分断された歴史と、それを再興した“山名時熈”

過去に“六分の一衆”と呼ばれる程に勢力を拡大した山名氏が“足利義満期”に警戒され、6-12項(ー2ー(2)ー②)で既述した様に、一族の内紛を起こさせ、それに乗じて足利義満が“明徳の乱”(1391年・明徳2年12月26日~30日)の結果“山名惣領家”の粛清に成功し、三カ国の分国のみに勢力を削減したという歴史があった。

その後、山名氏を再興させたのが、山名時氏の孫“山名時熈”(=常熈・将軍足利義教の相伴衆で侍所頭人・生:1367年・没:1435年)である。彼は山名氏を再び、但馬・備後・安芸・岩見・伊賀国の守護職を兼ねる大大名へと再興した。

既述した様に、山名氏の領国は“赤松満佑”の領国、播磨、備前、美作国と隣接していた。従って両氏は必然的に常に領土問題で確執を抱える関係にあり、後に、将軍・足利義教が暗殺される“嘉吉の変“後の”赤松満佑討伐“に山名氏が積極的だった背景となる。

25-(1)-①:山名持熈が失脚し、弟の山名持豊(宗全)が家督を継ぐ

この件については“満済准后日記“に記述されている。

1428年(応永35年)4月23日条:

山名時熈(常熈)は後継者として3男の山名持豊(=宗全・生:1404年・没:1473年)に家督を継がせようと考えていたが、将軍・足利義教は長年自分の側近として奉公して来た兄の“山名持熈”(もちひろ・山名時熈次男・生年不詳・没:1437年)を推薦した事が記されている。

1431年(永享3年)5月24日条:

しかし“山名持熈”がその振る舞い、行儀で“将軍・足利義教”の不興を買い叱責を受けた。この日を境に側近“山名持熈”の記述は“満済准后”日記から姿を消している。

1433年(永享5年)8月:

山名持熈の失態を境に、将軍“足利義教”は、当初の山名氏家督相続に関する考えを翻意(ほんい=決心を変える事)し、1433年8月には“山名持豊(宗全)”の家督相続を認め、但馬、備後、安芸、伊賀四ケ国の守護大名に就けている。

1435年(永享7年)7月:

畠山満家と共に“室町幕府宿老”として重きを成した父・山名時熈が没する(1435年7月)と、既に1431年(永享3年)5月に将軍近習の座を追われ没落していた兄“山名持熈”と、弟・山名持豊(宗全)との兄弟間の抗争が噂され、1435年末には、兄“山名持熈”が上洛して弟・山名持豊(宗全)と戦うとの風説が流れた。

1437年(永享9年)7月25〜26日:兄“山名持熈”が弟“山名持豊(宗全)”に討たれる

この年の7月11日に、足利義満の子息で、将軍・足利義教にとっては11歳年下の弟に当たる“大覚寺門跡・大僧正“の“義昭”(ぎしょう・生:1404年・没:1441年3月)が大覚寺から出奔する事件が起きた。

その際“山名持熈”は“義昭”と行動を共にしたとされ、結果として上記“将軍近習の座を追われ没落”してから6年後の1437年(永享9年)7月25~26日に備後(広島県東部)に居た処を“大覚寺義昭”の与党として弟・山名持豊(宗全)に攻められ、討ち死にするという不幸な結末を迎えるのである。

この“大覚寺義昭“事件については後述するが、将軍・足利義教が家督相続に介入した“山名惣領家”で兄“山名持熈”と弟“山名持豊(宗全)“の命運が大きく分かれたというケースの紹介である。

26:将軍・足利義教の対外交易と国際的環境

第4代将軍・足利義持が、父・足利義満が開いた“明国”との通交関係、冊封関係を“諸神の祟り“を理由として断絶した事は既述の通りである。

父・足利義満の政治への回帰を目指した“将軍・足利義教”は、第4代将軍“足利義持”が断絶した“日明”間の通交を再開した。その為、環シナ海世界に於ける日本の対外関係は再び全面開花の状態に戻った。足利義教が1429年3月に征夷大将軍に任ぜられて以降、対外関係の記録が頻繁に見られる。

1429年(生長2年)6月19日:足利義教が仁和寺等持院にて高麗国使(李氏朝鮮国)に会う
1431年(永享3年)9月11日:足利義教、薩摩守護“島津忠国”(島津貴久から改名)に上品の硫黄15万斤の輸入(納入)を命ずる
1432年(永享4年)8月:足利義教“遣明船”見物に兵庫へ下向する
1433年(同5年)1月:“李氏朝鮮”の使節と会見
1434年(同6年)5月:遣明使“道淵”等帰国する。足利義教は夫人と共に兵庫に下向
同年 9月:明使“雷春”等が帰国する
同年    :室町幕府“唐船関係事務”を専管する“唐船奉行”を創設する
1436年(永享8年)7月:遣明使“恕中中誓”が帰国する
1439年(永享11年)12月:朝鮮使節“高得宗”“尹仁甫”等来る
1441年(嘉吉元年)4月:幕府は“島津忠国”(島津貴久から改名)の功績に対して“琉球国”を属国とする事を許可する

26-(1):“渡唐船”の経営参加を有力大名、並びに寺社にも許した将軍・足利義教

3代将軍・足利義満期とは異なり“将軍・足利義教”期の“遣明船”は、有力大名や寺社にも“渡唐船経営”参加を可能としている。

“満済准后日記”の1432年(永享4年)6月5日条に“渡唐船”の記録がある。”満済“はこうした渡唐船の経営者達を“唐船御人数”と称している。武家方の“唐船御人数”には“畠山満家・細川持之・一色義範・細川持常・赤松満佑“の五人の名が挙がっている。”御門跡以下悉皆十人“とある事から、その他に門跡(皇族、公家の住職)も含め、大人数による寄合船であった事が分かる。

1424年(応永31年)6月に石清水八幡宮の下級祀官達が米売買等を巡って、石清水八幡宮祀官の“田中法印融清“の罷免を求め、大規模な強訴を起こした記録が残る。幕府が鎮圧に乗り出す程の大規模なものであったが“田中法印融清“も、十人の“唐船御人数”の中の一人であったとされる。

又“満済”自身も“満済准后日記”1434年(永享6年)6月24日条に“渡唐船”に“山名常熈(時熈=山名宗全の父親)と寄り合う事を申し出て許可された事を記している。

中国を経由して日本に齎された舶来品“唐物”は、公武社会の上層部での贈答品に用いられたり、新将軍と成った“足利義教”が1429年(永享元年)11月に移った“室町第新造会所“を荘厳にする装飾品として使われた事が“満済准后日記”の1435年(永享7年)正月26日条の記事にある。(尚、満済はこの年の6月に没する)

上記1434年(永享6年)5月に遣明使“道淵”等が帰国した際に、足利義教は帰着を待ち兼ねて、御台様(夫人)と共に兵庫に下向している。遣明船貿易に大いなる関心を示し、神戸に出掛けているところは父・足利義満の行動と同じである。

26-(2):琉球との関係

26-(2)-①:琉球を通じて将軍・足利義教が得た物産

琉球は1429年に“尚巴志(しょうはし・生:1372年・没:1439年)”が、三山(中山、山北、山南)を統一して成立したばかりである。将軍・足利義教の時代には琉球からも種々の南方の物産が日本本土に入って来ている。“満済准后日記“に書かれた輸入品物は下記であり、琉球から室町殿に届けられた事を示す文書も存在する。

1431年(永享3年)8月12日条:沈香(じんこう=香木の王者とされる天然香料)12俵

同年 10月27日条:沈俵十八斤(きん:600gx18=10.8kg)代金1800疋 
(注)疋は反物2反分又は1疋=10文(後に25文となる)

1433年(永享5年)8月29日条:緞子(どんす=繻子の絹織物)四端、繻子(しゅす=布面が滑らかで艶があり縦糸又は横糸を浮かした織物・・サテン)四端・沈俵三

26-(2)-②:将軍・足利義教は琉球を属国とする事を“島津忠国”(島津貴久から改名)に許可する

1441年(嘉吉元年)4月:

島津忠国(生:1403年・没:1470年)は薩摩・大隅・日向国の守護大名であり、島津氏第9代当主である。初名は“貴久”であった。後述するが1441年3月13日に謀反を企てたとして、将軍・足利義教に拠って探索されていた足利義教の異母弟“大覚寺義昭”を自害に追い込んだのが“島津忠国(=貴久)である。この功績に拠って室町幕府は島津忠国に琉球国を属国とする事を認めている。

室町幕府は琉球を領土と見做し、この様な許可を島津に与えたが、実態として琉球は独立国として、東アジア、東南アジアの国々と交易をし続けるのである。

26-(2)-③:幕府が薩摩国硫黄島から硫黄を手に入れ“明国”に輸出した史実

室町幕府は既に第3代将軍・足利義満の時代に“島津元久”(第7代当主・大隅、日向、薩摩国守護・生:1363年・没:1411年)を通して硫黄の調達を要請していた事が“御内書”の存在から確認出来る。

幕府は“硫黄島“に調達の指揮官を送り、石の混じった“下品(粗悪品)”では無く、精選された“上品”の硫黄15万斤の納入を命じた事も、下記1431年(永享3年)9月11日付“将軍・足利義教”から薩摩守護・島津忠国への“御内書”で確認出来る。

硫黄事、以上品拾五万斤被納之、不日可有運送之由、所被仰下也、仍執達如件、
永享三年九月十一日  大和守

“大和守”は幕府奉行人の飯尾貞連(いのおさだつら・法曹官僚で外交事務も担当した・生年不詳・没:1455年)である。

足利義満時代に調達を要請した同様の御内書が存在するが、その時の分量は25,000斤であった。上記分量は6倍程であり、需要が増していた事が分かる。これ等の“硫黄”は足利義満の時代と同じく明国に輸出され、火薬が作られ、爆薬として使用された。硫黄の輸出は“室町殿”の専売特許とされ、他者は簡単には関与出来なかった。幕府はこれに拠って莫大な利益を得ていたとされる。

27:将軍・足利義教の山門対応

27-(1):“山門使節“創設の経緯

歴史学者で日本中世史の専門家・下坂守氏は“室町時代(南北朝を含む)の政治史は延暦寺を抜きにしては語れない“と述べている。

比叡山延暦寺(山門)は帝都“京都”の守護神、鬼門安鎮の道場としての揺るぎない自信に支えられ、山門衆徒は南北朝の内乱当初、後醍醐天皇(南朝)方に付き、事ある毎に“強訴”を以て足利尊氏初め、武家勢力を悩まし続けた。そして、南北朝時代を通じて室町幕府、北朝方を威嚇し続けた存在であった。“室町幕府”にとって、立脚基盤である首都“京都”を支配する上で、山門対策は積年の最重要課題だったのである。

この積年の懸案事項解決の道を第3代将軍・足利義満が見出した。それが“山門使節”の創設だったのである。

27-(2):“山門使節”に与えた権限

比叡山延暦寺(山門)を上皇・天皇が軍事力として利用する事があり、武家政権にとっては、常に脅かされる存在であった。後に織田信長が徹底的な壊滅政策をとる(1571年延暦寺焼き打ち)が、足利尊氏は山門弾圧策に踏み切れず、山門の存続を認め、有力山徒を利用しながら山門を統制した。

歴代将軍は、こうした“妥協的政策”に甘んじて来たのである。尚“山徒”とは、比叡山延暦寺の衆徒で、寺の雑事や警固をし、非常時には僧兵となった。山法師とも言う。

第3代足利義満は主に嗷訴(ごうそ)対策の為に複数の有力山徒を“山門使節”として組織化した。“小風真理子”氏は、これを室町幕府の山門統制妥協策の象徴だとしている。

山門使節に与えられた権限は①山門領内の使節遵行(命を下に伝える)②軍事警察③裁判④関所設置(関銭収入は造営費用に使われた)⑤過所(通交許可書・中世には通行税免除証となり、江戸時代には関所手形となった)遵行で、幕府はこれ等、諸権限の行使を守護並みに保証したとされる。“山門使節”を媒介した室町幕府の山門支配は一定の効果を上げたとされる。

27-(3):専制政治化を強める6代将軍・足利義教が“山門使節”と対決する

“山門使節”の問題点は幕府機構の末端に位置付けられる組織ではあったが、彼等は本質的に“延暦寺衆徒”の代表としての立場を崩さなかった。そして、次第に専制政治化を強める第6代将軍・足利義教と対決する様になり、遂に、1433年(永享5年)7月から翌1434年(永享6年)12月に、山門と室町幕府との激しい戦“永享の山門騒動(騒乱)”が勃発したのである。

歴代の室町幕府将軍が妥協的対応を取って来た“山門統制”策が“足利義教”政権に成って一挙に対決関係に至った流れは①足利義教が嘗て比叡山延暦寺の住職=天台座主を務めた経験がある事、そして②山門の背後に鎌倉公方・足利持氏の影がちらついていた事を無視出来ないと“室町幕府崩壊論”の“森茂暁”氏は指摘している。

“森茂暁”氏は“永享の山門騒動“を前段と後段とに分けて記述している。

27-(4):前段・・1433年(永享5年)7月∼閏7月にかけての“山門騒動”

歴史学研究会編“日本史年表”には“延暦寺衆徒、幕府近習と争い、幕府に強訴する”と記述されている。

山門牃状(訴状)が三通出されているが、訴えの内容は山徒の“光聚院猷秀(献秀)”、幕府側近習“赤松満政”山門奉行“飯尾肥前守為種”同“大和守貞連”達が結託して公方(足利義教)の為に不忠の猛悪を働いたので厳重な処罰をせよ、というものであった。

27-(4)-①:山門牃状で訴えられた“山徒・光聚院猷秀(献秀)”とは

彼は1431年(永享3年)10月から幕府から“山門西塔院二季講領江州普光寺奉職”を安堵される等、幕府とは良好な関係を結んでいた。“山門使節”には属していないが、1432年に“坂本西塔関”を“堂舎修造”料所として得ていた記録があり“山徒”等を相手に広く金融業を営み、かなりの蓄財をしていたとされる。

彼の資金源の一つに“坂本関収入”があり、1431年(永享3年)11月に幕府の力を借りて坂本“宝福寺”以下、三人の山徒等に対して“借物弁済”を要求した記録も残る。

今回(1433年7月〜閏7月にかけての山門騒動)の具体的原因は明確では無いが、幕府の威を借りた“光聚院猷秀(献秀)”の山徒達との間の金銭貸借を巡っての抗争が根底にあった事は明らかである。

27-(4)-②:京の経済活動は“山門と幕府との癒着構造で展開していた”という事を証明した前段の“山門騒動“

前段の“山門騒動“は疑獄事件(政治に絡む大規模な贈収賄事件)の様相を呈した抗争であったと言えよう。

“室町幕崩壊”の著者“森茂暁”氏は“京都における経済活動が山門と幕府との癒着構造によって展開していた事を明らかした騒動だ“とし、京都の経済活動が山門と幕府の連携に支えられている事を裏付けた事件だとしている。又、こうした事件が起こった事自体、将軍・足利義教時代には、京都経済が飛躍的な発展を見せた事の証であるとしている。

27-(4)-③:強訴の要求と将軍・足利義教の対応

山徒達にとっては、将軍・足利義教の近習①赤松満政(大舘満信の失脚後、播磨守に補任され、近習NO.1の勢力となった。生年不詳・没:1445年)”並びに②山門奉行・飯尾肥前守為種(いいのおためたね・足利義教に重用され評定衆になる・生年不詳・没:1458年)そして③大和守・飯尾貞連(いのおさだつら・飯尾為種と共に裁判に活躍・評定衆・生年不詳・没:1455年)も“光聚院猷秀(献秀)”の与同者として同罪であり、断罪されるべきと訴えたのである。

山徒達の要求は“光聚院猷秀(献秀)”には斬首刑“赤松満政“と” 飯尾為種“並びに”飯尾貞連“には配流刑であった。

将軍・足利義教は“強訴に屈せば山徒は今後も増長する”と考え、山徒討伐を主張した。この騒動時(1433年7月~閏7月)の状況としては、1431年8月7日に鎌倉府との和睦が成っており、又、未だ“三宝院満済”はじめ主たる宿老は存命中であった。

宿老達は山徒討伐を強行すれば、叡山が鎮護国家の役割を果たして来たと信じる民衆は、仏を恐れぬ将軍だとして恐怖し、京は混乱する危険がある。そうなれば、鎌倉府(鎌倉公方・足利持氏)に付け入る絶好の隙を与え兼ねない、と将軍・足利義教を諫めたのである。

この説得を受け容れた“将軍・足利義教”は山門の言い分を入れ、形ばかりの処罰を行う事でこの強訴を決着させる事になった。“伏見宮貞成親王(看聞日記)”は1433年(永享5年)閏7月26日条で“山訴事落居(らっきょ)”と書いている。従って、ひとまず“永享の山門騒動”はこの日に決着した事が分かる。

“光聚院猷秀(献秀)”は罪一等を減ぜられ、斬首刑では無く“土佐”へ配流された。しかも実態は“特別待遇”であったとされる。山門奉行“飯尾為種”も流罪には成ったが、秘かに尾張国に逐電する様“将軍・足利義教”が計らった。同じく山門奉行“飯尾貞連“についても情報は無いが、その後も幕府の裁許・奉書に関わって1455年迄存命であったという史実から、同様の軽い処分で済まされたものと思われる。

将軍・足利義教の近習NO.1の勢力を誇っていた“赤松満政”の処分に至っては、幕府側が山門側と交渉し、処分を回避させている。

27-(5):後段・・僅か3カ月後に“山門騒動”が再燃する

上記した、形だけの幕府側の処分に山門側は不満を掲げた。これに対し“将軍・足利義教”は軍事行動で征圧する挙に出たのである。

1433年(永享5年)10月~1434年(永享7年)2月

“山門騒動”の後段は“将軍・足利義教”が軍事征圧を命じ、幕府側に拠る山門側の完全征圧と成った。

1433年11月:延暦寺衆徒蜂起、将軍・足利義教、諸将に攻撃を命令する
同  12月:延暦寺衆徒が降伏する
1434年 8月:幕府、延暦寺の僧が鎌倉府と通じて足利義教を呪詛すると聞き、所領を没収する
同  10月:延暦寺衆徒、日吉神輿を奉じて上洛し“強訴”する
同  11月:幕府、延暦寺衆徒を攻める。
1435年 2月:幕府、延暦寺“弁澄”等を殺害。衆徒等、総持院・根本中堂を焼き、自殺者が多数出る

騒乱の経過は“看聞日記”に詳しいが、主たる状況を記すと以下の通りである。

1433年(永享5年)10月13日~11月4日

山門使節“杉生坊暹賢(せんけん)”が降参し、11月4日に討ち死にする。

1433年(永享5年)12月18日:

騒乱の張本人であった山門使節の“円明坊兼宗”が隠居に追い込まれ、翌1434年12月2日に逐電している。

1434年 8月:

延暦寺の僧が鎌倉府と通じて、将軍・足利義教を呪詛すると聞き、幕府は”六角満綱(ろっかくみちつな・近江国守護職・生:1401年・没:1445年)“と”京極持高(出雲・隠岐・飛騨・山城国守護・生:1401年・没:1439年)“が山門を囲み、延暦寺を降伏させ、近江国内に多くあった延暦寺領を差し押さえ没収した。

尚“六角満綱”の正室は3代将軍“足利義満”の娘で、将軍・足利義教とは義理の兄弟の関係であり、信任が厚かったと伝わる。

1434年(永享6年)12月2日〜12月17日:

山門使節“乗蓮”も幕府に降参し(12月2日)、腹を切って死んだ(12月17日)。

1434年(永享6年)12月12日~1435年(永享7年)2月

山門使節“金輪院弁澄”並びに“月輪院”が投降。翌1435年(永享7年)2月に両者共、殺害される。

以上の様に“永享の山門騒動”の後段は、一気に強硬策に出た幕府側の軍事征圧に拠って、室町幕府側が完全勝利し、1435年(永享7年)2月に終結したのである。伏見宮貞成親王は“看聞日記”1434年12月18日条で、将軍・足利義教の山門騒動に対する“強硬軍事征圧”を“泰平の世が到来した”と下記の様に絶賛している。

公方(足利義教)聞こし食され快然無極(気分の良い事極まりない)、御意に背く人悉く自滅、御運の至珍重、天下山門泰平の基、言語道断大慶なり

28:将軍・足利義教の強権政治のエスカレートは“突鼻(とつび=主人から厳しく責められる事)”という表現で当時の記録に頻繁に現われる様になる

将軍・足利義教の政治姿勢に関して“突鼻”という表現を用いて書かれた記事は1430年(永享2年)9月14日条の“満済准后日記”が初見とされる。しかし当初用いられた“突鼻”という表現は、処刑並びに財産没収を伴なわない“軽度”のものであった。

しかし、1431年(永享3年)5月に山名刑部少輔(=山名持熈・山名宗全の兄で将軍・足利義教の側近・生年不詳・没:1437年)が将軍・足利義教から、彼の振る舞い並びに行儀で蒙った勘気の記述にも“突鼻”という表現が用いられているが、処罰の程度はずっと重くなっている。

既述した様に“山名持熈”は将軍・足利義教から退けられ、山名氏の家督相続の後ろ盾を失い、弟の山名持豊(宗全)に家督が渡り、没落に繋がるという重い“突鼻(処罰)”へとエスカレートしていたのである。

“看聞日記”1432年(永享4年)6月4日条に、御意に背いたとして、日野有光(公卿・1425年に出家し、日野祐光を名乗る・生:1387年・没:1443年)が処罰を受けているが、その内容は所領(能登国若山荘)没収であった。以後も“将軍・足利義教”に拠る“突鼻”という表現を用いた処罰内容が厳しさを増して行くが、頂点に達したものが、1434年に起こった“裏松(日野)義資“事件であり、同年6月9日には彼の変死事件へと繋がるのである。

この一連の事件に就いては後述するが“将軍・足利義教“の癇癪、強い猜疑心という彼の生来の性根の発露(隠していた事などが現われる事)である。この背景には、相次いだ”宿老・幕府重鎮“達の死に拠って、彼を抑える者が居なくなった事が大きく関係したとされる。

29:将軍・足利義教を“政治の死”と称される状況へと導いた“相次ぐ幕府重鎮の死”

足利義教の精神的支柱については既述したが、自分は“石清水八幡”の神によって守られているとの自意識を強く持ち“神意”によって政権を担っているとの強い思いが彼の政治手法を独善的な専制政治、そして周囲からは“恐怖政治”と呼ばれるものへと変化させて行った。それを裏付ける“足利義教”の歌が、彼自身が執奏し、後花園天皇の勅宣を以て権中納言“飛鳥井雅世“が撰進した”新続古今和歌集“(1433年下命1439年成立2140首・一条兼良が序文を執筆している)に載せられた下記とされる。

“石清水みづがき清きながれこそ、うけてにごらぬ代代にしられる”

こうした“将軍・足利義教”に政道を諫言し、意見を進言し、独善的になりつつあった政治手法にブレーキを掛けていたのが“満済”を筆頭に幕府の宿老達であった。ところが、下表に示す様に1433年の畠山満家の死からはじまり、僅か2年の中に彼等が次々とこの世を去ったのである。

=2年間も経たない間に幕府宿老・重鎮達が相次いで没する=

①畠山満家:(生:1372年・没:1433年9月19日)・・室町幕府管領
②斯波義淳:(しばよしあつ・生:1397年・没:1434年12月1日)・・室町幕府管領
③一色持信:(生年不詳:没:1434年4月21日)・・御供衆を務め、足利義教に重用される
④三宝院満済:(生:1378年・没:1435年6月13日)・・准三后(1428年)、黒衣の宰相と称された最高実力者
⑤山名時熈:(法名常熈・生:1367年・没:1435年7月4日)・・侍所頭人、幕府相伴衆

こうした宿老・重臣クラスの大名達は“合議制“や”意見制“に拠って”室町殿“の意志決定に重い役割を果たして来た。又、上記した1433年~1434年の“永享の山門攻め”に対しても、いきなり軍事征圧を行なおうとした“将軍・足利義教”を一端は制し、極力平和で穏便な政策を選択させた事は既述の通りである。

“満載准后日記“の1431年~1433年(永享3年~5年)の記事には”無為御成敗・無為御裁許・天下無為“すなわち穏便に、天下泰平に、の言葉が集中して登場する。この事は“三宝院満済”はじめ“足利義教”の周辺に居た宿老・重臣達が平和主義の政治をモットーとし、願った証だと“室町幕府崩壊”の中で“森茂暁”氏は指摘している。

こうした幕府の緩衝材的な人達が相次いで没した事に拠り、将軍・足利義教の政治の“制御機能”が失われ、この流れの先には“政治の死”と称された“恐怖の世”が到来するのである。

30:将軍・足利義教による“政治の死”を象徴する事件

30-(1):71歳の“世阿弥”に対して尚も“佐渡流刑”を課した“将軍・足利義教”

“世阿弥”に関しては将軍・足利義教の同母兄の第4代将軍・足利義持が、父・足利義満に寵愛された“世阿弥”(生:1363年・没:1443年)を嫌い、遠ざけたと同様、将軍・足利義教も“世阿弥”の甥の“音阿弥”(おんあみ・生:1398年・没:1467年)を好み、世阿弥と息子の“観世元雅”(かんぜもとまさ・生:1394年・没:1432年)に対し、仙洞御所での演能を禁じる等、遠ざけたのである。

“世阿弥”の不幸は続き、後継者と決めた長男の“観世元雅”が伊勢安濃津で客死した。これについては暗殺説も囁かれた。ここで”将軍・足利義教“は“世阿弥”に甥の“音阿弥”に観世太夫の座を譲る様命じた。“世阿弥”は抵抗したが、将軍・足利義教は強引に“音阿弥“を“観世太夫”の座に就けたのである。

将軍・足利義教の粘着質な性格とされるが、その後も執拗な“世阿弥”排斥は続き、1434年(永享6年)、71歳の“世阿弥”を佐渡に流刑とした。その後の世阿弥の生涯に就いては既述したので省略する。

30-(2):“将軍・足利義教”の関与が疑われる“裏松(日野)義資”の変死

1434年(永享6年)6月9日:

公卿“裏松(日野)重光・生:1374年・没:1413年“の三男で、当主を継いだ“裏松(日野)義資”(生:1397年・没:1434年)は、天台宗青蓮門院門跡に不忠の廉(かど=理由)で将軍・足利義教の勘気を蒙り、譴責(けんせき=咎められる)を受け、蟄居の身と成っていた。家督はこの時点で嫡男の“裏松(日野)政光”(生年不詳・没:1443年)に譲っていた。

“裏松(日野)義資”の不幸は将軍・足利義教の側室となっていた妹の“重子”が1434年2月に“千也茶丸”(せんやちゃまる・後の7代将軍・足利義勝)を生んだ事からさらに続いた。蟄居中の“裏松(日野)義資” の屋敷に、妹“重子”の出産祝いに多くの客が彼を訪れた事で“将軍・足利義教”は将軍命(蟄居)を憚らぬ行為だ、と大いに立腹し、祝いに訪れた者を悉く処罰したのである。

看聞日記の記述には”惣じて公家・武家・僧俗・行向人六十余人なり“とある。当時の上層社会の多くの人々が処分対象になったこの事件を”およそ天魔の所行か“と慨嘆(がいたん=歎き憤る事)している。

事件はこの処分だけでは終わらなかった。その後、1434年6月に“裏松(日野)義資”は就寝中に何者かに襲われ、その首が持ち去られる事件へと繋がったのである。犯人は捕まらず、この変死事件を当時の世間は将軍・足利義教の指示だと噂した。尚、公卿の“高倉永藤(たかくらながふじ・生:1385年・没:1436年)は雑談で“裏松(日野)義資の横死は足利義教が黒幕だ“と口走った事で、将軍・足利義教に咎められ、同年、硫黄島へ流罪と成り、1436年1月に同地で没している。

将軍・足利義教が自らの室であり、且つ、後に室町幕府第7代将軍と成る足利義勝、並びに第8代将軍と成る足利義政の生母“重子”の兄である“裏松(日野)義資”という政治的にも、血縁的にも極めて重要な人物を謀殺した史実から、この時期の将軍・足利義教は既に、後世“政治の死・恐怖の世”と呼ばれる政治期に入っていたとされる。

31:将軍・足利義教と公卿“裏松(日野)重光“家との浅からぬ関係

公卿”裏松(日野)重光・生:1374年・没:1413年“は裏松を家号とした”日野資康(ひのすけやす)を父に持つ人物である。彼は義円が僧侶から”室町殿“となった後に、娘の”日野宗子“(生年不詳・没:1447年)を還俗後の足利義宣の正室として嫁がせた。

日野宗子と”室町殿・足利義宣“の間に娘が生まれるが、夫婦仲は悪く、足利義宣は次第に側室の“正親町三条尹子”を寵愛する様になり、将軍宣下(1429年3月)を得た直後の1431年6月に突如、側室“正親町三条尹子”にも“御台所”の身分を与えると宣言した。この為、以後、将軍家では“宗子”を本台所“正親町三条尹子”を新台所と呼び、二人の正室が存在する異常な状態と成った。

この史実からも将軍・足利義教の“偏執(へんしゅう=偏った考えに固執し他人の意見を入れない事)”性が窺える。

1431年7月に足利義教と”日野宗子“との間に生まれた唯一の娘が歿し、続いて”日野宗子“との婚儀を整え、足利義教の後見人でもあった第4代将軍・足利義持の正室“日野栄子”が没すると、足利義教は“本台所・日野宗子“との離別を決意した。そして、日野家に対したはその代償として、妹の“日野重子”を側室として迎えたのである。

側室となった“日野重子”(生:1411年・没:1463年)が室町幕府第7代将軍・足利義勝(生:1434年・没:1443年9歳)並びに第8代将軍・足利義政(生:1436年・没:1490年)を生むのである。

32:“嘉吉の乱(1441年6月)”への道

“嘉吉の乱“とは将軍・足利義教に対して”赤松満佑“が弑逆(しぎゃく=主君や父を殺す事)に及んだ事件である。その起点は将軍“足利義教”の政治期が“政治の死”を迎えた年“恐怖の世”へと向かう象徴的な事件が起きた上記1434年(永享6年)だとされる。

上述した様に、1433年~1435年の2年間に、宿老・幕府重臣達が相次いで没し、将軍・足利義教の政治期は①永享の乱②大覚寺義昭事件③結城合戦を経て④嘉吉の乱へと終局の道へと進んで行くのである。

32-(1):“永享の乱(1438年永享10年8月~1439年永享11年2月)”で遂に鎌倉公方・足利持氏を討つ

32-(1)-①:鎌倉府創設期~第4代鎌倉公方・足利持氏迄の幕府との対抗の歴史

関東十カ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)統治の為に室町幕府が将軍の代理人として統治権限を与えた機関が鎌倉府である。(その後、陸奥国と出羽国が加わり、12カ国となった)

その長官である“鎌倉公方”と室町幕府との関係は初代の足利尊氏四男の“足利基氏”(在職1349年~1367年・生:1340年・没:1367年)の時期には対立関係は生じていなかった。

鎌倉府の歴史は“建武新政”下、後醍醐天皇の皇子“義良親王(後の後村上天皇)”を奉じて“北畠親房・北畠顕家”親子が“陸奥将軍府”を設置した事に対抗して、足利尊氏が“成良親王”を長とし、弟の足利直義を執権とした“鎌倉将軍府”を1333年12月に設置した事に始まる。

6-9項4-(1)で詳述した様に、北条一族の残党に拠る“新政府転覆”の挙兵が続き、1335年7月には北条高時の遺児“北条時行”を擁して信濃から挙兵した“諏訪頼重”等の軍勢に鎌倉将軍府は敗れ(中先代の乱)、足利直義は鎌倉を逃れ、成良親王を京に戻した時点で“鎌倉将軍府”は瓦解した。

後醍醐天皇による“建武政権”の瓦解についても既述の通りであり、重複を避けるが“光明天皇“を奉じて武家政権を足利尊氏が京都に成立(室町幕府・1336年11月)させた事で、足利尊氏の弟・足利直義が京都の朝廷から自立性の高い体制の必要から発足させたのが“鎌倉府”であった。

設置当初は足利尊氏の分身である嫡男“足利義詮”を“鎌倉殿”とし、信頼厚かった“上杉憲顕“(うえすぎのりあき・初代関東管領とされる・在職1338年・山内上杉家始祖・生:1306年:没:1368年)を関東管領とする体制が発足した。(足利尊氏が鎌倉に残した当時6歳だった足利義詮の執事だった斯波家長を初代とする説もある。この場合の在職は1336年~1337年である)

その後、足利将軍家の内紛から発展した“観応の擾乱(1349年~1352年)”が起こると嫡男・足利義詮は京に呼び戻され、4男(尊氏正室・赤橋登子の次男)で、僅か9歳だった足利基氏(生:1340年・没:1367年)が1349年に“初代鎌倉公方”として鎌倉に下された。この幼い“足利基氏”を執事(後の関東管領)として補佐したのは“足利尊氏”が伊豆守護に任じた“畠山国清”(在職1353年~1361年・生年不詳・没:1362年)”であった。

この時点で、鎌倉府(鎌倉公方)に与えられた権限は、関八州の知行安堵・充行・処分等、並びに所務沙汰権であった。

“観応の擾乱”で兄・足利尊氏に討たれた“足利直義”派の武士が多かった関係で初代鎌倉公方“足利基氏”は“反・足利尊氏”派の武士達に手を焼いたと伝わる。仕方無く“脱足利尊氏色”を掲げて地域の武士達の支持を得ようとした。こうした背景から、鎌倉府と京の室町幕府とが対立する構図が芽生えた。

1358年4月に足利尊氏が没し、18歳に達していた“鎌倉公方・足利基氏”の足利尊氏色からの脱却“の動きが明確に成ったとされる。

旧足利直義派の武将達は足利尊氏が任じた執事(後の関東管領)“畠山国清”の罷免嘆願を強め、足利基氏もこれに抗し切れず、畠山国清を罷免するという政変が起こった。これが”1362年関東の政変“である。

後任には“高師有(足利氏の執事を務めた高氏一族・生年不詳:在職は1362年~1363年・とある)“の名が記録されるが、当時の関東執事(後の管領)は2名任じられた事例もある事から、この時“上杉憲顕”(生:1306年・没:1368年)が実質的には2度目の関東管領職に就いたとされる。在職期間に就いては“1362年関東の政変”の翌年の1363年並びに1366年~1368年の記録がある。(1364年~1365年の記録は不明であるが、上杉氏が務めた事は間違い無い)

以後、関東には“足利尊氏”路線からの脱出を掲げる鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏という“鎌倉府体制“が作り上げられる。この体制は紆余曲折を繰り返すが、戦国時代まで続く事に成るのである。

当初関八州だった鎌倉府の管轄国が関東10ケ国に安定するのは第2代鎌倉公方“足利氏満”以降である。更に、室町幕府・第3代将軍・足利義満期に、当時最大の課題であった西国統治を固め、山名氏討伐(明徳の乱・1391年12月)を重視し、関東の”鎌倉公方・足利氏満”とは融和して置く事が必要と判断し、鎌倉府には更に陸奥・出羽の2国を管轄する権限を与え、計12カ国を管轄させる様になった歴史を辿っている。

室町幕府と鎌倉府との対立は第2代鎌倉公方“足利氏満”(在職1367年~1398年・生:1359年・没:1398年)以降常態化した。”康暦の政変〈1379年〉“が起きると“足利氏満”は室町幕府に対して挙兵の動きを起こした。

この動きを当時、実質上の関東管領の立場にあった“上杉憲春(うえすぎのりはる・生年不詳・没:1379年)”が自害する事で、諌止した美談が伝わるが、彼の自害が果たして、諌止の為であったかどうか真偽の程は不明とされている。いずれにせよ“第2代鎌倉公方・足利氏満“の京への進攻が止められた事は史実であるが、以後も室町幕府と鎌倉府との対立は止む事は無かった。

第4代足利持氏(在職1409年~1439年・生:1398年・没:1439年)期に成ると、室町幕府に対する対立行動はエスカレートし、1431年8月には、将軍・足利義教は討伐軍を派遣する寸前に迄に至っている。しかし、既述の通り、幕府管領“斯波義淳”並びに宿老・重臣達の説得、そして九州地区の政変と言う状況変化があり、将軍・足利義教としては切歯扼腕の“和睦”に至ったのである。

“政治の死・恐怖政治”と称される政治期に入った将軍・足利義教が“形式上の和睦”状態に甘んじる期間は短かった。一方で“独裁色”を強めていた鎌倉公方・足利持氏の止まる事の無い、幕府に対する対抗心はエスカレートして行ったのである。

室町幕府と鎌倉府との間の長年に亘る対決姿勢は、強硬姿勢を崩さない二人が“トップ”であった事で、遂に武力衝突という事態に至る。その結果は、鎌倉公方・足利持氏が自害に追い込まれ、鎌倉府は一時的に閉鎖されるという日本史上重要な結果と成る。これが“永享の乱(1438年永享10年)”である。

以下に“永享の乱”の経緯について記述する。

=永享の乱の構図=:水野大樹氏著“享徳の乱・長享の乱”より



32-(1)-②:鎌倉府内の鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実との激しいで対立

関東管領に上杉憲実(うえすぎのりざね・在職1419年~1437年・山内上杉家8代当主・足利学校や金沢文庫再興で知られる・戦国大名上杉謙信は山内上杉家16代当主・生:1410年・没:1466年)が就いたのは“上杉禅秀の乱”が収束した1419年(応永26年)10歳の時と伝わる。

室町幕府第6代将軍“足利義教”に不満を持った主君の鎌倉公方・足利持氏が挙兵し、京に進攻しようとする動きを“上杉憲実”が策を用いて諌止した事は既述の通りである。この時“上杉憲実”は18歳、鎌倉公方・足利持氏は30歳であった。

以後も鎌倉公方・足利持氏は、室町幕府の改元を無視して“生長”の年号を使い続ける等、あからさまに幕府に抵抗を続けていた。こうした主君の姿勢に、関東管領・上杉憲実は謝罪の使節を京に派遣する等、主君と幕府との間に入って調整役を果たしている。

こうした家臣・関東管領“上杉憲実”に対する鎌倉公方・足利持氏の不満並びに不信感は募り、鎌倉府内に於ける両者の関係は一触即発の状況に成っていた。

32-(1)-③:不可避となった鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の衝突

1437年(永享9年)6月:

独裁色を強めていた鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実との鎌倉府内での対立はエスカレートし“永享記(成立年不詳・上杉憲実を忠臣として賛美する傾向のある軍記物・国立国会図書館に唯一の伝本が所蔵される鎌倉持氏記を源流とする書物。その鎌倉持氏記は1451年8月に浅羽民部少輔が書き留めたとされる日記)“には、関東管領・上杉憲実が兵を率いて“藤沢”に逃れたとの記録がある。

この時は、鎌倉公方・足利持氏が妥協し、両者は和解したと書かれている。

32-(1)-④:鎌倉府内の両者の対立が、将軍・足利義教に鎌倉公方・足利持氏討伐の絶好のチャンスを与える

1438年(永享10年)6月:

鎌倉公方・足利持氏には13歳に成る嫡子“賢王丸(生:1423年・没:1439年)”が居り、その元服の儀が鶴岡八幡宮で執り行なわれた。慣例として、本来ならば将軍・足利義教の諱の二文字目を受けて(例えば教氏)臣従の意を示すのであるが、偏諱を請うベしとする関東管領・上杉憲実の諫言に耳を貸さず“義久”と名付けたのである。

この命名は将軍家の通字である“義”の字を無断で使用した事とも重なり、鎌倉公方・足利持氏のあからさまな室町幕府への抵抗の姿であった。この挙に、関東管領・上杉憲実の忍耐も限界と成り、鎌倉府内のトップ二人に破局が訪れるのである。

同年 8月:

関東管領・上杉憲実は主君、鎌倉公方・足利持氏を見限り、分国・上野国の平井城に去った。鎌倉府内のこうした分裂状態に将軍・足利義教は上杉憲実が京の幕府を頼り、鎌倉公方・足利持氏討伐を訴えて来るものと考え、駿河国今川範忠(いまがわのりただ・駿河今川氏5代当主・生:1408年・没:1461年)に“上杉憲実”の庇護を命じた。

将軍・足利義教にとっては“鎌倉公方・足利持氏”を討伐する、絶好のチャンスが訪れたのである。

32-(1)-⑤:幕府を捲き込んだ3者間の武力闘争が始まる

=永享の乱の主たる交戦戦力=

   室町幕府方                鎌倉府方
①関東管領・上杉憲実           ①鎌倉公方・足利持氏
     +                  +   
②篠川公方・足利満直(錦の御旗を持つ)  ②稲村公方・足利満貞
     +                  +
③駿河国守護・今川範忠          ③上杉憲直(宅間上杉家・足利持氏側近) 
     +                  +
④信濃国守護・小笠原政康         ④一色直兼(幸手一色氏・足利持氏重臣)
     +
⑤上杉持房(兄)上杉教朝(弟)・・上杉禅秀の子
     +
⑥上杉持朝(扇谷上杉氏)

1438年(永享10年)8月15日:

鎌倉公方・足利持氏を見限り、分国・上野国の平井城に去った関東管領・上杉憲実に対して足利持氏は彼の重臣“一色直兼”(いっしきなおかね・生年不詳・没:1438年11月7日)に上杉憲実討伐を命じ、自身も武蔵府中高安寺(東京都府中市・開基は足利尊氏・1333年に新田義貞が鎌倉幕府との分倍河原の合戦で本陣を置いた寺)に陣を構えた。

此処に至り、関東管領・上杉憲実は室町幕府に救援要請をしたのである。

要請を受けた将軍・足利義教は天皇家が絡んだ戦闘では無い、室町幕府と鎌倉府間の戦闘、つまり“至強(将軍・室町幕府・鎌倉府)“勢力内での戦闘にも拘わらず、第102代・後花園天皇(在位1428年~1464年・現在の皇室は後花園天皇の皇統・生:1419年・崩御:1471年)に“鎌倉公方・足利持氏追討”の綸旨を要請した。これは以下の点で注目すべき動きとされる。

将軍・足利義教は“後花園天皇”の持つ“伝統的権威”が敵方勢力を打ち負かす為に効果的であると考え、即位後10年も経たず、未だ19歳だった若き天皇に綸旨を申請し“鎌倉公方・足利持氏”を追討するという歴史的戦いに活用しようと考えたのである。この事は当時の室町幕府の権威・権力が失墜し、天皇家の権威を利用しなければならなかった事を裏付けている。(室町幕府崩壊・森茂暁氏)

詳細は後述するが、3年後に室町幕府は、将軍・足利義教が暗殺され、将軍不在と言う事態を迎える(嘉吉の乱)。大混乱状態に室町幕府は暗殺の首謀者“赤松満佑”の討伐軍の編成が思い通りに進まず苦慮する。そしてこの時も伝家の宝刀“後花園天皇”の綸旨を活用する事で窮状を切り抜けるのである。

時の権力者(為政者)が、政治を有利に動かす為、或は窮状を切り抜ける為に“天皇家の権威”を活用する事は“日本の政治方式”として度々行なわれる明らかな“日本の政治方式の特異性“である。そしてこの“日本の政治方式の特異性“は、時代を越え、形は異なるが、今日迄も連綿と受け継がれて来ているとされる。

1438年(永享10年)8月28日:

=後花園天皇綸旨=

綸言(りんげん=君主が臣下に対して言う言葉)をこうむるにいわく。従三位源朝臣持氏(鎌倉公方・足利持氏)累年朝憲を忽緒(こっしょ=軽んじる事)し、近日ほしいままに兵を興す。ただに忠節を関東に失うに非ず。あまつさえ鄙輩を上国に致す。天誅のがるべからず。帝命何ぞまた容れん。早くまさに虎豹の武臣に課し、犲(やまいぬ)狼の賊徒を払わしむべし。てえれば(という訳で)綸言かくの如し。この旨をもって洩れ申し入らしめ給うべし。よって執達(通達)くだんの如し。

同上日付で出された“後花園天皇綸旨”の要旨は“鎌倉公方・足利持氏を悪事を重ねたとして,犲(やまいぬ)狼の様な賊徒だと指弾し、天に代わって罰する“と言うものである。

この綸旨発布を以て“永享の乱”の火蓋が切られた。幕府が打った手は綸旨・御旗の獲得、素早い追討軍の発遣と、実に手際が良かったとされる。尚“錦御旗”は将軍・足利義教と同盟関係にあった“篠川公方・足利満直”に幕府から届けられた。

同年 9月27日:

幕府方の“今川範忠”軍は鎌倉公方の軍勢を撃破し足柄山を越えた。同じく幕府方の上杉持房(上杉禅秀の子)勢も箱根の陣を破った。更に信濃方面からは“小笠原政康”(1425年に信濃守護に任命される・生:1376年・没:1442年)軍が上野国に出陣し、平井城に向けて北上していた鎌倉府軍を討ち破っている。
     
同年 10月3日~4日:
    
関東管領・上杉憲実も“平井城”から出陣し、鎌倉を目指して敗走する“一色直兼”軍を破った。こうした鎌倉府軍の劣勢に、鎌倉公方・足利持氏に味方した国人の中から多くの寝返り組が出たとされる。その代表が“三浦時高(相模三浦氏当主・相模守護・生:1416年・没:1494年)で、彼は”鎌倉公方・足利持氏“が鎌倉を留守にしている間に叛旗を翻したのである。

“三浦時高”は三浦半島から軍を進め、箱根側から鎌倉に攻め込み“早川尻の合戦”では、鎌倉府側の先兵、有力国人“大森伊豆守”(大森憲頼と比定される。在地武士の抵抗で伊豆入部を果たせず幻の伊豆守護職であったとされる・最後に太田道灌に拠って箱根山中に追われ没落したと伝わる)と激しく戦い、共に多くの戦死者を出した事が記録されている。

又、既述した、幕府管領・斯波義淳が命を賭けて鎌倉府との和睦(1431年8月)を将軍足利義教に迫った際の鎌倉府からの和睦の使節“二階堂盛秀(鎌倉府政所執事)”も幕府方に寝返り鎌倉を攻めている。寝返り組には下総守護・千葉胤直(ちばたねなお・千葉氏第16代当主・生:1419年・没:1455年)も居た。彼は鎌倉公方・足利持氏の近臣で、朝敵となった足利持氏に関東管領“上杉憲実”との和睦を訴えたが退けられた為、幕府軍に寝返ったとされる。

鎌倉公方・足利持氏、並びに足利持氏の側近“上杉憲直”(うえすぎのりなお・庶流宅間上杉家・相模国榎下城主・生年不詳・没:1438年11月7日)は一色直兼(生年不詳・没:1438年11月7日)と同じく、金沢の”称名寺“に入り、幕府に恭順を誓ったが、許されず、幕府軍の攻撃を受けて自害した。

32-(1)-⑥:主君・鎌倉公方・足利持氏の救済を嘆願した関東管領“上杉憲実”に対し、主君の殺害を命じた“将軍・足利義教”

1438年(永享10年)11月2日:鎌倉公方・足利持氏が投降し、先ず家臣・上杉憲実との間での和睦が成る

足利持氏の嫡男・足利義久は報国寺に逃れたが、鎌倉公方・足利持氏は鎌倉に戻る事が出来ず相模国葛原で投降した。分倍河原(東京都府中市)に着陣していた関東管領“上杉憲実”は家宰(筆頭重臣)“長尾忠政”(生年不詳・没:1501年)を鎌倉公方・足利持氏のもとに遣わし、両者の間で和睦が成った(11月2日)。

同年11月4日:将軍・足利義教は和睦を認めず、鎌倉公方・足利持氏は“称名寺”に入る

上杉憲実との和睦が成ると、鎌倉公方・足利持氏は彼に将軍・足利義教との折衝を依頼した。しかし“鎌倉公方・足利持氏”の殺害を目指していた将軍・足利義教は聞く耳を持たず、鎌倉公方・足利持氏は“浄智寺(鎌倉市山ノ内・1281年北条時頼3男、北条宗政を弔う為に建立された)”に入った後、更に恭順の意を示す為に11月4日に“金沢称名寺”に入った。

ここで“鎌倉公方・足利持氏”は出家を余儀なくされ、その後、永安寺(1398年2代鎌倉公方・足利氏満の菩提寺として鎌倉二階堂大蔵谷に建立された寺が起源、其の後紆余曲折を経て現在は東京世田谷区大蔵六丁目に移っている)に幽閉されたとある。

同年 11月7日:先ず、称名寺に討伐軍を差し向けた将軍・足利義教

将軍・足利義教は“称名寺”に討伐軍を差し向け、鎌倉公方・足利持氏の近臣、並びに“一色直兼”そして“上杉憲直”を自害に追い込んだ。

32-(1)-⑦:称名寺訪問記・・2016年5月

金沢称名寺は横浜市金沢区にあり、金沢北条氏一族の菩提寺である。、開基は金沢文庫創設で知られ、又、3代執権北条泰時から8代執権北条時宗時代まで側近として仕えた北条実時(生:1224年・没:1276年)である。

赤門・仁王門を通って境内に入ると、浄土庭園の池には復元された朱色の反橋・平橋が架かり非常に美しい。日本最古の武家文庫とされ、1275年に成立したとされる“金沢文庫(かねさわぶんこ)”は今日では“神奈川県立金沢文庫”として“称名寺”に隣接しており、気軽に利用できる。

寺の案内書には駐車場が無い事が明記されている。私はそれを読まずに車で訪問した為、駐車に苦労した。京急金沢文庫駅から徒歩12分程の距離であり、電車で行くべきである。

32-(1)-⑧:鎌倉公方・足利持氏が自害

1439年(永享11年)2月10日:

上杉憲実は、出家し、永安寺に幽閉された主君“鎌倉公方・足利持氏”の助命と、嫡子“足利義久”の鎌倉公方就任を将軍・足利義教に嘆願し続けた。しかし“恐怖政治”と称される政治期に入っていた将軍・足利義教は聞き入れなかったばかりか“上杉憲実”に主君の殺害を命じたのである。

“上杉憲実”は三カ月間、将軍・足利義教の命令を無視し続けた。しかし、遂に命令に抗し切れず、部下の上杉持朝(生:1416年・没:1467年)並びに鎌倉府側から寝返った“千葉胤直”の二人に命じて“永安寺”に幽閉されていた“鎌倉公方・足利持氏”を攻めさせた。そして“鎌倉公方・足利持氏”は自害して果てたのである。41歳であった。

同日、関東管領・上杉憲実に対抗する形で鎌倉公方・足利持氏を補佐していた“稲村公方・足利満貞”(生年不詳・没:1439年2月10日)も永安寺で自害している。

32-(1)-⑨:足利持氏嫡子“足利義久”の自害

1439年(永享11年)2月11日:

足利持氏の嫡子“足利義久”(生:1423年・没:1439年)の死に関しては諸説があるが“永享記”“関東合戦記”並びに“北条記”が伝える説が最も有力とされている。

その説に拠れば“報国寺”(鎌倉市浄明寺二丁目にあり、1334年に足利家持に拠って建てられた寺。竹の寺と称される)に居た足利義久の元に、父・足利持氏の自害が知らされると仏前で焼香し、念仏を10回唱え左脇に刀を突き立て自害したとされる。

自害の日については1439年2月28日説もあるが、日光輪王寺の常行堂大過去帳の1439年2月11日が最も有力とされている。享年は満16歳であった。

32-(1)-⑩:関東管領“上杉憲実”のその後と、閉鎖となった“鎌倉府”

主君を討った形と成った関東管領・上杉憲実は戦後に出家し、政務から引退し、弟の上杉清方(生:1412年・没:1444年)を後継ぎとする希望を伝えたが、幕府からは引退が許されず、家督だけは譲る事を許された。彼が関東管領職からの完全な引退が許されるのは“結城合戦(後述)”が終息した1442年5月以降となる。

鎌倉府はこの時点で一旦廃止され、生き延びた足利持氏の子息“永寿王丸”(百瀬今朝雄氏の万寿王丸説が近年は有力)が第5代鎌倉公方“足利成氏”(在職1449年~1955年・生:1438年説1434年説・没:1497年)として再興される。

その時期については、1447年(文安4年説)並びに1449年9月(宝徳元年)の2説があるが何れにせよこの間(1439年~1447年説又は1449年説)は”鎌倉公方空位“の状態であった。

32-(1)-⑪:“永享の乱”で鎌倉府を滅ぼした事が、室町幕府の権威失墜に結び付く

将軍・足利義教としては宿願の鎌倉公方・足利持氏討伐を果たした。この討伐は“室町幕府”が鎌倉幕府以来の東国政権の伝統を汲む“鎌倉府”との長い抗争の歴史に決着を付けた日本史上の重要な出来事ではあったが、政治的結集の中核を欠いた形となった“東国”は、室町幕府が目指した全国統一政権の樹立という観点からは真逆の方向へ進む事に成る。

つまり、東国地域を自立へと導いて行く事に成り、将軍・足利義教の目論見とは真逆の展開を見せ“東国”は以後益々室町幕府の支配の手から離れ、結果として室町幕府の権威は下降の一途を辿る事に成るのである。

32-(2):“大覚寺義昭“事件・・1437年7月~1441年3月

大覚寺の“義昭(ぎしょう・生:1404年・没:1441年3月13日)”は母親は不明とされるが、父親は“足利義満”であり、将軍・足利義教の11歳下の異母弟であった。

事件は“籤引き”で次期将軍を決めた際に、候補として挙げられた4人の中に“義昭”が入っていた事と、公卿“裏松(日野)重光”の養子として育てられた事が強く関係を持つた。

猜疑心の強い将軍・足利義教は“大覚寺”が南朝ゆかりの寺院であるとの考えから、父・足利義満時代から恒例と成っていた大覚寺門跡が室町殿を訪れ、将軍家の為に祈祷を行なって来た慣例を中止させた。この事もあって、大覚寺門跡であった異母弟“義昭”との関係は次第に疎遠なものと成っていた。

“相次ぐ幕府重鎮の死”で将軍・足利義教の“政治の死”という事態、並びに“恐怖政治”への傾斜が際立って来て居り、1434年6月にその極点とされた“裏松(日野)義資”変死事件へと繋がった事は既述の通りである。

偏狭で感情的な性向から来る彼の猜疑心は深まる一方で、その行動は世間からは予測の出来ない“万人恐怖”と恐れられるものへと化していた。

“大覚寺義昭“と、変死した裏松(日野)義資とは”義昭”が“裏松(日野)重光”の養子に成っていた事で“義兄弟”という関係にあった。将軍・足利義教は“大覚寺義昭“が、次第に自分に敵対して来るとの思いを日々募らせて行ったのである。

1437年(永享9年)7月11日:“義昭”が大覚寺から出奔する

この日の未明に“義昭”は密かに大覚寺を抜け出し、逐電した。将軍・足利義教は“義昭”が“南朝方”と組んで反幕府行動を起こすか、鎌倉公方・足利持氏と与する事を疑い、大々的な捜索を行ったのである。

尚、史実として“大覚寺義昭”が南朝方、あるいは、鎌倉公方と与した事を示唆する史料は一切残っていない。

1441年(嘉吉元年)3月13日:“大覚寺義昭(=尊有)“が”日向国串間“で討たれる

大々的な捜索にも拘わらず“大覚寺義昭”の行方は4年間も掴めなかった。その間、1438年(永享10年)3月には“義昭”が吉野で還俗し、挙兵したとの情報があり、将軍・足利義教が大和国に“一色義貫(生:1400年・没:1440年)“等の討伐軍を派遣したとの記録が歴史学研究会編“日本史年表”に書かれている。しかし“大覚寺義昭”が吉野に滞在していたとの裏付け史料も無く、又、彼の挙兵を裏付ける史料も無い。従ってこれ等は単なる風説の域を出ない説とされる。

1440年(永享12年)に入って“大覚寺義昭”は九州に渡り、還俗して“尊有(たかもち)と名乗り“日向国”の国衆“野辺氏”の保護下にあった。執拗に捜索を続けた将軍・足利義教は遂に彼の居場所を突き止めたのである。

薩摩守護の“島津忠国”に“義昭”討伐が命じられ、彼の重臣“山田忠尚”並びに“新納忠臣”等が“櫛間永徳寺”に居た“義昭”を包囲し、逃げられないと悟った“義昭“は自害した。37歳であった。

薩摩から届けられた異母弟”義昭“の首を見て、将軍・足利義教は大いに喜んだ事が伝わっている。

32-(3):結城合戦(足利持氏遺児の挙兵)・・1440年(永享12年)3月3日~1441年(嘉吉元年)4月16日

32-(3)-①:東国地域の”国人“達の自立傾向に一層の拍車を掛ける下地を作った鎌倉府の閉鎖(永享の乱)

“永享の乱”の勝利で、将軍・足利義教は東国の直接支配が可能と成り、室町幕府としての“全国支配”に大きく近付いたと考えたと思われるが、実態として東国は益々“室町幕府”の支配の手から離れ、幕府の権威は意に反して下降の一途を辿った。

“鎌倉府閉鎖”という政治的結集の中核を欠いた東国では、この地域の”国人”達の自立傾向に一層の拍車がかかる歴史的下地が出来た。足利持氏の自害に拠り、鎌倉公方は空位と成り、更に関東管領として幕府との関係を良好に保った“上杉憲実”が引退同然と成り、伊豆に引き籠ってしまった事で、関東地域は両巨頭を欠いた状態であり、関東諸将は所領を巡る紛争解決を自分達で処理する事を余儀なくされるという状態と成ったのである。

32-(3)-②:足利持氏の遺児“安王丸・春王丸”が挙兵する

1440年(永享12年)3月3日~3月4日:

鎌倉公方・足利持氏、並びに、嫡子・足利義久は自害して果てたが、足利持氏には他に3人の遺児“春王丸”(生:1430年?・没:1441年5月16日)“安王丸”(生:1431年?没:1441年5月16日)“乙若丸”(生没年不詳)が居り、彼等は鎌倉を脱出し、下野国日光山に潜伏していた。

鎌倉公方・足利持氏が滅び、鎌倉府は閉鎖されたが、関東地方に於ける室町幕府の開祖である“足利尊氏”に連なる血統の“鎌倉府”を慕う武将達は多く、足利持氏の死後も反上杉、反幕府勢力は多く存在し、現状に不満をくすぶらせていた。

結城市史には“上杉安房入道(上杉憲実)・同弾正少弼(上杉持朝)以下を追討せんが為“として常陸国中郡荘”木所城(きどころじょう・茨城県岩瀬町)“で、上野国(群馬県)の国人“岩松持国”(足利持氏の武将・生年不詳・没:1461年)が、足利持氏の遺児“春王丸・安王丸”を擁して、3月3日に挙兵した記録が残る。又、常陸賀茂社文書の3月4日付記録にも“足利安王丸”が代官・景助を通して賀茂社に“源安王丸征夷将軍、武運長久“の祈念をした事が残されている。

これ等の記録は鎌倉府再興を悲願とする足利持氏の遺児“春王丸・安王丸”が担がれて挙兵した事を史実として裏付けている。

同年 3月13日:

記録に拠れば“足利安王丸”を擁した“岩松持国”軍は西に進み、1440年3月13日に“小栗城”(筑西市)、18日には伊佐まで進軍している。

32-(3)-③:“結城城”に結集した“足利持氏”残党

1440年(永享12年)3月21日:

将軍・足利義教が、自身の子を“鎌倉公方”として下向させようとした動きが、関東が室町幕府将軍・足利義教の支配下に入る事に強く抵抗する“反幕府勢力”の動きを激化させた。

下総国(千葉県北部と茨城県西部。国府は市川市国府台に置かれた)の“結城氏朝”(下総結城氏11代当主・生:1402年・没:1441年㋃16日)並びに嫡男の”結城持朝“(生:1420年・没:1441年㋃16日)父子が公然と反幕の狼煙を上げた。

“結城氏朝”は足利持氏の遺児“春王丸・安王丸”を結城城(茨城県結城市・1183年小山朝光が築城・1868年廃城)に迎え秘かに匿まった。この動きに反幕府、並びに“反上杉憲実”一派も合流し足利持氏残党勢力が反乱軍として“結城城”に結集する形となったのである。

記録には、反乱軍の旗頭は“足利安王丸”と書かれており、1440年(永享12年)3月~7月にかけて、数点の書下(かきくだし=中世の武家文書で職務権限に基づいて発給する)が彼の名で発せられたとされる。その中、陸奥国の石川氏等、周辺地域の国人に対する“軍勢催促”が確認されて居り、又、新田、宇都宮、小山、桃井、それに鎌倉公方・足利持氏の奉公衆として仕えた里見氏等、多くの有力武将が応じている。

32-(3)-④:“結城合戦”に対する室町幕府側の対応

1440年(永享12年)3月28日:

“足利安王丸”一派の挙兵の報に接した将軍・足利義教は“上杉持朝”(相模国守護・扇谷上杉家当主・生:1416年・没:1467年)に、幕府軍の副将を命じ(総大将は上杉憲実の実弟の上杉清方・生:1412年・没:1444年)討伐を命ずる“御内書”をこの日付で出している。

同年 4月11日:

第14代幕府管領・細川持之(在職・1432年~1442年・生:1400年・没:1442年)が“曽我小次郎“宛に出した奉書から、室町幕府がこの反乱を、遠い関東の事として放置する事が許されないと認識し、直ちに本格的な対応を余儀なくされたという事が分かる。関東地域の自立の動きに幕府が危機感を抱き始めていたのである。

同年 5月:

こうした状況に、幕府は出家して伊豆で隠遁生活を送っていた“上杉憲実”を“結城城”攻めの指揮官として再登板を要請した。彼の関東管領・辞職を認めなかった理由は“将軍・足利義教“が、こうした不安定な関東地域の状況を見通していたからであろう。そして“上杉憲実”は5月に下野国小山に着陣している。

32-(3)-⑤:南奥諸氏が下総・結城氏に呼応し、一斉に蜂起、将軍・足利義教の同盟者“篠川御所”を襲う

1440年(永享12年)6月24日:

1440年(永享12年)3月21日付の“足利安王丸”の軍勢催促の書下に応じた南奥諸氏が将軍・足利義教の同盟者“篠川御所”を襲撃し、篠川公方・足利満直(第3代鎌倉公方・足利満兼の弟・生年不詳・没:1440年6月24日)を自害に追い込んだ。“鎌倉府”の奥羽統制機能も完全に崩壊し、以後“東北地方”は国人達の争いの場と成って行くのである。

32-(3)-⑥:結城合戦の戦力、並びに関連地図

=結城合戦の主たる武将=
室町幕府軍結城氏軍
①上杉憲実:関東管領(山内上杉家8代当主)①結城氏朝:小山泰朝次男・持氏遺児を
     結結城城に迎える。享年39歳
②上杉清方:総大将・上杉憲実弟
 (上条上杉氏祖)
②結城持朝:氏朝嫡男、享年21歳
③上杉持朝:副将・扇谷上杉家当主
④上杉持房:上杉禅秀の子
⑤今川範忠:駿河今川氏5代当主(今川義元は11代当主)
⑥小笠原政康:信濃国守護
⑦武田信重:結城持朝の首級を挙げる・武田氏14代当主(武田信玄は19代当主)
⑧長尾景仲:山内上杉家の家宰(太田道灌は外孫)

32-(3)-⑦:結城合戦の戦況と終結

1440年(永享12年)7月29日:

上杉清方(上杉憲実弟・生:1412年・没:1444年)を総大将とする幕府軍は今川範忠・小笠原政康の諸将や関東の国人等を討伐の為に派遣し“結城城”を包囲した。

結城城は台地上に築かれた平山城であった為、難攻不落の城では無かった。しかし翌1441年4月迄耐えた理由は①深い沼田が周囲を囲んでいた事②関東武将の中に鎌倉公方の遺児を攻撃する事に躊躇した為とされる。


(結城合戦の構図:水野大樹氏著・享徳の乱・長享の乱より)


1441年4月16日:

結城氏朝・結城持朝父子は長期間の籠城戦に耐えたが遂に落城し討死した。まだ2歳だった結城氏朝の4男“結城重朝(成朝と改名・生:1439年・没:1463年)”は、乳母の手に拠って室町幕府の追跡を逃れ、常陸国・佐竹氏の許で生き延び、後に第5代鎌倉公方に就く“足利成氏”に拠って結城家を再興するのである。

足利持氏の遺児“春王丸・安王丸”は共に捕えられた事が“看聞日記”1441年(嘉吉元年)4月23日条、並びに“建内記”の同年4月25日条に明記されている。

32-(3)-⑧:足利持氏遺児“春王丸・安王丸”が殺害される

1441年(嘉吉元年)5月16日:

“春王丸・安王丸”の二人は、上杉憲実の信任の厚かった“長尾因幡守(長尾実景・ながおさねかげ・越後長尾家・生年不詳・没:1453年)“に捕縛され、京都に護送される途中、将軍足利義教の命令で美濃国垂井宿の“金蓮寺(きんれんじ・岐阜県不破郡垂井町)”で殺害された。兄春王丸は11歳、弟安王丸は10歳であった。二人の辞世の句が残されている。

兄春王丸:夏草や青野が原に咲くはなの身の行衛こそ聞かまほしけれ
弟安王丸:身の行衛定めなければ旅の空命も今日に限ると思へば

32ー(3)-⑨:鎌倉府再興の芽が残る

“建内記”の記事には“春王丸・安王丸”の他に足利持氏の4歳の遺児が捕えられたとある。幼名に就いては“永寿王丸”説もあるが、百瀬今朝雄氏(歴史学者・東大名誉教授・生:1928年)の“万寿王丸”説が有力である。。

“享徳の乱・長享の乱”の著者“水野大樹”氏は“万寿王丸”は信濃の国人“大井持光”が庇護していたと書いている。この他にもう一人の遺児“乙若丸(おつわかまる)“が捕えられたとの説もある。

“建内記“は”京都への連行中に第6代将軍・足利義教が暗殺された“嘉吉の乱”(1441年・嘉吉元年・6月24日)が起こった為、捕えられた遺児の処分が実行されず、幸運にも生き延びたとしている。生き延びた“万寿王丸”が、後に第5代鎌倉公方(初代古河公方)と成る“足利成氏(生:1438年又は1434年・没:1497年)である事は諸説が一致している。

33:第6代将軍“足利義教”弑逆(しいぎゃく)事件(嘉吉の乱)の背景

33-(1):足利義教の“恐怖政治”・・諸日記に記述された実態

33-(1)ー①:将軍足利義教の“万人恐怖政治”に拠る処罰人数の記録

将軍・足利義教の“万人恐怖政治”の犠牲と成った事例を紹介するが、主として組織的な抵抗力の無い“女房・公卿・僧侶・下級武士”に向った例が多いとされる。

権中納言・中山定親(なかやまさだちか・生:1401年・没:1459年)が日記“薩戒記”の1434年6月条に、将軍・足利義教が“室町殿”を継承した1428年(1月)以降を回想し、彼に拠って処罰、又は、蟄居させられた“公卿”の人々の名前を書き残している。

公卿:59名・・内関白2(近衛忠嗣、九条満輔)大臣6、大納言8、参議4)
神官:3名
僧侶:11名
女房:7名(称光天皇生母を含む)
計:80名

この数字は将軍・足利義教が弑逆(しいぎゃく)される7年前のものである。この時期は1435年6月の“三宝院満済”の死去や翌7月の“山名時熈”の死去の前のものである。つまり、将軍・足利義教の暴走を抑えて来た宿老・重臣達が未だ存命中のデータである。

“万人恐怖政治”はこの記事が書かれた後からエスカレートし、処罰人数は以後、少なくとも、倍以上に上っているであろうと推定される。(日本史研究者・大正大学名誉教授・斎木一馬氏)

更に、上記“中山定親”の記録には“武家・庶民”は含まれていない。“武家・庶民”の実数についての記録は無いが、その数を加えた“万人恐怖政治”による処罰人数は膨大なものであったであろう。

33-(1)ー②:“万人恐怖政治“を象徴する処罰内容(看聞日記)

1430年11月:菅侍従“東坊城益長(ひがしぼうじょうますなが・生:1407年・没:1475年)が足利義教の直衣始(のうしはじめ=関白・大臣などが、勅許を受けて初めて直衣を着用する儀式)で、儀式の最中に一笑した事を足利義教に咎められ、所帯没収の上、籠居(ろうきょ=家の中に閉じこもっている事)となった。

1433年6月:将軍・足利義教の行列が“一条兼良(いちじょうかねら・生:1402年・没:1481年)”の館前にさしかかった時、闘鶏の為に行列が塞がれた。これに立腹した将軍・足利義教は、当時流行していた闘鶏を禁止したばかりでなく、洛中から鶏を悉く追放した。一代の碩学“一条兼良”も譴責を蒙った。

1433年10月20日:室町第の新築工事で、諸方から庭木や石を献上させた。幕府奉公衆の黒田家から献上の梅の枝一本が折れた事で実に八人が処罰対象となり、二人は切腹、三人が逐電した。この事件の後に看聞日記著者・伏見宮貞成親王邸からも木石を献上する事になった。黒田家の前例があったので、五本の松に人夫四五十人を付き添わせるという騒ぎに成った。それでも人夫達は生きた心地がしなかったとの記録が残る。

1435年9月:将軍・足利義教が京都を出発し、伊勢参宮に出掛けた。途中“料理が不味い”事で足利義教の逆鱗に触れた膳部の役人が道中から京都へ追い返された。しかし、京都に戻ると、赦免の内意があった為、喜んで再出仕の誓約書を出し、出仕したところ、召し捕えられ、近衛河原で首を刎ねられたという事件。

騙し討ちの様に処刑するのが将軍・足利義教の常套手段であったとされ、この様に処罰された料理人は大勢いたとされる。処罰の理由は“題目指したる事に非ず“と”看聞日記”に書かれている通り“他愛ない些事“に拠るものが多かった。しかしその処罰方法には将軍・足利義教の偏執的性格が陰惨な形で出たのである。

“日本の歴史・下剋上の時代“の著者永原慶二氏は”愛知県一宮市妙興寺に残る足利義教肖像画の風貌から、神経質でその眼差しからは陰険な人柄が伝わって来る“と書いている。

33-(2):第4代将軍“足利義持”急死直前の“赤松持貞”事件と同じ“赤松惣領家”領地没収策に失敗した事が命取りとなった“将軍・足利義教”

6-14項で記述したが、第3代将軍・足利義満が執った“有力守護大名”の勢力削減策と同様の事を第4代将軍・足利義持が死の直前に行なった。その対象が“赤松満佑”であった。

“四職家”の一つであり、幕府の重鎮であった“赤松氏惣領家”を再びターゲットとした“領地没収策“を、将軍・足利義教が実行しようとしたのである。その結果が“嘉吉の乱”と呼ばれる前代未聞の“将軍・足利義教弑逆(しいぎゃく)事件”へと結びつく。

33-(2)-①:赤松家は“惣領家”と“庶家”とが“別心”である事を、勢力削減策に利用しようとした“将軍・足利義教”

将軍・足利義教は“赤松惣領家”を分断・粛清する策として、惣領“赤松満佑”が持つ父祖相伝の、播磨・備前・美作の守護職を有力庶家に分与するという第4代将軍・足利義持が死の直前に行った方法と同様の事を考えた。

赤松家の有力庶家は“春日部家”(足利尊氏から武功に対し丹波国春日部荘を拝領した赤松貞範を祖とする流れ)や“大河内家”(明徳の乱で武功を立てた赤松満則の流れ)であり、彼等は“室町将軍家”との間に直接的で強固な主従関係を結んでいた。

こうした関係を“建内記”の1441年(嘉吉元年)6月24日条に“伊豆入道(赤松貞村・春日部家)播磨守(赤松満政=大河内家・生年不詳・没:1445年)においては一族といえども、惣領(赤松満佑)と別心“と表現している。

この両名は共に、将軍・足利義教の側近として権力を振るっており“赤松惣領家”と対抗する立場であった。この状況を将軍・足利義教が利用し、赤松満佑の守護職を彼等に分与しようとしたのである。尚“嘉吉記(著者、成立年共に不詳・嘉吉の乱の顛末、並びに播磨赤松氏再興に至る経過を編年式に記した一巻)“には、赤松貞村は将軍・足利義教と男色(同性愛)をもって寵愛されていたと書かれているが、異論を唱える説もある。

下記が“嘉吉の乱”が起きた当日(1441年6月)に“建内記”が伝える記事である。上述した“赤松貞村”と惣領家“赤松満佑”の間の守護職を巡っての対立が“嘉吉の乱”の原因だったと書き、同時に惣領家と庶家一族とは、別心だと言う事を記している。

この度(足利義教の寵臣の)赤松貞村(春日部家3代当主・生:1393年・没1447年)が、惣領である赤松満佑の播磨守護職を競望したものだから(将軍足利)義教は(その希望を叶えようと)そうもくろんだのだという浮説がある。そのようなことなので(赤松)満佑は心ならずも(将軍足利)義教を殺害するという悪逆に出たのだとも言っている。これも浮説だ。伊豆入道(赤松貞村)・播磨守(赤松満政・将軍・足利義教の側近・生年不詳・没:1445~1447年?)においては一族といえども、惣領(赤松満佑)と別心

33-(2)-②:将軍・足利義教が進めた露骨な有力守護“赤松氏惣領家分断政策”が破綻し“嘉吉の乱”へと直結する

1440年(永享12年)3月12日:将軍足利義教が“赤松義雅”の領地を寵臣に与える

“建内記”で“万里小路時房”は“浮説”と断ってはいるが“嘉吉の乱”が起こる前年の1440年3月に将軍“足利義教”は、寵臣“赤松貞村”の嫡子で、側近でもあった“赤松次郎教貞“(生年:1416年・没:1457年)に赤松満佑の弟“赤松義雅”(生:1397年・没:1441年)の領地(播磨国米田村、備前国出石郷、美作国高島荘)を宛行(あてがう)する御教書を発行している(足利義教御判御教書)。

この史料は将軍・足利義教が側近を偏重した事を史実として裏付けるものであり“赤松惣領家”に対する粛清策を裏付けるものであり、決して“浮説(根拠の無い噂)”では無く、将軍・足利義教に拠る露骨な有力守護“赤松惣領家”の分断政策が史実として、実行された証である。

33-(3):“赤松満佑”が我が身に迫る危機と捉えた将軍・足利義教による“一色義貫”(丹後・若狭・三河・山城国の守護)並びに、伊勢国守護“土岐持頼“の討伐

将軍・足利義教は偉大な父・足利義満を真似て“有力守護大名の勢力削減策(6-12項ー2-(1)参照)“を実行して行った。

上述した”赤松惣領家“に対する粛清・分断策もその一貫であった。又、足利義教は、関東の“結城合戦”が繰り広げられる最中に、室町幕府の四職であり有力大名の“一色氏”の討伐、並びに足利義満期に有力守護大名の勢力分断策の対象となり“土岐康行の乱”(1390年閏3月)に追い込み、結果として分断に成功した”土岐康行“を祖父に持つ“土岐持頼”(土岐康行は1391年に許されて伊勢守護に復帰していた)に目を付け、その討伐を行なったのである。

33-(3)-①:“一色義貫”の討伐

1440年(永享12年)5月15日:   

一色義貫(いっしきよしつら・生:1400年・没:1440年5月15日)は丹後(京都府北部)・若狭(福井県南西部)・三河(愛知県東半部)・山城(京都府南部)の四カ国の守護を兼ねる有力大名となっていた。四職の一人として幕政に参加していたが、将軍・足利義教に対しては供奉を放棄する等、対立した事も記録されている。

一族の“一色時家”(生年不詳・没:1477年)が鎌倉公方・足利持氏の家臣であり、上記した“永享の乱・1438年(永享10年)8月~1439年(永享11年)2月”では“大将”として幕府軍と戦ったが敗れ、同族の一色氏を頼って“三河国”に落ち延びたのである。

将軍・足利義教は、この状況を掴み、三河国の守護“一色義貫”が敵の“足利持氏残党”を匿ったとして“一色義貫“を格好の討伐対象としたのである。”一色義貫“は、将軍・足利義教の相伴衆”武田信栄“(たけだのぶひで・生:1413年・没:1440年7月)に拠って誘き出され暗殺された。そして”武田信栄“にはこの功績で若狭国、並びに尾張国知多郡が与えられという粛清策であった。

33-(3)-②:“土岐持頼”の討伐

1440年(永享12年)5月16日:

土岐持頼(土岐世保家3代当主・生年不詳・没:1440年5月16日)は伊勢国守護大名であった。前項6-14項のー5-(4)で“第4代将軍・足利義持”が側近“富樫満成”の報告書を鵜呑みにして異母弟“足利義嗣”に与したとして“土岐持頼”を処分し(本来は父親の土岐康政であったが1418年に没した為)伊勢国守護職を一時召し上げた上、所領数カ所を召し上げた事は既述の通りである。

後に“三宝院満済”の後押しで復帰した“土岐持頼”は、将軍・足利義教時代には、側近として仕えたが、次第に疎んじられ、対立する様になり、将軍・足利義教の命を受けた“長野満藤”(伊勢国中部の有力国人・幕府と後南朝方・北畠満雅の岩田川の戦いで軍功を挙げ、北畠家の一志郡を与えられる)並びに“草生(くさわ)大和守“等に攻められ”三輪“で殺害されたのである。

33-(4):“嘉吉”への改元を喜んだ将軍・足利義教の様子を伝える史料

1441年(永享13年ー嘉吉元年)2月17日:

“改元定”が行われ“永享”は“嘉吉”へと改元された。室町幕府崩壊の著者“森茂暁”氏は、この改元定めで最も注目すべきは“看聞日記”に“室町殿(足利義教)祗候(しこう=謹んで貴人の側近く仕える事)”と記され、又“師郷記”(もろさとき=貴族で大外記の中原師郷の日記)にも”室町殿内々御祗候“と記されている点だとしている。“改元定”の場に“室町殿足利義教“が祗候した事自体、これまでに見られなかった事であった。

同年 2月29日:

“建内記“の記録に将軍・足利義教が”嘉吉は良い年号だ“と語ったとある。この発言、並びに上記“室町殿祗候”の表現から“嘉吉改元”が将軍・足利義教の強い影響下で行われた事を裏付けているとされる。

足利義教が晴れて征夷大将軍に任じられ(1429年・生長2年3月)その半年後の1429年9月5日には、既述の足利義教が強く関与したとされる“永享改元”が行なわれた。そしてその後、将軍として十余年をかけて多くの実績を積み重ねて来たという思いの下に“足利義教”が新たな総仕上げの政治生活に入る決意を込めた”嘉吉改元“であったと言う事である。

34:将軍・足利義教弑逆(しいぎゃく)事件“嘉吉の乱”勃発を伝える史料

34-(1):“建内記”の記事

“嘉吉の乱“に関する史料は多い。中でも”建内記“と“看聞日記”が事件の内容を詳細に書き留めているとされる。下記が“建内記”の記事である。“前代未聞珍事あり”という言葉から始まっている。

この日、西洞院以西・冷泉以南・二条以北にあった赤松教康(あかまつのりやす・赤松満佑子息・生:1423年・没:1441年9月28日)の屋敷で諸敵平定(結城合戦戦勝)の賀宴が催されるという事で、室町殿義教は“未の斜(午後2時過ぎ)”教康(赤松教康)のもとを訪れた。御相伴として管領細川持之、畠山持永、山名持豊、細川持常、大内持世、京極高数等の大名が在席した。余興として猿楽三番が演じられ、盃酌も五献に進んだところで、義教(将軍・足利義教)の座席の後障子が開き、甲冑を着た武者数十人が乱入し、義教を殺害した。
管領以下の着座大名は即座に席を立ち退出したが、大内持世と京極高数の二人だけは抜刀し防戦した。相伴していた権中納言三条実雅は義教の儀礼用の金覆輪の太刀を抜き相防いだ。(足利)義教の近習である細川持春(生:1400年・没:1466年)山名煕貴(やまなひろたか・生年不詳・没:1441年6月24日)は共に激しく渡り合ったが、細川持春は負傷し(片腕を切り落とされる重傷)山名煕貴は落命した。走衆(はしりしゅう=将軍外出のとき、徒歩で前駆を勤め、警固に当たった者)の遠山と下野守とは負疵がもとで帰家して死去した。
赤松教康は屋敷に火をかけ、(将軍足利)義教と(山名)煕貴の頸(首)を剣にさして本拠の播磨へと下国した。これを追撃する者は一人もいなかったそうで、それは言語道断の次第である。また(赤松)教康の父(赤松)満佑は“狂乱”によって去年から出仕していなかったが、被官の富田入道の屋敷にいた(赤松)満佑は(赤松)教康の播磨下国のさいには輿に乗って合流したとの事だ。半更(夜半)ばかりに管領細川持之は使節を朝廷に進め、事件の概要と“若君千也茶丸(後の足利義勝)”の擁立予定の事を奏聞した。

以上であるが、周囲情報も含めて事件状況を補足して説明すると、以下の様に成る。

1441年(嘉吉元年)6月24日、赤松満佑の嫡男“赤松教康”は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子と呼ばれる赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して“西洞院二条”にある邸へ将軍・足利義教を招いた。(注:嘉吉記、成立年代・著者不詳、には鴨の子が沢山生まれたので泳ぐ様子をご覧下さいとの招待内容だったとしている)

この宴に相伴した大名は幕府管領・細川持之、畠山持永、山名持豊(宗全)、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熈貴、細川持春、赤松貞村であった。将軍・足利義教の介入で家督を相続した者達が多く参集したされる。

公家では将軍・足利義教の正室の兄に当たる“正親町三条実雅(生:1409年・没:1467年)“らが随行していた。一同が猿楽を観賞していた時、俄かに馬が放たれ、屋敷の門が一斉に閉じられる大きな物音がたった。

癇性(かんしょう=激しやすい性質)な足利義教は“何事であるか”と叫ぶが、傍らに座していた“正親町三条実雅”は“雷鳴でありましょう”と呑気に答えた。

その直後、障子が開け放たれるや、甲冑を着た武者達が宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者“安積行秀(あさかゆきひで)”がビックリした“将軍・足利義教”が後ろを振り向く間も無く、彼の首を落とした。

庭ではすぐさま将軍・足利義教の護衛と赤松側の家来との間で斬り合いと成った。酒宴の席は血の海と成ったが、足利義教を囲んで座っていた守護大名達は突然の出来事に一瞬言葉を失い、事の重大さに気が付くと、将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して刀を抜く事もせず、裸足で庭に駆け下り、塀によじ登り、逃げ惑う有様であった。

そんな中“足利義教”の近習“山名熈貴(やまなひろたか・石見守護・生年不詳・没:1441年6月24日)”は抜刀して抵抗したがその場で斬り殺され、京極高数(侍所頭人・山城、出雲、隠岐、飛騨国守護・生年不詳・没:1441年6月24日)も同様に戦い、その場で殺された。同じく近習の“細川持春(生:1400年・没1466年)”も奮戦したが、片腕を切り落とされる重傷を負った(彼は1466年まで生き延びている)。

大内持世(大内氏第12代当主・周防、長門、豊前、筑前国守護・生:1394年・没:1441年7月28日)は瀕死の重傷を負い、記録では後日〈7月28日〉死去、公家の“正親町三条実雅”も逃げずに抵抗したが、切られて卒倒したとの記録が残っている(しかし、命を取り留め1467年迄生き延びた)。

34-(2):“看聞日記”の記事

①:“伏見宮貞成親王”の日記“看聞日記”の1441年6月24日条には、事件の第一報は公家 の“正親町三条実雅”に拠って(上記の様に斬られて卒倒したにも拘わらず)伏見宮家に伝えられたとし、その様子を“晩に及び屋形喧嘩出来云々、・・・三条(実雅)手負て帰る”と書き出している。

②:夜に赤松満佑の実弟“赤松義雅”(伊予守・1440年3月に将軍・足利義教に拠って彼の所領が全て没収された事が兄・赤松満佑の将軍・足利義教に対する憎悪を高めたとされる・生:1397年・没:1441年9月9日)の屋形が炎上したと記している。これは、家人どもが家を自焼した為と伝えている。

③:事件発生後、直ちに逃げ出した者については“建内記”では“管領已下着座の諸大名”と記しているが“看聞日記”の1441年6月25日条(事件の翌日)には“管領(細川持之)、細川讃州(細川持常)、一色五郎、赤松伊豆(貞村)ハ逃走“と名前を挙げて伝えている。

④:同じく、事件の翌日1441年6月25日条に“赤松満佑”側が播磨国に逃げる迄の事件現場の様子を下記の様に伝えている。

“御前において腹切る人無し、赤松落ちて行く、追い懸けて討つ人なし、未練は謂量なし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり、所詮赤松討たるべき御企て露顕の間、さえぎって討ち申すと云々、自業自得、果たして無力の事か、将軍かくのごときの犬死、古来その例を聞かざる事なり

34-(3):上記2つの日記から“嘉吉の乱”を総括する

“室町幕府崩壊”の著者“森茂暁”氏は上記“看聞日記”の記述内容と“建内記”の記述内容から“嘉吉の乱”の背景にあった事柄を含めてこの事件について、下記の様に総括している。

①:“建内記“にある様に、同じ赤松一門でも”赤松義雅“の様に赤松満佑と同一歩調をとった者(赤松惣領家派)と”赤松貞村“(赤松氏庶流春日部家4代当主・将軍足利義教近習・妹が将軍側室・播磨守護職を巡って嘉吉の乱の原因となる・生:1393年・没:1447年?)の様に、赤松庶流家で且つ、将軍・足利義教の側近派の正反対の立場の二派があった。

②:“伏見宮貞成親王”は“看聞日記“で”赤松満佑”が引き起こした事件の背後に諸大名の同意があったのではないかとの考えを記している。文中“赤松満佑は将軍・足利義教に拠って討伐される手はずと成っていたから、赤松満佑としては討伐される前に先手を取って足利義教を討ったまでの事で、将軍・足利義教として自業自得の結果であるとの感想なのであろう。

③:“伏見宮貞成親王”が“看聞日記”で最後に書いた“将軍かくのごときの犬死、古来その例を聞かざる事なり”の彼のコメントはこの“嘉吉の乱”の性格を端的に表現している

上記“嘉吉の乱の性格”とは、その後の“赤松討伐”の遅々とした動きが象徴する様に、周囲には、将軍・足利義教の政治姿勢に対する批判が沈殿していた事、並びに、将軍権力(幕府権力)自体も衰えていた事を伝えようとしている。

鎌倉府の閉鎖に至った“永享の乱”は関東地域に於ける室町幕府の統治力を失わせ、権力の地域分散化を助長しており、土一揆の頻発に見られる様に、日本にも社会構造の変化が起きていたという事もこの事件の時代背景にはあった。

35:事件後に“赤松満佑”一派は“領国播磨国”へ落ちる事を決断する

“看聞日記”の中で“伏見宮貞成親王”は将軍・足利義教が目の前で弑逆されるのを見乍ら“赤松一派”を追撃する動きも、腹を切る動きも大名の中に起らなかった”暗殺現場“の状況を嘆いている。

そればかりか“赤松討伐”の為の幕府としての軍事行動も、なかなか立ち上がらなかった。幕府管領・細川持之は旗を振ったが、大名達は重い腰をあげようとしなかった。この状況を“看聞日記”で“伏見宮貞成親王”は“諸大名同心か”と書いている。それもあながち有り得ない事では無かったと思わせる“赤松討伐”に対する幕府側の緩慢な動きが続いたのである。

事件当日、幕府管領“細川持之”始め、多くの大名達は自邸に逃げ、門を閉じて引き籠って了った。その理由として“赤松満佑”一派が、将軍暗殺という前代未聞の大事件に及んだ裏には、必ず同心する大名達がいるに違いないと考え、パニックの中にも、その後の形勢を見極めていたからだとされる。しかし、結果としては“赤松満佑”一派による“単独犯行”であった。

“赤松満佑”始め、一族の者達は直ぐに幕府軍の追手が来るものと考え、屋敷で自決を覚悟したと伝わる。しかし夜になってもその気配は無く、幕府の追手が来ない事を知ると、領国の播磨国に下り、幕府に抵抗する事を決め、屋形(邸)に火を放ち、事件の中心的役割を果たした“赤松教泰”が将軍・足利義教の頸を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京から退去したのである。

この様子は1702年(元禄15年)12月に、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首を挙げ“大石内蔵助”以下“赤穂四十七士”が隊列を組んで“泉岳寺”まで引き挙げた姿を思い起こさせる。

実際に、事件直後に“赤松満佑”一派を追撃しようとする大名は一人も現われなかった。“建内記”の中で“万里小路時房“は“言語道断の次第也”と嘆いているが、この史実から“将軍・足利義教弑逆(主君や父を殺す事)“が大名達に寧ろ歓迎される一面があったとの説も生れている。

事件が起こる前に書かれた“建内記”1441年(嘉吉元年)4月8日条に“島津は赤松と知音(ちいん=心の底まで理解し合った友人・親友)“という表現がある。これは”赤松満佑“には彼を支持する親しい特定の大名が居たと言う事を伝えており、又、事件直後の同日記の1441年7月1日条に“しかるに今、普広院殿(足利義教の戒名・普広院殿善山道禅定門の事)薨御(こうじたもう)の間、人々恩赦の時分“と書かれている。

この事からは、当時の社会風潮として、6代将軍・足利義教の恐怖政治を軌道修正し、彼に拠って理不尽に処分された人々を恩赦する方向の流れもあったと考えられると“室町幕府崩壊”の中で森茂暁氏は述べている。

36:“嘉吉の乱“後の室町幕府側の緩慢な対応が”赤松満佑“一派に、戦闘体制を整える時間を与えた

暗殺事件直後の“赤松満佑”一派討伐に対する幕府管領・細川持之、並びに有力大名達の動きは極めて緩慢だった。6月24日に突如起きた将軍・弑逆(しいぎゃく=主君を殺す事)という前代未聞の事件後に幕府管領以下諸大名の動きが緩慢であった理由は、上述した様な状況が背景にあった訳だが、独裁政治を強行していた将軍が暗殺された後に、突如幕府運営を担わされる立場に成った幕府管領“細川持之”にとっては荷が重く、思い切った方策を打ち出せなかったというのが実態であった。

37:播磨国に逃げた“赤松一派”追討よりも“第7代将軍”の擁立、周囲の動揺防止策、並びに“葬儀”を優先させた“幕府管領・細川持之”

37-(1):播磨国に逃げた“赤松一派”と将軍・足利義教の“首塚”

父・赤松満佑(三尺入道と呼ばれた低身長症・生:1381年・没:1441年9月10日)並びに叔父の赤松則繁(あかまつのりしげ・赤松満佑の弟・生:1400年・没:1448年8月)と共に将軍・足利義教暗殺の中心的役割を果たした当時満18歳の赤松教康(生:1423年・没:1441年9月28日)は弑逆した将軍・足利義教の頸を槍先(別説には剣にさして)に掲げて播磨国に落ちたとされる。首塚については2ケ所の説がある。

37-(1)ー①:安国寺の“足利義教首塚”説と訪問記・・2018年9月20日

大阪市内でレンタカーを借り、雨の中朝9時頃に出発し10時半頃には安国寺のある兵庫県加東市新定に到着した。実はこの史跡訪問は2016年9月10日(土曜日)に電車を使って行った事がある。しかし“小野駅”迄は辿り着いたが、安国寺までのバスの便が見当たらずタクシーは長距離となる為、史跡訪問を諦めた苦い経験があった。この史蹟訪問は車の使用をお勧めする。

“播磨国安国寺”は足利尊氏、直義兄弟が後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者慰霊と天下太平を祈願して日本全国68ケ所に建立した中の一つである。1339年に創建された足利家ゆかりの寺であり、写真で示す様に今日の姿は改修され新しい。


(臨済宗妙心寺派・安国禅寺)
(2007年=平成19年に建立された鐘楼)


境内裏にある首塚である“宝篋印塔(ほうきょういんとう)”は当時の完全な形で保存されており、室町時代中期の優れた石造物として加東市の重要文化財に指定されている。
当寺の記録によると“赤松満佑”一行は、先ず“堀殿城”に帰り、其処から足利義教の首を大行列で安国寺に運び、播州の禅僧を多数集め、盛大な法要を営んだ後、葬ったとある。
足利義教の首はその後、京に戻されたとの説があり、それが、大阪の崇禅寺の首塚として伝わっている。(後述)


(1985年=昭和60年に加東市の指定文化財となった宝篋印塔)

37-(1)ー②:もう一つの首塚“崇禅寺”説と訪問記・・2018年11月1日

2018年11月1日(木曜日)に大阪市東淀川区東中島にある“崇禅寺”を訪ねた。新大阪駅の東口から出て徒歩10分程の処である。

“崇禅寺”は天平年間に大阪に生まれた法相宗の“行基(生:668年・没:749年)“によって創建された。“赤松満佑が足利義教の首を携えて播磨へ下る途中で“崇禅寺”森の観音堂付近にその首を埋めたとの記録もあり又、上記“播磨国安国寺”訪問記で触れた様に足利義教の首は(京)に戻されたとの説もある。

京都の“十念寺”には“足利第6代将軍の胴塚”がある。従って“足利義教の首が(京?)戻されたとの説の行き先は“十念寺”かと考えたが“十念寺”関係の史料にはそうした記録は無い。従って足利義教の“首”が京に戻されたとの話は、それが何らかの理由で大阪の“崇禅寺”に移され、埋葬され、今日“首塚2カ所説”を生んだという事であろう。


(新大阪駅の近くにある崇禅寺。観音堂付近に足利義教の首は埋められたとされる。細川ガラシャの墓と並んでいる)

37-(2):評定で“7代将軍擁立”と“赤松討伐”が議論される

事件のあった当日、幕府管領“細川持之”は22歳だった後花園天皇(第102代・在位1428年~譲位1464年・生:1419年・崩御:1471年)に“若君御座(後の第7代将軍足利義勝・生:1434年・没:1443年)ゆえに天下は安穏に戻るのでご心配には及ばない”と奏上している。

1441年(嘉吉元年)6月25日:

後花園天皇を安心させた翌日、幕府管領・細川持之は諸大名との評定を行ない①若君(千也茶丸=後の足利義勝)の第7代将軍への擁立②西国発向の事(=赤松討伐の為に播磨に軍を向ける事)を議論した記録が残る。

同年 6月26日:

この日付の“足利将軍御内書奉書留”には、幕府管領・細川持之から上杉・千葉・小山氏等の東国の有力守護達に①“赤松邸“での将軍・足利義教弑逆事件の発生②”京都の事、若公様(千也茶丸=後の足利義勝)御座の上は毎事無為無事“と、安心する様にとのメッセージを伝える事で、彼等の軽挙妄動を防止する為の措置を講じた記録が残されている。

幕府管領・細川持之は更に①“香厳院清師”(足利義満の庶子。足利義教の異母兄だが、母親の身分が低かった為、後継者から外され、尊満を名乗っていた・生:1381年・没:不明)②“梶井義承”(足利義満の子、足利義教の異母弟。足利義持没後、籤引き将軍後継候補に挙げられた一人。生:1406年・没:1467年)③“景徳寺永隆”(足利義満の子、足利義教の異母弟。彼も籤引き将軍後継候補に挙げられている。生:1403年・没:1442年)更に④“足利義嗣”の遺児(名不詳)の計四人を、この混乱に乗じた“赤松満佑”等の野心家が擁立する事を避ける為“鹿苑院”に身柄を移す予防策を講じている。

37-(2)ー①:進まない幕府に拠る“赤松満佑追討軍”編成の動き

1441年7月4日:

将軍暗殺から10日程が経ち、幕府管領・細川持之は“将軍家御教書”を奉じて、赤松満佑・赤松教康以下を退治せよとの進発命令を“小早川・吉川・益田”等の中国地方の国人達に出した記録が残る。

しかし、有力大名達の動きは尚も緩慢であり、討伐軍の編成は容易では無かった。幕府管領・細川持之に対して、暗殺事件の現場で戦う事もせず、真っ先に逃げ出した臆病者との嘲笑に加えて、赤松満佑と同心しているとの噂まで流れる始末で、幕府のリーダーシップは地に堕ちていたのである。上記醜聞下、幕府管領・細川持之は、何よりも将軍・足利義教暗殺事件後の大混乱状態に乗じて、造反行動が起る事への警戒と諸対応に精一杯で、討伐軍の編成にまで及ばなかったのが実情であったと言える。

独裁政治を強行していた“将軍・足利義教”を突如失った室町幕府が、幕府管領・細川持之のリーダーシップ欠如に拠って“機能停止”に陥っていたと言える状態であった。室町幕府は求心力喪失と共に団結力を欠くという未曽有の事態に、幕府管領・細川持之主導の“赤松追討軍”発遣はかなりの遅れを生じていたのである。

こうした状況の全てを、幕府管領・細川持之のリーダーシップ欠如に負わせる訳には行かない。室町殿としての“足利義教”自身が、公武社会からの全幅の信頼を得ていなかった事も未曽有の暗殺事件であるにも拘わらず、幕府が追討軍を早急に組織化する事を阻んだ大きな要因でもあった。

37-(3):厳重な警戒下で執り行われた足利義教の葬儀

1441年(嘉吉元年)7月6日:

この日になって漸く“普廣院殿御葬礼”つまり足利義教の葬儀が“等持院”で営まれている。この葬儀には幼少の為もあってか足利義教の子息を一人も参列させていない。千也茶丸(後の7代将軍・足利義勝)は7歳になっていたから彼が参列しなかった理由は幕府管領・細川持之が安全確保の為の配慮だったと思われる。

こうした状況を“建内記”は“武家大名当時物装忩(=危険)の間、面々斟酌すべきの由、(幕府)管領これを相示し只一身参入すと云々“と記述している。葬儀に関して、幕府管領・細川持之が全てを代行するという厳重な警戒下で行われたのである。

37-(3)-①:“赤松討伐軍”を直ちに編成しなかった幕府の対応を批判した公卿達

公卿達は“足利義教”の葬儀に参列したが、武家大名で参列したのは幕府管領“細川持之”一人だけであり他は誰も参列していない。その理由は“今は物騒な時期であるから、参列を控えよ”と幕府管領・細川持之の指示があったからである。

暗殺事件直後の6月26日に、幕府管領“細川持之”が“足利義満”の男子4人の身柄を“鹿苑寺”に移した措置について記したが、将軍・足利義教の葬儀が厳重警戒下で行われた同日の“建内記”の7月6日条には“赤松誅罰の事、発向遅引慮外の事なり、今月中少々進発すべしと云々“とある。

この記事からは、幕府が”赤松追討軍“を事件から10日以上も経ったのにも拘わらず、一向に編成出来ていない事を、公卿で武家伝奏を務めた”万里小路時房“が批判した事が分かる。例え批判されようとも、慎重派の幕府管領・細川持之としては、大名達の中から造反者が出る事を何よりも心配し警戒していたのである。

38:幕府管領・細川持之が考えた“赤松討伐軍編成”の促進策・・“赤松惣領家”の守護国を分捕る事を容認した

幕府管領・細川持之としても“赤松討伐軍”の編成が進まない事に頭を痛めていた。そこで、苦肉の策として、追討軍編成促進の為のインセンテイブ策を考えたのである。それは、“赤松満佑”の守護国(播磨・備前・美作)を、赤松誅伐に際して軍功を挙げた者に与えるという策であった。

この策は“赤松討伐軍編成促進”には効果を上げる事になる。しかしこの結果 ”赤松討伐軍“は名目上は“将軍足利義教の弔い合戦”ではあったが、実態は“赤松守護国の分捕り合戦“という形と成った。

38ー(1):“嘉吉の乱”の原因となった庶家“赤松貞村”が“追討軍先遣隊”として播磨国に進発する

1441年7月10日~11日:

“赤松家”の惣領家と庶家が“別心”であった事を“将軍・足利義教”が赤松家を分断する策として用いた事は“建内記”にも書かれている。

赤松家庶家の春日部家“赤松貞村”(生:1393年・没:1445年~1447年?)は将軍・足利義教の近習となり、重用され、更に、妹が足利義教の側室と成って男子を生んだ事で彼の幕府に於ける権勢は、益々強大に成って行った。

そして、将軍・足利義教が“赤松満佑の播磨守護職を赤松貞村に与える“との噂話が流れるに到り、この事が”嘉吉の乱”の発端となった事は既述の通りである。その“赤松貞村”を、幕府管領・細川持之が今回の追討軍の先遣隊として発進させる事にしたのである。

尚、この先遣隊は、阿波国守護で将軍・足利義教の相伴衆であった細川持常(生:1409年・没:1450年)が大手軍(敵の正面を攻撃する軍勢)を指揮し、上記した赤松貞村(庶流春日部家3代当主・将軍近習・生:1393年・没:1447年)並びに“赤松満政”(将軍近習の最右翼であった・生年不詳・没:1445年)等、主として近習家臣による編成であった。

同年 7月25日:

“細川持常”指揮下の大手軍、並びに“赤松貞村”軍は、摂津国西宮まで進軍した、しかし大手軍の事実上の総大将は“山名持豊(宗全)”であり、その総大将がなかなか京を進発しない状態である等、士気は低かったと伝わる。こうした状況に“赤松教康”軍が付け入って幕府軍に夜襲を掛けたが結果的に失敗し退却した。

39:“赤松満佑”側の幕府軍への対抗措置

39-(1):“赤松満佑”軍は大将として“足利直冬”の孫“足利義尊”を擁立して対抗する

足利義尊(あしかがよしたか・生:1413年・没:1442年3月)は南北朝時代に中国地方を中心に反幕活動を繰り広げた“足利直冬”(実父・足利尊氏・養父足利直義・生:1327年・没:1387年説と1400年説あり)の孫(父は足利冬氏・生没年不詳)であり、赤松満佑に拠って大将に擁立された時の年齢は満28歳であった。

“建内記”には、禅僧であったが播磨国に潜伏、赤松満佑に拠って幕府の追討軍を迎え撃つ為の大将に擁立され還俗して“坂本城”(南北朝時代に赤松円心に拠って築かれた城。姫路市書写)に入ったと書かれている。尚、足利義尊には同じく僧籍に居た弟“足利義将”(生年不詳・没:1441年7月21日)が居り、彼も還俗して備中から播磨国に逃れる際に備中守護の“細川氏久”に討ち取られている。

赤松満佑が擁立した“足利義尊”はあくまでも旗頭に過ぎず、味方を増やす為の道具であった事は明らかで、彼が武将として陣頭に立つ事は全く期待されていなかった。それを裏付ける様に、坂本城から東坂本の定額寺に移り、そこで連日酒宴・猿楽・連歌を楽しんでいたと“赤松盛衰記”に書かれている。

40:幕府側の“赤松討伐軍”の主戦力が漸く整う

40-(1):幕府管領・細川持之の“インセンテイブ策”が奏功し、利害の大きい“山名持豊(宗全)”が重い腰を挙げる

“赤松討伐大手軍”の実質的総大将は“山名持豊(宗全)”であったが既述した様になかなか京を出発しようとしなかった。しかし“赤松惣領家(満佑)”と領地を接している“山名持豊(宗全)”にとって、幕府管領・細川持之が伝えた“赤松満佑”の守護国(播磨・備前・美作)を赤松誅伐に際して軍功を挙げた者に与えるとの“インセンテイブ策”が“山名持豊(宗全)”を動かした。

1441年(嘉吉元年)7月28日:

山名持豊(=宗全・生:1404年・没:1473年)は、同族の山名教清(生没年不詳)山名教之(やまなのりゆき・生年不詳・没:1473年)そして嫡男・山名教豊(やまなのりとよ・生:1424年・没:1467年)を率いて漸く京を進発、大手軍と合流した。

山名持豊は今回の“赤松満佑・赤松教康父子追討綸旨”が発給される以前から幕命を無視して、自らの守護代を播磨国に送り込み、赤松領国を横領していた事を“万里小路時房”が糾弾した記事を“建内記”に残している。

今回の“赤松討伐軍編成”は言わば“赤松領国横領”が幕府に拠って公認された事を意味した。山名氏が諸大名の中で最も”赤松討伐“に意欲を燃やしたのは言わば当然だったのである。

41:権威失墜の室町幕府の状態に、幕府管領・細川持之が用いた窮余の一策“天皇家権威”の活用

“赤松討伐軍”の編成が進まない事に頭を痛めていた幕府管領・細川持之が、苦肉の策として“追討軍編成促進”の為のインセンテイブ策として“赤松満佑”の守護国を軍功を挙げた者に与えるという策を打ち出した事で、漸く、大手軍の実質的大将の“山名持豊(=宗全)”が京を進発した事は既述した。

慎重派の“幕府管領・細川持之は更に、インセンテイブ策の“二の矢”として“後花園天皇”に“赤松満佑・赤松教康父子追討綸旨”を要請する事で、なかなか動かない諸大名の“赤松討伐軍”への参加を促そうと考えたのである。

41-(1):“赤松討伐軍”への参加に動こうとしない“同族”に苦言と進発督促の書状を出した幕府管領“細川持之”

幕府管領・細川持之が“赤松討伐軍”の編成に如何に頭を痛めていたかが分かる貴重な史料が、一族の“細川教春“に対して出した苦言と進発督促の書状である。

1441年(嘉吉元年)8月12日

“細川教春”(細川野州家3代当主・丹後国守護?・生没年不詳)は父の代からの将軍・足利義教の側近であり、幕府管領“細川持之”の一族である。彼の父・細川持春(生:1400年・没1466年)は、暗殺事件の現場に居り、奮戦し、片腕を切り落とされる重傷を負っている。管領・細川持之が苦言を呈した“細川教春”が事件現場に同席していたかどうかは情報が伝わらない。

この書状からは、事件後50日近くも経った時点でも尚、幕府管領の一族で、しかも将軍・近習だった“細川教春”が討伐軍として腰を挙げようとしなかった史実を知る事が出来ると同時に、将軍暗殺という大事件直後の室町幕府が如何に統率力を失っていたかが分かる。

文面は“再三出陣催促をしているが、未だに貴方にその動きが無い。どの様な事情があるのか。このまゝ(近習の細川教春の)在国が延引し動かないならば、外聞が悪いし他家の面々に対する出陣催促も出来ないではないか“と一族としての苦言を呈し、出陣催促をしているのである。

御出陣の事、度々に及び申し候の処、今において其儀なく候・・いかよう子細候や・・外聞実儀然るべからず候

幕府管領の一族でさえ、この様な状況であったのだから、他家の武将達が幕府管領・細川持之の出陣要請に冷ややかな態度であった事が裏付けられる史料である。

41-(2):日本の特異性である“天皇家権威”の活用策を思いついた”幕府管領・細川持之“

こうした状況を打開する窮余の一策“二の矢”として“幕府管領・細川持之”が用いた策が“後花園天皇”に“赤松満佑・赤松教康父子追討綸旨”の発給を要請する事であった。後花園天皇が承諾した事で“赤松満佑”一派は“朝敵”となった。綸旨の効果は大きく諸大名も重い腰を挙げる事になったのである

1441年(嘉吉元年)7月26日:

“建内記”に、将軍・足利義教・暗殺事件が起こってから1カ月以上経って、幕府管領“細川持之”が“後花園天皇”に“赤松満佑・赤松教康”父子追討の綸旨を申請した事が記されている。

室町幕府の権威が堕ち、室町幕府第6代将軍・足利義教が家臣に暗殺されるという“室町幕府内“での問題にも拘わらず、幕府管領の命令では最早動こうとしない諸大名に対して“日本の岩盤”の様に保たれている“天皇の権威”を借りようと思い立ったのである。

“赤松討伐”は明らかに“至強(将軍・室町幕府・守護大名)勢力”内の問題であった。しかし将軍は暗殺され、新将軍として“足利義勝”を擁立するするにしても、この時点では未だ満7歳であり、しかも将軍宣下も受けていない緊急事態であった。言うまでも無く、幕府管領・細川持之の下知では、諸大名がなかなか動かない事は“赤松討伐軍”編成の遅れを見ても明白であった。

こうした政治局面で幕府管領“細川持之”は”天皇の権威“に頼り、利用を考えたのである。幕府管領・細川持之が“後花園天皇”の権威を借りるべく、綸旨を要請した事に関して“建内記“1441年7月26日条には下記の様に記されている。 

(足利義勝が)御少年の自分の間、管領下知人々所存いかん、心元なきの間、綸旨を申請すべきの由、管領(細川持之)これを申す

41-(3):“後花園天皇”は、綸旨発給に大乗り気であり、自ら添削を加えた“治罰綸旨”が発給された

1441年(嘉吉元年)8月1日:

“至強(将軍・室町幕府・武士層)勢力”の内部問題、即ち“室町殿”の家臣である赤松氏を討つのに天皇の“綸旨”を申請する事は出来ないのではないか等の議論も出たとされる。

しかし“永享の乱(1438年)”の際にも将軍・足利義教は“後花園天皇”の綸旨を要請し発給された経緯を前例として天皇に申請する運びとなった。下記が“建内記“に書き写された”綸旨“である。

被綸言偁、満佑法師並教康、構陰謀於私宅、忽乱入倫之紀綱、拒朝令於播州相招天吏之
干戈然早発軍旅可報仇讎、尽忠国、到孝於家、唯在此時、莫敢旋日、兼亦与彼合力之輩、必可被処同罪之科者綸言如此、以此旨可令申入給、仍執達如件、
八月一日   左少弁俊秀(坊城俊秀)
謹上  右京太夫殿(細川持之)

“満佑法師(赤松満佑)並教康(赤松教康)”と名を綸旨に入れる事でインパクトを強める等、幕府と朝廷の間で種々の議論の末に文章が確定し、坊城俊秀(公卿・生:1423年・没:1465年)が執筆したと記録されている。

当時22歳で血気盛んな第102代後花園天皇(在位1428年~譲位1464年・生:1419年・崩御1471年)は綸旨発給に大乗り気だったと伝わる。その理由は室町幕府が“赤松追討軍”の発進に遅滞していた状況を憂慮していた事、並びに先の鎌倉府討伐の“永享の乱”の際に“綸旨”を発給した事で幕府側を勝利に導いたという“綸旨発給効果”への“後花園天皇”の自負が自ら文章添削を行う程に肩入れをさせたと伝わる。

42:赤松討伐軍の編成が漸く軌道に乗った一方で、その隙を狙った“嘉吉の土一揆”の勃発が室町幕府に更なる打撃を加えた

天皇家の権威にすがり“赤松満佑・赤松教康父子追討綸旨”の発給を“後花園天皇”から得る等、インセンテイブ諸策を講じて、漸く幕府の“赤松討伐軍”が兵庫へ出征した。

こうした一連の対応で明らかな様に、将軍を暗殺され“権威”を失墜した“室町幕府”であった事から、この時点の幕府の運営は有力守護大名に拠る“合議制“が復活していたのである。

こうした”弱体化“した室町幕府に対し、土民(庶民)達は、幕府の“赤松討伐軍”の兵庫出兵の隙を突いて“嘉吉の土一揆”を決行した。

42-(1):“嘉吉の徳政一揆”・・1441年8月~同年閏9月

1441年(嘉吉元年)8月:

将軍・足利義教弑逆(しいぎゃく)事件が起き、強烈な指導者(将軍・足利義教)を失ない、室町幕府が右往左往した末に、上述した経緯を経て漸く“赤松満佑討伐軍”を編成し、兵庫に出征、討伐の戦闘中という“政治混乱”の隙を突いて、地侍が指揮を執り“土一揆”を起こしたのである。

“土一揆”は先ず“近江国”で“馬借”を中心に起きた。近江国守護の“六角満綱”(ろっかくみつつな・近江国守護・生:1401年・没:1445年)は、農民に限定した徳政令を発布する事で事態の早期収拾を図った。

同年 8月28日:

しかし乍ら“土一揆”は山城国(京都南部)に広がり、清水坂で“京極持清“(侍所頭人・兄の京極持高が歿し、後を継ぐ・山城、出雲、隠岐、飛騨、近江の守護・生:1407年・没:1470年)との戦を皮切りに拡大して行った。“土一揆”側の要求は、将軍が暗殺された事に拠って新しい将軍に代わる事に対する“代始めの徳政令”であったという。

同年 9月5日:

京都を中心に“土一揆”は数万規模に膨れ上がり、東寺、北野社、清水寺を占拠し、更に丹波口、西八条を封鎖し16ケ所に陣を置いた。京を包囲して攻撃した為、物資の搬入が停止し食料不足が起ったという。又、酒屋、土倉、寺院への襲撃も続けられた。

同年 9月12日~閏9月:

“土一揆”側は、幕府が発布した土民に限った徳政令を、公家や武家も含む“一国平均の徳政令”を要求する事で支配者層の支持をも得る事を図った。経験を積み重ねるに従って“土一揆”側の“統制力と政治判断力“は増し、幕府側との対応、交渉術で、その高さが評価されるものであったとされる。その結果として1441年閏9月には、室町幕府に“一国平均の徳政令”を飲ませる事に成功したのである。

13年前の“生長の土一揆(1428年9月)”では公式な徳政令を出さずに済んだ“室町幕府”であったが、今回は“一国平均の徳政令(1441年閏9月)”を出さざるを得ない状況に追い込まれ、幕府の権威は更に傷ついたのである。

43:戦いに敗れた“赤松満佑”が自害する・・“嘉吉の乱“の終結・・1441年9月10日:

1441年(嘉吉元年)8月19日:

“赤松満佑”討伐は、上記した“嘉吉の徳政一揆”とほゞ同時並行的に行なわれた。摂津(大阪府北部・兵庫県南東部)の大手軍が動き、細川持常(相伴衆)、赤松貞村(将軍近習)は陸路から、細川持親(細川淡路守護家5代当主)は海路から塩屋(神戸市)の“赤松教康“の陣を攻撃。赤松教康軍が“蟹坂”へ後退した為、大手軍は“播磨(兵庫県西部)”に入った。

同年 8月24日~25日:

“赤松教康”軍は逆襲に出たが、幕府軍が“蟹坂”の陣を攻撃した為“坂本城(姫路市書写)”へ退却した。

同年 8月28日:

大手軍の実質的な総大将である“山名持豊(宗全)”は4500騎をもって但馬(兵庫県北部)播磨(兵庫県西部)国境にある真弓峠(=生野峠・・兵庫県朝来市)に攻め込み“赤松義雅“(赤松満佑実弟・生:1397年・没:1441年9月9日)軍と交戦し、28日には真弓峠(=生野峠)を突破し、赤松義雅を追って進軍した。

同年 8月30日:

“山名持豊(宗全)”軍と“赤松義雅”軍が田原口(兵庫県)で決戦と成り“赤松義雅”軍は敗走した。

同年 9月1日:

幕府方の“山名持豊(宗全)”軍は坂本城(姫路市書写)に到り、ここで“細川持常(相伴衆)”軍と合流し“坂本城”を包囲した。

同年 9月3日:

“赤松満佑”は城を捨て、城山城(きのやまじょう・兵庫県たつの市にあった城で赤松則佑が足利義詮に仕えた時期に南朝への備えとして1353年に築城した山城)へ移った。一族と共に籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。

同年 9月9日:

“赤松義雅”は逃亡し幕府軍に降伏。この状況に播磨の国人の多くが“赤松惣領家”を見放し、逃げたと伝わる。

同年 9月10日:

幕府軍が総攻撃を行う。覚悟を決めた“赤松満佑”は嫡子“赤松教康”や実弟“赤松則繁”を城から脱出させ切腹した。ここに“嘉吉の乱”は終結したのである。

44:“赤松惣領家討伐”後の状況について

44-(1):“赤松満佑”領地の分割

①:山名持豊(宗全)・・播磨国守護職を与えられる
②:山名教之・・赤松満佑の首を挙げた功績で備前国の守護職を与えられる
③:山名教清・・美作国守護職を与えられる
④:細川持賢・・幕府御料所となった摂津中島郡の分郡守護職を与えられる
⑤:赤松満政・・播磨国の明石・加東・美嚢三郡の分郡守護となるも“山名持豊(宗全)”が播磨国一国支配を要求した為1444年に失脚する。

44-(2):赤松惣領家

1441年(嘉吉元年)9月28日:

赤松満佑が逃がした嫡男“赤松教康“は義父の”大河内顕雅“(おかわちあきまさ・生没年不詳・伊勢国司北畠家第4代当主・北畠満雅の弟)を頼ったが拒否され自害している。

1442年(嘉吉2年)3月:

足利直冬の孫とされる“足利義尊”が赤松満佑に拠って名ばかりの大将に擁立された事は述べた。“赤松満佑”は 彼も城外に逃がしたが、其の後の話は噂の域を出ない。一説に諸方を転々とし再び僧侶に戻り、第15代幕府管領“畠山持国”(在職1442年~1445年・生:1398年・没:1455年)に保護を求めたが、畠山持国が家臣に命じて討ち取ったと伝わる。

城山城から逃亡した赤松満佑の実弟“赤松義雅”は将軍近習であった赤松満政の陣に出頭したが許されず自害して果てた。もう一人の実弟“赤松則繁(生:1400年・没:1448年8月)”は、李氏朝鮮に渡った後帰国し、河内で潜伏していた処を幕府に知られ、1448年8月8日に自害したと伝えられる。

45:足利義教の胴塚“十念寺”と訪問記・・2018年11月28日

“十念寺“は京都市上京区にある寺で1431年に足利義教が後亀山天皇の皇子”真阿上人(しんなしょうにん)“に帰依し建てた寺とされる。京都駅から地下鉄烏丸線に乗り、今出川駅下車。相国寺を横断する形で鴨川方面に歩き、寺町通りを左に折れると直ぐに“十念寺“が現われた。

すぐ隣に“清玉上人”が1582年6月2日の本能寺の変で命を落とした織田信長、織田信忠父子、並びに家臣有余名の遺骨を埋葬したと伝わる“阿弥陀寺”がある。


(十念寺は1431年に後亀山天皇の皇子・真阿上人が将軍足利義教の帰依を受けて創建した)

室町幕府第六代将軍・足利義教は1441年(嘉吉元年)6月24日に赤松満祐の嫡子・赤松教康の屋敷で弑逆された。これが史実である事を、上記墓石に刻まれた日付を読む事が出来た事で確認した。

写真では不鮮明だが、写真の慕石の黒い部分をよく見ると確かに“六月廿四日”と、弑逆された日が刻まれているのが分かる。


上記足利義教の胴塚墓石の下部を接写したもの。

戒名は“普廣院殿善山道恵禅定門”である。右側に刻まれた文字を良く見ると“普廣院殿”の文字がはっきりと読み取れる。

左側は黒く変色して極めて読みづらいが目を凝らして見ると足利義教が弑逆された“六月廿四日”と刻まれている文字が読み取れる。

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